第弐頁 北条氏規・・・・・・辛うじて本家を救った三氏の掛け橋

名前北条美濃守氏規(ほうじょうみののかみうじのり)
暴走を止めた主君北条氏直(事実上は北条氏政)
最終的な肩書き河内狭山領主(七〇〇〇石)
北条氏康
後継者北条氏盛
暴走の止め方双方向面子立て型
略歴 天文一四(1545)年の生まれとされるが、同一二(1543)年生まれ説もあり、定かではない。北条氏康の五男として生まれたが、長男の早世と、三男氏照・四男・氏邦の養子行きから殆ど次男として同母兄の氏政を支えた。幼名は助五郎

 幼き日に母・瑞渓院の実家である今川家にて人質として過ごしたことがあり、この時、後に徳川家康となった松平元康と知遇を得、これらの経験が後々北条家の外交担当として遺憾なく活かされた。
 二人の兄、氏照・氏邦が武勇に優れていたのと対照的だが、かと云って氏規の武勇が優れていなかった訳ではないことを失念してはならない。

 北条家といえば氏康の代に今川義元、武田信玄との間で相模、駿河、甲斐の国主が面を合わせて締結された相甲駿三国同盟が有名だが、それに前後して上杉・武田・今川・徳川・伊達・関八州諸氏と和しては争い、争っては和すこと定かならずだった。
 そして氏康の代より北条家滅亡まで、外交の大半を担ったのが氏規であった。

 天正四(1576)年、信玄を失った武田家では信玄の遺言に従って上杉謙信と和すことが決められ、既に氏政氏規の弟・氏秀(氏康七男)が上杉謙信の養子(上杉家では「上杉景虎」と名乗っていた)であった縁から、氏政氏規の妹が武田勝頼と娶わせられ、相甲越同盟締結という重大事も担った。
 この同盟は謙信急死後に起きた御館の乱(景虎と景勝の跡目相続争い)に勝頼が氏政妹を室に迎えていながら景勝に味方したために破綻したが、氏規が如何な重責を担ったかは充分に窺い知れる。
 自らが治めた三浦での里見氏との折衝、甥にして当主である氏直と徳川家康次女・督姫との婚姻を交えた同盟締結、奥州の伊達氏、蘆名氏との同盟の成立にも氏規は手腕を発揮していった。

 やがて豊臣秀吉が九州征伐を達成し、関白の権威をかさに北条家にも臣従と上洛を求めると北条家はタカ派とハト派に分かれた。
 話は逸れるが、薩摩守は、北条家に骨肉の争いが殆どなかったことを感心している。
 勿論悪評高い「小田原評定」(実際のところ、この悪い代名詞振りは不当なのだが)の様に意見が別れたり、上杉家・武田家との連合離反の中で上杉家に養子兼人質に行った氏秀や、武田勝頼に嫁いだ氏政妹を見殺しにしかけたり、氏直を始めとする五人の子を産んだ氏政正室(黄梅院)を実家の武田家に追放したり、といったこともあったが、それでも戦国全般の大半の一族において骨肉の争いが少なからず存在したのが、北条家では身内で血を流し合うようなことは皆無に近かったのはある種の奇跡とも云える。
 そんな北条家でも意見の相違そのものは当然存在し、前代未聞の御家の危機にあくまで秀吉への臣従を拒み、何者にも侵されない関八州立国にこだわったタカ派は前当主氏政、氏照、氏邦兄弟がその面子だった。
 一方、臣従とまではいかなくとも関白秀吉の面子を立てつつ大大名としての北条家の家格を保たんとするハト派は当主氏直氏規等だった。

 かつてない危機に北条家ではタカ派が名城・小田原城に徳川氏・伊達氏との連携による軍事的国防を図る一方で、ハト派は当主・氏直の舅・徳川家康を通じて当主の名代として氏規が上洛し、秀吉に謁見して顔を立てるという外交的国防を図った。
 一先ず、硬軟両面で様子見に出た訳だが、天下統一を強硬に断行せんとする豊臣秀吉と、上洛・臣従を断固拒む北条氏政とではついに和する為の接点は見出せなかった。
 頼りとした家康も豊臣軍に加わって、天正一八(1590)年には総勢三〇万の兵が関東に押し寄せた。


 氏規は伊豆韮山城に篭もり、城主として篭城戦の指揮を執り、五〇〇の寡兵で四万の豊臣軍を迎え撃った。
 兄達に劣らぬ武勇を発揮した氏規だったが、兵力・物資の格差は如何ともし難く、氏政・氏直父子の小田原開城に先立つこと一二日前の天正一八(1590)年五月二三日、旧友にして当主の岳父である徳川家康の説得に応じて開城した。

 氏政氏直父子の降伏を受けた秀吉は小田原城に入城すると、戦争責任者としてタカ派と見做した北条氏政、北条氏照、松田憲秀、大道寺政繁の四名に切腹を命じた。
 ハト派と見なされた当主氏直を始めとする北条一族は助命された。「当主である自分一人の切腹を条件に全将兵の助命を!」と請うた北条氏直としては些か複雑だったが、戦後処置としてはまだ犠牲は少ない方だった。

 ハト派の中でも氏直氏規の助命には、婿と旧友への助命嘆願に動いた家康に依るところが大きかったのも確かだが、氏規に関しては彼が秀吉に気に入られていた点も見逃せない。
 人たらし男として有名な秀吉だが、「人に好かれようと思ったらまず人を好きになろう。」とは明言である。

 氏規は高野山追放となった氏直に従って、共に高野山に蟄居した。
 だが秀吉から「和平派の主流としての働き」と「韮山城での武勲」を認められていた氏規は翌天正一九(1591)年に河内国舟南郡に二〇〇〇石の領主となった。
 同年、氏直は若くして世を去り、北条五代の直系は絶えたが、氏規は文禄三(1594)年に先の二〇〇〇石に加えて舟南・河内両郡に六九八〇石を加増され、子の氏盛の代には一万石近くに達した。
 氏盛を藩祖として、辛うじて小大名となった氏規系北条氏は河内狭山藩主として小藩ながらも幕末まで存続した。
 慶長五(1600)年二月八日北条氏規逝去、享年五六歳。



Stop! My Boss 北条早雲以来五代一〇〇年の繁栄をしたといわれる北条家。秀吉に降伏した後に、徳川家康が転封された関八州(武蔵・相模・上野・下野・上総・下総・安房・常陸)が家康の旧領三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五ヶ国をも上回ることから、北条家は秀吉襲来前より関八州に安定した力を持っていたように見え勝ちだが、実際には氏政の代に入って尚、相当苦労していた。

 北東に上杉(旧長尾氏と関東管領家)、北西に武田、東に関東諸氏、西に今川・徳川と外敵に囲まれた北条は外敵と結んだり離れたりで、困窮を極めた。
 前述した様に、薩摩守は北条家に内紛らしい内紛が皆無に近かったことを驚き、称えているが、南を別にすれば外敵に囲まれた環境も北条家が一枚岩たり得た要因の一つだろう。
 勿論、だからと云って北条家中に意見の相違がないなんてことは有り得ない。
 そんな北条家の中で外交をメインに活躍したのが北条氏規だが、最も活躍したのが北条家滅亡直前より、というのは皮肉であった。

 「亢竜悔いあり」という言葉がある。
が、これは北条氏政にも云えることかもしれない。
 早雲、氏綱、氏康、と戦いと外交に明け暮れた北条家は氏政の代に最大版図を築き上げ、それゆえ彼が凡将でないことは『菜根版名誉挽回してみませんか』でも取り上げた。
 だがそれ故に、彼が何者にも膝を屈しないことに過ぎたるプライドを生んだことが御家滅亡を招いた感は否めない。
 勿論、我々は歴史の結果を後から知っているから、安直に氏政の選択を愚かとする事が出来るが、氏政も意地を張っただけではなく、そこには硬軟両面が錯綜する中に氏規の活躍が在ったことは容易に想像がつく。

 五代続いた関東立国の偉業を捨てる訳にいかず、上杉謙信・武田信玄という超有名戦国名将の襲来をも防ぎ切ったプライドから関白の権威と軍事力をたてに臣従を迫る豊臣秀吉に北条家中がタカ派とハト派に別れたのは前述した通りである。
 そして当主氏直は、秀吉の軍事力に北条家が抗し得るとは見なかった。
 さりとて臣従を潔しとしない父・氏政、叔父・氏照達との板挟みの中、小田原評定は硬軟両面を採るのだが、硬を採るにしても、軟を採るにしても、見込み無しに採択する程北条家中は馬鹿ではなかった。
 そんな中、「軟」を担う氏規の外交能力があればこそ、タカ派も周辺諸国との同盟強化や武器・兵糧の調達に奔走しつつも、秀吉に対して無謀な戦を挑みはしなかった。


 その氏規は今川家人質時代より培ってきた慎重な交渉力と人脈を活かし、秀吉、家康という戦国末期の、否、日本史上の二大偉人の歓心を得た。
 タカ派も豊臣と戦えば勝っても多くの人材・軍需物資を消耗することは目に見えていたので、それ等を省みず攻撃に走るのは具の骨頂であることを理解し、固唾を飲んで氏規の数回に渡る上洛を見守った。
 つまり氏規の交渉能力に一先ず賭けた訳で、取り敢えずは関白としての面目を保ってくる氏規が気に入った秀吉は氏規に対しては厳しい態度に出なかった。
 正しく氏規の外交能力は、タカ派が凝り固まった意地や関八州の武力や小田原城の堅牢さに頼って暴走するのも、家康を完全に服従し切れず、九州も抑えていなかった秀吉が即座に攻めてくるのも見事にストップさせたのであった。

 しかしながら九州をも制圧した秀吉が北条方に「完全なる臣従」と「当主・氏直の上洛」を求め、三〇万の大軍を整えるに及ぶと、氏規の力をもってしてもその襲来は止められなくなった。
 同時に、あくまで膝を屈することを潔しとしない氏政の意地張りも止めるにあたわなかった。
 歴史の結果だけを見れば氏規は北条本家の滅亡を救い得ず、傍流の血を小大名として残したに留まったが、余りに大きな勢力に対して氏規が止めて来たものは決して小さくなかった。
 氏政の暴走を採っても、秀吉の即座の襲来を採っても、御家の完全な滅亡を採っても。



ストッパーたり得た要因 もう殆ど答えは出しているに等しいが、今川家での人質時代より培われた交渉能力と人脈に北条氏規のストッパーたり得た要因がある。

 そしてもう一つの要因は、不当に悪い例にされてしまっている「小田原評定」に始まる北条家の政治体制にもあった。
 『菜根版名誉挽回してみませんか』北条氏政の項でも採り上げたが、「小田原評定」は名前の通り、北条家の居城である小田原で行われた評定のことで、最後の最後こそ徹底抗戦と降伏がなかなか決められずに悪評を残したが、この会議で決まったことに北条家は一丸となり、誰も逆らったり抜け駆けしたりはしなかった。
 それ故に氏政も、当主にして息子である氏直の穏健路線を惰弱として、徹底抗戦を主張しつつも、他方で氏規の上洛・交渉を妨害することはなく、氏規はその力を最大限に発揮出来たのだろう。

 つまり氏規がタカ派を抑えられたのは、彼自身に「外交能力」(相手を立てる交渉術と家康協調人脈)があり、それを信じて結果を待つ「政治体制」が北条家中にあったからであろう。
 巨大な勢力に睨まれた際、降伏を選ぶも徹底抗戦を選ぶも非常に難しい。
 最後の最後まで徹底抗戦をすれば文字通り全滅しかねないので、降伏するなら早目が良さそうな気もするが、簡単に降伏しては無条件降伏となり、如何なる無理難題を突き付けられるとも限らない。
 かと云って抵抗し過ぎれば抗戦の渦中で命を落とした味方の報復、とばかりに戦後処理は凄惨を極めかねない。
 適度な抗戦で「完全に屈服させるには犠牲が大きい、味方にすれば頼もしい。」と思わせたところで、極力和睦に近い降り方をするのが理想的だが、そんな理想が容易に叶うようなら初めから負けはしない(苦笑)。
 そんな中で、完全にとはいかずとも、敵も味方も短絡攻撃をストップさせ、御家の完全な滅亡までストップさせることに尽力してくれた氏規を一族の中に擁していたのは北条家の不幸中の幸いだったといえるだろう。


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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新