第壱頁 本多重次・・・・・・暴走も冷静だった鬼作左

名前本多作左衛門重次(ほんださくざえもんしげつぐ)
暴走を止めた主君徳川家康
最終的な肩書き上総国古井戸城主(三〇〇〇石)
本多重正
後継者本多成重
暴走の止め方直言居士型
略歴 本多作左衛門重次(享禄二(1529)年〜文禄五(1596)年七月一六日)は、「仏高力」(高力清長)、「どちへんなしの天野三平」(天野康景)と呼ばれた二人と同じ三河三奉行の一人であり、前述の二人との比較もあって「鬼の作左」と呼ばれた。通常はこちらの呼び名の方が有名だろう。

 「鬼作左」の異名から戦働きがイメージに先立ちそうだが、実は行政官として優秀で、石川数正とともに松平清康・松平広忠・徳川家康の三代に渡って主君を支え続け(注:戦働きで支えたのも間違いではない)、三河統一後に前述の三奉行に就任した。

 同姓の有名人である本多(弥八郎・佐渡守)正信、本多(平八郎)忠勝ともルーツを同じくする徳川家股肱の臣ではあるが、正信・忠勝が家康の旗下で活躍したのが家康の生涯の中盤から後半生にかけてだったのに対し、重次の活躍は家康の前半生から豊臣秀吉による天下統一までが主で、三河武士の典型として主君の勘気を被る事も恐れずに直諌を続けた。
 家康は、重次の直言居士振りに閉口させられ、苦虫を噛み潰しつつも彼の言を重んじた。

 「」と呼ばれる程他者に恐れられる一方で、重次は公正さにおいてもそれこそ鬼の様に厳格だった
 民衆の為にお触書を仮名で書かせたり、酷刑である釜茹での為の釜を打ち砕いて、「天下を望む志の名将が、人を釜で煮殺すとはもっての外!作左が砕いたと殿に伝えよ!」と大喝して、家康を感じ入らせもした。


 織田信長が本能寺の変で横死し、その後を羽柴秀吉が襲うと益々その地力を発揮するが、難局に家康の面子を保たんとするが為に我が身と名誉を大きく犠牲にすることになった(本人にとっては本望だろうが)。
 小牧・長久手の戦いの後、秀吉の元に養子に行く於義丸(結城秀康)に我が子・仙千代(成重)を、石川数正の子を、小姓として追随させた。
 そして戦後、於義丸養子入りに続いて講和の証として秀吉の異父妹・朝日姫が家康の下に嫁入りしたが、秀吉兄妹の実母・大政所が朝日姫に会いにやって来た代償に家康が上洛すると、家康変事の折には二人を焼き殺す構えを見せたのは余りにも有名。
 だが主君を想ってとはいえ、天下人を怒らせる暴挙に家康も不問には出来ず、心中では重次の真心を感謝しつつも、関東八州への移封に際して片田舎とも云える上総国古井戸に、左遷とも云える三〇〇〇石の城主を命じた>

 以後徳川家の中枢に帰ることなく、重次は任地で文禄五(1596)年七月一六日に没した。本多作左衛門重次享年六八歳。
 NHK大河ドラマ『徳川家康』では、重次(長門裕之)の訃報に接した家康(滝田栄)が、生前の重次の怒鳴り声を思い出しつつ、言葉少なに一筋の涙を流すシーンがあった。
 歴史の実態がどうあれ、あのドラマを通してみる限り、家康の立場で重次の死に一滴の涙も流さないとしたら、薩摩守は家康に対して「人の血が通ってない。」と断じただろう。そう思わせるような重次の生涯だったのである。


Stop! My Boss 誰彼なく正しいと思ったことを堂々と直言する、前漢の袁盎(えんおう)もかくやと思わせる直言居士・本多重次のストッパー振りの中でも薩摩守の一押しは結城秀康を巡る一連の流れである。

 今川義元の姪・築山殿(鶴姫)を正室に迎え、嫡男・信康を産ませていた徳川家康は信康を岡崎城主として母とともに住ませ、自身は浜松城にあった。
 叔父・義元を討った織田信長を恨み、今川全盛期のプライドを捨て切れずにいる築山殿との、義元から押し付けられて始まった夫婦関係は既に冷め切っていたが、嫡男・信康の母でもあり、ある程度の体面を保たない訳にはいかない家康はひょんな事から築山殿の次女・お万に手をつけてしまい、於義丸を身篭らせた。
 嫉妬に狂った築山殿はお万を折檻し、お万が館を出た後も刺客を放つ始末だった。
 このとき、お万を脱出させたのが重次で、家康の伯母の屋敷にお万を匿うことで、刺客からも救ったのだった。

 数々の築山殿の暴挙にも煮え切らない態度を取り、お万に対しても然るべき待遇を与えない家康重次は詰る一方で、お万を安全な場に移して於義丸を産ませ、お万を襲った刺客も密かに助け、誰も死なすことなく、奥を巡る紛争の勃発を未然に防いだ。
 一瞥しただけではただの家康の恐妻から来る家庭内騒動だが、逆にこれを上手く重次がまとめてくれた御蔭で、家康は秀忠・忠吉といった子供達を成すことが可能となったのである。
 前述した様に、於義丸が羽柴秀吉の元に養子兼人質として大坂に発った際に重次の息子・仙千代が小姓として同伴しているが、それは一連の重次・お万・於義丸を巡る流れとは決して無関係ではないだろう。


 そして重次が止めたのは主君だけではなかった。
 石川数正出奔により秀吉との一戦を構える空気が蔓延する中も、無二の親友とも云える数正を敢えて罵りつつ若輩達の激昂を抑えてた。
 謎の多い数正の出奔だが、恐らく重次だけはその真相を知っていたのだろう。薩摩守も数正の出奔は単なる裏切りと見てはいない。

 その後も豊臣秀吉にへりくだる家康を、敢えて秀吉の前で罵ることで、立場上正面切って秀吉に逆らえない家康に代わって自ら泥を被ることで家康の面子を保った。
 同時に、そうすることで秀吉に対しても「徳川家を甘く見ると大火傷するぞ!」と云わんばかりの威を暗に示した。

 謂わば、自らが悪者となる事で家臣達が秀吉にへりくだる家康を突き上げることを止め、結果として家康が家臣に突き上げられて秀吉に対して不利な戦を挑ませるような事態を止めたとも云える。
 勿論家康は家臣に突き上げられたくらいで軽挙妄動に走る馬鹿ではないが、若き日には面子にこだわって家臣が止めるのを聞かずに武田軍に戦いを挑んで惨敗したこともあり、同じように耐えながら家臣を宥めるにしても、重次のおかげでかなりその苦労は軽減されたことだろう。



ストッパーたり得た要因  云いたい事を堂々と云うことは然程難しいことではない。だがそれを続けることはかなり難しい
 逆恨みを買うことも珍しくなく、何より自分が完璧でなければ即座に「自分が出来ていないのに何を偉そうに…。」と槍玉に挙げられ、力がなければ報復されることも充分にあり得る。

 時には天下人の生母を−例えブラフ的パフォーマンスにしても−焼き殺すことも辞さない姿勢を見せた本多重次が、晩年不遇だったにせよ小気味いいまでの活躍を続けた。
 それが可能だったのは、彼が余計なことは云わず、ただただ正しいと思うことを云い、自分にも他人にも厳しく、時に主君のために如何なる泥をかぶることも辞さない覚悟を常に持っていたからだろう。
 豊臣秀吉との善隣友好の都合上、重次を膝元から追わざるを得なかった徳川家康だが、後に結城秀康の重臣を務めていた重次の子・成重を一大名としたのも重次の心を知っていながら、立場上彼を冷遇しないわけにいかなかったことへの詫びの気持ちもあればこそだろう。

 嫌われやすい直言居士が嫌われず、内紛を起こさない為にはその言が正しく、揚げ足を取られるような余計な部位を持たないことを要する。
 重次長篠の戦いの陣中から妻に送った、

 「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」

 は「日本一短く、要領を得た手紙」として有名だが、重次の性格と有能性とともに、彼が永く徳川家のストッパーたり得た要因だろう。

 要らん一言が多く、口から先に産まれてきた口数の多いうちの道場主には到底無理な……ぎええええぇぇぇぇぇー!!(←道場主のネックハンギングツリーとチョークスラムを立て続けに食らっている)。
 ゲホゲホ………、ともあれ、鬼の作左こと本多重次は鬼といわれるほど戦にも内政にも尽力した男だが、裏では鬼の働き場である戦を最小限に食い止めた男でもあったことを失念してはならないだろう。

 これほど徳川家に尽くした漢(おとこ)が徳川家康が天下を掴む前に世を去ったの不憫である。決して若死にではなく、当時の平均寿命からも充分天寿を全うしたと云える年齢での逝去であったにしてもだ。



次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和三(2021)年五月二〇日 最終更新