第壱頁 大津皇子……呪殺する相手が違うって!

怨霊にされた人 壱
名前大津皇子(おおつのみこ)
生没年天智天皇二(663)年〜朱鳥元(686)年一〇月二五日
身分皇族
理不尽な仕打ち謀反の濡れ衣と刑死
怨めしい相手鵜野讃良(持統天皇)、川島皇子
「怨霊の影響」草壁皇子急死
略歴 天智天皇二(663)年、九州の那大津で。天武天皇の第三子として誕生(『日本書紀』による。『懐風藻』では長子)。
 体格や容姿的にも逞しく、性格は寛大で幼少時から学問・読書を好み、知識は深く、見事な文章を書いた。成人してからは、武芸にも優れ、自由奔放でありながら謙虚で、人士を厚遇したゆえ、その人柄を慕う者は多かった。

 父である天武天皇には天智天皇の皇女が四人嫁いでいて、中でも大津皇子の母・大田皇女は、同じ天武天皇の妃だった鵜野讃良(うののさらさ。持統天皇)よりも姉だったので、本来なら大田皇女が皇后に、大津皇子が皇太子になる可能性は充分にあった。
 だが大田皇女は大津皇子がまだ四歳だった天智天皇五(666)年頃に死去し、大津皇子は政治的な後ろ盾を持ち得なかった。そんな中でも天武天皇を初め、才能・人格的に大津皇子を後継者にと考える者は多かったが、鵜野讃良のごり押しにより、天武天皇一〇(681)年に異母兄・草壁皇子(勿論鵜野讃良の実子)が皇太子に内定した。

 だが大津皇子に対する皇族・政治家としての期待は衰えず、天武天皇一二(683)年二月から朝政治に参加。立場的に皇太子であった草壁皇子に匹敵したとされている。当然、草壁皇子派にとっては大きな脅威だった(大津皇子にその気が無かったとしても)。
 それゆえ朱鳥元(686)年九月に天武天皇が崩御すると陰謀が大津皇子を襲った。まだ天武天皇の遺体も冷え切らない同年一〇月二日、川島皇子の密告により、「草壁皇子様に対する謀反の意有り。」として捕縛された。
 密告者である川島皇子は天智天皇の第二皇子で、大津皇子とは従兄弟同士にして親友で、天武天皇八(679)年に天武天皇が吉野に行幸した際、鵜野讃良も列席する中、草壁皇子大津皇子・高市皇子・忍壁皇子・志貴皇子と共に一同結束を誓った吉野の盟約に参加した仲でもあった(一応、川島皇子による密告には疑義を挟む説もある)。
 勿論謀反など大津皇子には身に覚えのないことで、突然親友に嵌められた大津皇子は愕然としながら川島皇子を痛罵し、潔白を叫ぶも、端から大津皇子を消す為の茶番劇における出演者達が大津皇子の叫びに耳を貸す事は無かった。
 大津皇子が自害を命じられたのは逮捕の翌日で、日程的にもまともな取り調べなど行われなかったであろうことは想像に難くない。 大津皇子享年二四歳。


死後の経過と祟り(?) 陰謀による大津皇子の憤死後、妃・山辺皇女が殉死した。完全な余談だが、彼女の母方の祖父は蘇我赤兄で、赤兄は有間皇子に謀反を唆して彼を謀殺した陰謀家。妙な因果である。

 大津皇子の同母姉で、伊勢神宮の斎宮となっていた大来皇女も弟の死を深く嘆き、弟を想った数々の和歌が後世に残されている。

 大津皇子が賜死した後に上京途上で二首詠んだ。

 神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君もあらなくに(『万葉集』一六三番)

 見まく欲(ほ)りわがする君もあらなくに なにしか来けむ馬疲るるに(『万葉集』一六四番)


 また後に大津皇子が二上山に移葬されたときにも二首詠んだ。

 うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む(『万葉集』一六四番)

 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありといはなくに(『万葉集』一六四番)


 他にも大津皇子の惨死を悲しむ者が多かったであろうことは想像に難くないが、史書には具体例は残っていない。もっとも、この時代の直後である奈良時代に編纂された『日本書紀』が天武一族を悪く書く筈が無く、公式には「謀反人」とされた大津皇子に対する弔意を大っぴろげに出来なかっただろう。
 だがそんな史書にあっても生前非の打ち所のない人物に記された大津皇子をはばかったものか、単に天武天皇の喪に服していたためか、鵜野讃良は天武天皇崩御後も翌月の大津皇子賜死後も草壁皇子を即位させなかった。そしてそうこうする内の持統天皇三(689)年四月一三日に草壁皇子は二八歳の若さで急死した。
 勿論鵜野讃良の嘆きは尋常ではなかったが、当時はまだ怨霊信仰も確立されていなかったのか、草壁皇子の不幸に大津皇子の怨念が論じられた形跡はなく、草壁皇子の遺児・軽皇子(文武天皇)をその後継に指名しつつ、彼が余りにも幼かったことを理由にちゃっかり自分が即位した(持統天皇)。


祟り(?)への疑念 もし草壁皇子の急逝が大津皇子の祟りと想定するなら…………「かなりえげつない祟り方」と云いたくなる。
 無実の罪で死を強要された大津皇子が祟りたい気持ちはよく分かる。無実の罪を被せられたのは鵜野讃良が実子である草壁皇子の対抗馬となり得ることを懸念しての抹殺以外の何物でもない。薩摩守が大津皇子の立場なら、鵜野讃良・草壁皇子母子を大いに恨んだことだろう。同時に「親友」と思っていたのに自分を裏切って濡れ衣被せに加担した川島皇子もその対象だろう。
 だが少し冷静に考えると、すべては鵜野讃良に帰結する。

 宮中での人気を考えれば天武天皇の後継は大津皇子がなっていておかしくなかった。それを鵜野讃良は半ばごり押しで草壁皇子を後継者に据え、それゆえに大津皇子を(一方的に)危険視した。
 草壁皇子が皇位に執着したり、大津皇子を敵視したりしていたかは詳らかでないが、鵜野讃良がそうであったのは明白である。同時に川島皇子は保身を動機として大津皇子を裏切り、鵜野讃良の陰謀に加担したことが推測される(一連の事件で川島皇子は何の褒賞も受けておらず、親友を裏切ったとして世情の評判を下げている)。

 つまり「怨みの優先順位」を設定すれば、

 鵜野讃良>>>>>>>>川島皇子>>>>草壁皇子

 となるのではないだろうか?
 いずれにせよ、史実として落命したのは草壁皇子だけだった。勿論鵜野讃良の嘆きは尋常ではなかった。だが、直後、彼女自身が持統天皇となり、その後は草壁皇子の遺児が文武天皇として皇統を継ぎ、称徳女帝まで天武系(及び鵜野讃良の)血筋が続いたのだから、大津皇子の呪詛は鵜野讃良に自分が呪われる以上の苦痛を与えたかも知れないが、彼女が目指した路線には何の痛手も与えず、川島皇子に至っては何の痛手も被っていない。

 大津皇子の人望を考えれば、草壁皇子の不幸は「祟られた」と見られてもおかしくないが、当時は後世程には怨霊信仰も声高に喧伝されていなかった。だが、鵜野讃良や川島皇子の為したことを考えれば、草壁皇子だけがあてつけがましく犠牲になった様に思われてならない。

 祟るならやはり鵜野讃良と川島皇子だろう。


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令和三(2021)年六月八日 最終更新