怨霊にされた人 弐第弐頁 長屋王……藤原四兄弟だけで充分でしょ?
名前 | 長屋王(ながやのおう) |
生没年 | 天武天皇一三(684)年〜神亀六(729)年二月一二日 |
身分 | 皇族、左大臣 |
理不尽な仕打ち | 謀反の濡れ衣とそれによる強制自害(家族も連座) |
怨めしい相手 | 藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)、漆部君足、中臣宮処東人 |
「怨霊の影響」 | 天然痘流行を初めとする世情不安定 |
略歴 天武天皇一三(684)年、高市皇子(たけちのおうじ)を父に、御名部皇女(天智天皇皇女)を母に生まれた。父方の祖父は天武天皇で、母方の祖父は天智天皇という皇族の中でもかなり嫡流に近い立場にあった。
慶雲元(704)年正四位上、和銅二(709)年従三位宮内卿、同三(710)年式部卿、霊亀二(716)年に正三位、と平城京遷都に前後してとんとん拍子に昇進を重ねた。
この時点での朝廷の重鎮は藤原不比等(ふじわらのふひと)、それに対抗する形で舎人親王(とねりしんのう)、長屋王等が皇親勢力となっていた。もっとも、この時点での長屋王は不比等の娘を妻としていたこともあり、藤原氏との仲も決して悪いものではなかった。
養老二(718)年、長屋王は大納言に任ぜられ、翌々年の養老四(720)年に不比等が世を去ると、まだ若い不比等の息子達である藤原四兄弟(武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ))の中で長屋王に比肩するのは参議の房前だけで、いきおい長屋王は皇親の代表として政界の主導者となった。
翌養老五(721)年に従二位右大臣に昇進し、神亀元(724)年に聖武天皇の即位したその日に正二位左大臣に任ぜられた。
当時の施策としては、養老七(723)年に発令された三世一身法(さんぜいっしんのほう。新たに開墾した土地を三代まで私有することを認める法律)がある。
また養老三(719)年には新羅からの使者を長屋王邸に迎えて盛大な宴会が催され、長屋王自身の作になる詩や、時の文人らが作った詩が『懐風藻』に収録されている。なお『懐風藻』にはこのときの詩を含め、長屋王の漢詩が計三首収められている。
このような長屋王の権勢は藤原四兄弟にとっては面白くないものであった。不比等の生前こそ、舅と娘婿の間柄であって関係も決して悪い訳ではなかったが、不比等の死後に不比等の娘で聖武天皇の生母藤原宮子の称号を巡って長屋王と四兄弟が衝突(辛巳事件)し、その対立が露になってきた。
神亀六(729)年二月、漆部君足(うるしべのきみたり)と中臣宮処東人(なかとみのみやこどころあずまびと)が「長屋王は密かに左道(←呪詛の術)を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告があり、それをうけて藤原宇合等の率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王・武智麻呂等による糾問の結果、長屋王はその妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺され、服毒自殺した。所謂、長屋王の変である。長屋王享年四六歳。
直後、藤原光明子の臣籍出身初となる皇后即位が実現した。
死後の経過と祟り(?) 長屋王の刑死が謀殺だったのは当時の人々にも火を見るより明らかだったのだろう。仮に有罪だったとしても(←現代の観点では奇異に映るこの刑罰も、迷信深かった当時では充分死罪に相当した。呪いが実在すると思われていた以上、人を、ましてや皇族を呪うことは立派な犯罪とされていた)、「コテコテの藤原家の血を引く皇太子・基皇子を呪殺した」という罪状に一方的に死刑を課すことに違和感を、藤原四兄弟による陰謀を感じた人々は多かったことだろう。
実際、後々のことだが、聖武天皇自身、基皇子の夭折を嘆き悲しむ辺り、密告に対して怒りに任せた突っ走りで長屋王を死に至らしめたことを悔いる様子は史料のあちこちに窺える。
そしてその様に聖武天皇に思わせるだけの因果応報的な不幸が事件の関係者に続発した。
まず密告者の一人である漆部君足は長屋王の変後、中臣宮処東人共々「悪事」を通報したことによる褒賞に預かったが、その直後に病死した。
そして事件の六年後となる天平七(735)年、新羅→九州経由で日本に天然痘が侵入。二年後の天平九(737)年には天然痘は平城京にも侵入し、四月一七日に一番のやり手・房前が、七月一三日に四兄弟の末弟で一番の穏健派として人々に慕われていた麻呂が天然痘に倒れた。
弟達を見舞った際に感染したものか、麻呂の死から二週間もしない内に長兄の武智麻呂も重体となり、聖武天皇は同月二五日に長屋王と同じ正一位左大臣の位を送って励まさんとしたが、それに安心したかのように武智麻呂はその日の内に息を引き取った。
そして八月五日には四兄弟最後の一人、宇合も天然痘に抗しきれず命を落とし、僅か数ヶ月の間に藤原四兄弟が呆気なく全滅した事態には呪いを信じない者であっても、人智の及ばない力を感じずにはいられなかった。
この間、聖武天皇は冤罪の疑いのある囚人に恩赦を出して解放したり、一〇〇〇人の僧侶に疫病退散・国家鎮護の祈祷を行わせたりしたが、天然痘は秋まで猛威を振るい続け、朝廷の重鎮八人の内、藤原四兄弟を含む上位六人が命を落とし、政務を停止せざるを得ない程だった。
この後、聖武天皇は藤原四兄弟の後釜に橘諸兄(光明皇后の異父兄)、吉備真備(遣唐使帰りの優秀官僚)、玄オ(聖武天皇の母・藤原都の病を治して信頼されていた僧侶。但し、本人はかなりの生臭坊主)等を高官に任じて当座を凌がんとした。
結果、中途に藤原広嗣の乱や、国分寺・国分尼寺・大仏建立における経済苦があったものの、諸兄を筆頭とする臨時政権は「取り敢えず」だった筈が、聖武上皇薨去、諸兄の逝去、藤原仲麻呂(恵美押勝)台頭を経るまでの二〇年に渡って機能し、「脱藤原政権」が続いたのだった。
天平九(737)年の天然痘流行並びに、藤原広嗣の乱や数々の天災・人災を受け、遷都を繰り返すほど脅えた聖武天皇が仏教の力による国家鎮護を考え、大仏建立に至ったのは有名だが、そこに長屋王の祟りへの脅えが有ったかどうかは史料的には詳らかではない。
だが、当時聖武天皇の皇后にして、藤原四兄弟の妹だった光明皇后が各種願文にて自らの名を「藤三娘(藤原家の三女)」と記していたことに、「亡兄達の『罪』に対して光明皇后が詫びたもの」とする説がある(←一応、「古代において、女性は嫁いでも姓が変わらなかったから署名は関係ない。」との反論もある。源頼朝夫人は終生「北条」政子だったし、現代でも中国・朝鮮・韓国の女性は嫁いでも姓が変わらない)。
そして長屋王誣告に関与した最後の一人に対する因果応報が翌天平一〇(738)年七月一〇日に襲い掛かった。
『続日本紀』によると、その日、長屋王を誣告した中臣宮処東人が、囲碁に関するトラブルで激昂した大伴子虫によって斬殺されたのである。
子虫は長屋王に恩遇されていた人物なのだが、法的に全く正統性のない身勝手な殺人でありながら、子虫は罪に問われなかった。『続日本紀』は長屋王の変における東人の密告を「誣告」と明記しており、子虫が罪に問われなかったことからも、事件から一〇年を経たときには既に長屋王の賜死は冤罪と見做されていたと思われる。
祟り(?)への疑念 まあ「怨霊が祟る」ということが存在すると仮定するなら、その祟り様は「やり過ぎ」の一言だろう。
藤原四兄弟、漆部君足、中臣宮処東人等の死に様は「祟られた」に相応しいものだし、一片の同情の余地もないが、藤原四兄弟を祟る為に天然痘流行が起こったのだとしたら、パンデミックに命を落とした北九州から平城京までの一般ピープルは全くとんでもない巻き添えを食わさせられた訳で、暴力団同士の抗争で流れ弾に当たって一般ピープルが命を落とす以上に悪質な話である。
更に云えば、「祟る」のなら、その標的は聖武天皇になるべきである。
藤原四兄弟にいくら権勢が有ろうと、聖武天皇の承認なしに長屋王を死に追いやる事等出来はしない(←長屋王賜死時、官位は藤原四兄弟の方が下)。誣告による密告を真に受け、基皇子の夭折を長屋王による呪詛と思い込み、悲しみと怒りに身を任せた冷静さが欠片も無い状態で一人の身内を死に追いやったその様は完全に為政者失格である。
過去作でも触れたことがあるが、薩摩守は聖武天皇の人柄は決して嫌いではない。仏教への信仰も厚く、争いを嫌い、天災・人災に傷ついた人々に対する慈悲の心を持ち合わせていた人物ともみているが、長屋王の変における聖武天皇は完全に狂った独裁者でしかないと見ている。巻き込まれた人々は聖武天皇への恨み骨髄だったとしても全く不思議はない。
「祟り」は長屋王を誣告した者達に「天誅」を与えたかも知れないが、最終決定権者を逃し、政権争いに無関係な無辜の民と(藤原広嗣の乱に参戦して戦死した)兵士達を巻き込んだ時点で「怒り」を理不尽この上ないものにしてしまったと云えるだろう。
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戦国房へ戻る令和三(2021)年六月八日 最終更新