終頁 ストッパー不在の不幸と真のストッパー

ストッパー不在の時代 第壱章から第陸章まで、様々なタイプのストッパーを検証してきた。
 暴走しかねない主君とストッパーを務める重臣との間には様々な間柄があり、その要因も様々だが、共通している事が一つある。
 それは、

 主君が一目を置いている

 ということである。

 暴走する独裁者とは大抵の場合は人並外れて有能である(残念ながら)。
 云い換えれば有能故に他の意見を受け容れず暴走するとも云える。
 だからストッパー無しに行われる独裁は怖いのである。
 薩摩守は日本史上にストッパーが不在だった為に多くの日本人が不幸に陥った時代が三度あると見ている。
 それは、

 ・室町幕府中期から戦国初期にかけて
 ・豊臣秀吉による天下統一から江戸幕府成立期にかけて
 ・日中戦争に前後する昭和初期


 である。

 室町幕府中期から戦国初期にかけてだが、そもそも薩摩守は戦国時代が「日本史上人民にとっても最も不幸だった時代の二大双璧」と見ているから、『戦国房』を立ち上げた(人民不幸期のもう片方は満州事変に始まる太平洋戦争期)
 そしてその戦国時代は、室町幕府が有力守護大名を押さえる事が出来ず、南北朝の騒乱結城合戦嘉吉の乱、と室町幕府統治期には鎌倉時代にも増して安定期が得られ無かった故に突入した。
 辛うじて足利義満・足利義教といった専制型の征夷大将軍が辣腕を振るったときにしばしの安定が見られただけでは話にならなかった。
 つまり有能な君主の暴走を有能な家臣が止めたのと丸で逆なのだった。

 飽くなき有力守護大名同士の勢力争いを、本来ならすべてを統治する筈の征夷大将軍が有能な人物が担った時だけ沈静化させていたような状態で恒久平和を望める筈もなかった。
 挙句に八代将軍足利義政は芸術・芸能に耽って、政治はおろか後継者問題に対する責任まで放棄し、遂に応仁の乱の勃発するに及んで以後日本は百数十年に及ぶ暗黒時代を過ごすことを余儀なくされたのである(←冗談抜きで責任取れ!足利義政!!)。

 本来ならストッパーを務める重臣が自ら暴走し、それを上が止めることを放棄したのだから、ストッパー不在の悲劇はここに極った。

 権力者サイドが暴走していて、治められる側が治まる筈がなく、そんな折に最も判断に困るのが中間管理職なのである。
 しかも、当時の日本はその中間管理職が強大な武力を持っていた、或いは持つことに奔走していたのである。そんな彼等が目先の問題を解決にするのに、武力を用いることに走った結果時代は………………
 これを読んでいる貴方は日本がまたそんな状態になることを望みますか?


 豊臣秀吉による天下統一から江戸幕府成立期にかけては本来なら豊臣秀吉の天下統一の元、百数十年間続いた戦乱の果てに築かれた筈の平和が乱れた時期である。
 このサイトを見て下さるような方になら予想はつくと思うが、朝鮮出兵に走った豊臣秀吉にストッパーがいなかった=豊臣秀長を失っていたことがストッパー不在故の、戦国を延長させた日本の悲劇と薩摩守は見ている。
 詳細は「豊臣秀長」の項に譲るが、秀吉薨去に前後して再度乱れかけた日本の推移について注目して欲しい。
 幸いと云っていいのか、秀吉薨去後の日本は、徳川家康が統治し、戦という戦を国内から駆逐した。
 歴史にifは禁物だが、主君に対して堂々と意見する、(些かオーバーな云い方をすれば)全員がストッパー的要素を持っていた三河武士が中核を占める徳川家が天下を取っていたのでなければ、江戸幕府同様に二百数十年の平和は保持されていたであろうか?


 最後の日中戦争に前後する昭和初期である。
 この時代の大日本帝国の行動の是非はともかく、この時代の日本人が幸せだったと考える人間はライトウィングな方々の中にも殆どいないのではないかと思われる(いるとしたらそいつは戦乱に喘ぐ人々の苦悩と流血を好む悪魔でしかない)。

 洋を問わず、歴史を紐解くと、国家や御家が滅亡するときというものは亡国や滅亡する御家が可哀想になるくらい滅びを防がんとする数々の努力が裏目に出ている。
 その責任者は「わざと国家・お家を滅ぼそうとしているのか?」と云いたくなるぐらい(結果的に)愚かな選択が相次ぐ(←勿論滅亡をわざわざ意図してる者など一人もいないのを承知の上で云っている)。
 当時の大日本帝国にも戦争の拡大を防ごうとした人々は何人もいたし、特に米英と戦う事に反対する者は海軍の中にも山本五十六・米内光政を初め何人もいた。そもそも日米開戦に踏み切った東条英機内閣にして、本来は昭和天皇に「戦争を止められるのは東条しかいない…。」と期待されてのものだった。

 しかし日露戦争以来の中国大陸における権益と、二・二六事件以来の独善に異常に固執した陸軍にストッパーはなく、遂には国家を滅ぼした(ストッパーたらんとした者は陸軍内部にいたと思われるが、結果として誰もストッパーたり得なかった)。
 大日本帝国が日本国になったことに対しては道場主も歴史的必然であり、良い結果ではあったと思っているのだが、その過程で失われた国内三〇〇万以上の犠牲(日本人、台湾人、朝鮮人、満州人、委任統治良の地元民を含む)、第二次世界大戦における地球人二〇〇〇万以上人の犠牲は許し難いものがある。
 この責任の所在は難しい。
 天皇、陸軍、海軍、貴族院、etcと大なり小なり責任はあるが、「世論」、「海外に得た既得権益」、「軍としての意地」、「戦争に負けた経験がなかったことから来る過信」のすべてに反してまで断固戦争に反対することの出来る人間が時代に不在だったことにより、大日本帝国が戦争に向かわされたことが日本の、否、世界の不幸だったと云える。

 まだまだ調査不足なのだが、薩摩守は満州事変に端を発する昭和十五年戦争を決定付けた最大のA級戦犯は松岡洋右と睨んでいる。
 軍隊内や貴族院院・皇室内にも抵抗勢力はあった(政党勢力は五・一五事件で事実上抹殺されていた)のだが、植民地経営への既得権益に「自存自衛」・「亜細亜の解放」という大義名文を振りかざしてしがみ付いた当時の外交筋にストッパーがいなかったことには大いに研究の余地があるように思われてならない。


 かようにストッパーなき暴走は国家の命運さえ滅亡に向かわしめる。
 企業、自治体、家庭がストッパーなき暴走を始めたときに滅びの運命だけをストップさせることが出来ようか?否、出来やしない(反語)。



今尚求められるストッパー この文章を書いているのは平成一九(2007)年七月二九日である(その後も加筆修正を加えてはいるが)。
 六二年前の戦争以来、一部のテロや自衛隊の海外派兵を除いて戦争らしき戦争を経験することなく、日本国は経済大国としての地位を築き、平均寿命の長さと工業製品の優秀さを初め世界に誇れる事も多い。
 海外から日本に移り住む外国人、海外で活躍の期待されるて海を越える日本人ともに多く、日本を理想の国家(または理想とすることの多くを実現している国家)と見る人々は国内にも海外にも決して少なくないだろう。

 だが本当にそうだろうか?

 年間に交通事故で死ぬ人間の五倍以上の人間が自ら命を絶つ「自殺社会」、
 消費税を初めとする税金・罰金・医療費と払うものばかりが増え、年金等の入ってくるものは減る一方の「生活苦社会」、
 丸で減る目途のない「国の借金」、
 確実に広がる「格差社会」、
 下がる「逮捕率」、
 給与昇格より速く上がっていく「物価」、
 働く意欲を持たないニート以外にも派遣体制下で仕事の続かない人達や働きたくても働けない老人達の「離職率」、
 高年齢社会を支えるのに不安を抱かざるを得ない「少子化問題」、
 etc……これが本当に理想的な社会か?

 現代日本は立憲君主制で、天皇も総理大臣も所謂独裁者ではないし、そんな大権を握る地位も存在しない(民主主義国家の大統領の方が遥かに強い権限を持っている)。
 だが、政治=権力、経済=財力、軍事と警察=暴力といったすべてに特権を持つ権力者がいるのは古今東西例外のない事実で、その権力者に暴走する者は皆無ではなく、その既得権益の恩恵を受ける者は国民の辛酸も世間の蔑視も意に介さずその権力を必死に守り通そうとする。
 上記の事を好ましいと思う人はいないだろう、勿論その当事者で無いと云うことが前提条件ではあるのだが。
 少なくとも現代日本が抱える諸問題は問題そのものにも、問題の原因となる背景にもストッパーが必要である。
 独裁者がいなくても、組織としての暴走は今尚存在し、なまじ暴君が存在しない為にその責任が曖昧にされ、暴走している組織の構成員が暴走に気付かない場合も少なくない(海外では中国共産党が好例だろう)。


 ストップさせなければいけないの事象は数え上げれば切りがないのだが、薩摩守が掲げたい要因は二つある。
 一つは「経済的安定」で、もう一つは「勝敗のみで物事を見る風潮」である。

  前者は犯罪者に無職者が多いことや、農業資源や工業資源を目的とした侵略戦争の例を見れば経済的要因が暴力の発生に大きく関与している事が明らかであることに覗える。
 後者は「非を認めたら負け」みたいに思い込む(或いは思い込まされた)状態で企業、スポーツ界、学校、国際関係等がギスギスした物になってしまっている例を見ると分かり易い。
 「勝てば官軍」的な要素は確かにあるが、「勝てば官軍」と思っている奴は「負ければ賊軍」になることを知っている、云い換えれば「勝つ」こと抜きに「官軍」となれない非を内包しているのを何処かで自覚しているのである。
 貴方の周囲に「勝てば正義」、「勝てば官軍」と主張する人間に人格者がいるかどうか見てみて欲しい。少なくとも薩摩守が知る限り、「勝てば正義」、「勝てば官軍」を自分が負けているときに主張する人間は見たことがない。

 「勝っている」ときの自分を「勝っている」ことを理由に「是」とする人間は、「負けている」ときの敵を「負けている」ことを理由に「非」と決めつける。
 つまり、他人への思い遣りを持っているとは云い難いのである。そんな人間が人格者足り得ないのは自明であろう。
 「非は非で認めて、詫びて、再発防止に努める」のが道なのに、非を隠したり、是と改竄したりする事に汲々としている様ではストッパー無しに正道を歩む事など出来やしない(つまり自浄作用など期待出来ない)ことは今一度すべての人間に認識して欲しい。
 「勝つ」ことだけに頼って得た権益は、後から「勝った」者によって容易く奪われる物なのである。


真のストッパーはすぐ側にいる 大名でもない人間に、大権力者でもない人間にストッパーの必要性を感じようにも実感は湧き辛いだろう。
 だがストッパーは誰にも必要なのである。何故なら、「完璧な人間」など誰もいないのだから(「自分がそうだ!」と思い込んでいる奴には尚更ストッパーが必要だろう)。

 そして政治家も、社長、様々な組織の長も、家庭を統べる者も、人を率いる以上その暴走は常に警戒されるべきである。
 実のところ、個人の力のみによって行われる、組織の伴なわない暴走は被害も軽微である事が多い(少なくとも歴史その物を動かし、百人単位以上の犠牲者を出す事は極めて稀である)。

 では必要不可欠なストッパーとは何処にいるのだろうか?実はすぐ近くにいる。

 組織を率いることで暴走が生まれるのだから、組織を構成する人員にストッパーはいるのである。
 個人に対する最大のストッパーをいうなら、それはその人自身である。つまりは「良心の呵責」、「危険を避ける本能」、「知識・体験」がそれ等を担う訳である。

 だが本質はもっと簡単で単純な所にある。
 「真のストッパー」とは自分が愛する人の存在である。

 親兄弟姉妹、身内、恩師や教え子、愛する妻子、恋人、親友、上司に同輩に部下、と自らが暴走することで運命を狂わされる者のことを思うなら、人間は簡単には暴走できない筈である。
 逆に天涯孤独の身ならずとも、肉親に愛情を感じない者、暴走が失敗した時に起きる害を害と思わない者、暴走が失敗する筈がないとの思い上がりを持つ者は容易く暴走する。
 自らが暴走することに悲しみ覚える人間が一人もいないとしたら……それこそが悲しむべきことではないだろうか?
 本作で紹介したストッパー達によってストップさせられた者は(規模の大小差はあれど)すべて権力者だが、自らのことを心から想って止めてくれる存在を持ち得ない寂しい存在だとしたら………薩摩守は決して権力者などにはなりたくないと思うのである。


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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新