第陸頁 松平信綱・・・・・・徳川家内紛を防いだ「智恵伊豆」

名前松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみ)
暴走を止めた主君徳川家光・徳川家綱
最終的な肩書き徳川幕府老中
大河内久綱
後継者松平輝綱
暴走の止め方知略・権力ともに物量鎮圧型
略歴 戦国房初登場となる松平信綱(まつだいらのぶつな)とは江戸時代初期に徳川家光家綱時代の老中を務めた人物で、通称は伊豆守で、官位は従四位下・侍従であった。

 信綱は慶長元(1596)年一〇月三〇日に大河内久綱を父に、深井好秀の娘を母に現在の埼玉県伊奈町に生まれた。幼名は亀千代で、後に長四郎と改めた。
 松平姓となるのは慶長六(1601)年、六歳の時に叔父・松平正綱の養子となってからのことであった(慶長八(1603)年説あり)。

 長四郎の実家である大河内氏は清和源氏の血を引く源頼政(鵺退治・以仁王の乱で有名な源三位)の後裔だった。
 その縁によるものか否かは定かでないが、養父・正綱が徳川家康の命で、十八松平氏(松平家始祖・松平親氏に始まる十八の庶流松平家)の一つ・長沢松平家の養子となったことから松平一門としての家格を与えられ、それが信綱以降にも受け継がれるのであった。
 ちなみに長沢松平家は家康の六男・松平忠輝が一度は継いだ名跡でもある(家康四男・松平忠吉も十八松平の内、東条松平家を継いでいる)。

 長四郎は後年、その才知と官職である伊豆守をかけて、智恵伊豆(智恵出ず)と渾名されたが、その片鱗は幼き日から見られたらしく、正綱は実子よりも長四郎の方を長沢松平の家督を継ぐ者として重宝した。
 松平一門に加わったことと、生まれついての才知を見込まれたこととで、長四郎は慶長九(1604)年七月二五日に徳川家康の嫡孫・竹千代 (勿論、後の三代将軍徳川家光)の小姓となった。竹千代が生まれて八日目のことであった。
 小姓仲間には竹千代の乳母・福(後の春日局)の次男・稲葉千熊(正勝)がいた。

 慶長一六(1611)年一一月一五日に長四郎は元服し、松平正永と名を改めた。
 元和六(1620)年一二月、養父・正綱の実子・利綱に家督を継がさんとして、別家を建てる志を述べ、名を正永から信綱に改めた。
 元和九(1623)年七月二七日に家光が正二位、内大臣、征夷大将軍、源氏長者の宣下を受けた同日に信綱も従五位下伊豆守に叙任された。
 官位叙任のタイミングを見ても、竹千代誕生以来、家光信綱は運命共同体であったと云っても過言ではなかった。

 ※余談だが、松平信綱以降、大河内松平家当主は代々「松平伊豆守」を名乗った。
  故に江戸史上、「松平伊豆守」は多数存在し、時代劇に同じ名頻繁に出て来るのはそのためである。
  まあ、「本多平八郎」、「水戸黄門」、「片倉小十郎」が何人も居るのと一緒やね。


 寛永四(1627)年一月五日、信綱は相模国高座郡・愛甲郡に八〇〇〇石を加増されて、石高が一万石なり、名実ともに大名に列した。
 寛永九年一月二四日に大御所・徳川秀忠が甍去すると事実上家光の天下となり、幼少のみぎりには暗愚視された家光が政治的手腕を発揮するようになるに従って信綱も昇進を重ねた。
 同年一一月一八日、老中並となり、寛永一〇(1633)年三月二三日、六人衆(後年の若年寄に相当)に列せられ(他の五人は阿部忠秋、堀田正盛、三浦正次、太田資宗、阿部重次)、同年五月五日、老中に任ぜられ、同日、忍藩三万石に封ぜられる、と真にトントン拍子であった。

 官位の方でも寛永一一(1634)年閏七月二九日に従四位下に昇進し、寛永一四(1637)年〜寛永一五(1638)年の島原の乱鎮圧を経て、同年一一月七日に老中首座となった。
 石高の方でも寛永一六(1639)年一月五日に川越藩六万石に石高倍増の転封を受け、寛永二〇(1643)年一一月四日に侍従兼任、と幕閣地位、官位、石高のいずれもが上昇を重ねた。


 慶安四(1651)年四月二〇日に徳川家光が薨去すると四代将軍に就任した家綱を補佐することとなり、三ヶ月後に由比正雪が起こそうとした慶安事件を未然に防いだ。
 承応二(1653)年閏六月五日に酒井雅樂守忠清が老中になるに及んで、信綱は老中首座から老中次座となったが、これは降格と云うより世代交代だろう。
 酒井忠清こそは後に「下馬将軍」と呼ばれ、家綱亡き後の将軍位を意のままにせんとした男であった。
 寛文二(1662)年三月一六日松平伊豆守信綱病没。享年六七歳。旧暦と新暦の相違を無視するなら、三一一年後のその日に菜根道場道場主はこの世に生を受けた(笑)。


Stop! My Boss 実のところ、松平信綱は主君である徳川家光徳川家綱に対してのストッパーと云うよりは、島原の乱由比正雪の変明暦の大火と云った大事件とその後の混乱に対するストッパーとしての方が重きを為している。

 勿論主君に対するストッパー振りがなかったという訳ではない。
 徳川将軍一五代の中で知名度・存在感において五本の指に入る徳川家光は幼少の頃は病弱と内気故に両親から愛されず(と云うには語弊があるが…)、「将軍の器にあらず」との見方をされた時期もあった。
 春日局という稀有な乳母の御蔭で将軍としての成長を遂げた家光の成長過程が順風満帆である筈がなく、信綱を初めとした家光の小姓達もかなり振り回された。

 少年期の家光がある女中に手を付け、身篭らせたことがあったが、将軍世子たる家光に御台所(将軍正室)を迎えてもいないのに御手付きの子を認知する訳にいかず、結果、小姓の一人が女中と不義密通を働いたこととして、小姓は切腹何の罪もない一方的な被害者の筈の女中が磔という理不尽極まりない処罰と隠蔽工作が行われた……。
 いくら当時の身分制度が絶対のもので、家光が反則なまでの特権階級であったとはいえ、理不尽極まりなく、心ある人間なら時代に関係なく激怒する処置だった。
 薩摩守が初めてこの話を知ったときは顎を落とさんばかりに呆れかえったが、さすがに家光も罪悪感に打ちのめされ、以後長年に渡って男色のみに耽るようになった。
 春日局を筆頭に稲葉正勝・松平信綱達は何とか家光の不犯を止めんとして腐心し続けた(といえば聞こえはいいが、早い話、女色への興味を取り戻させようとしたのだ)。

 また家光は一つ年上の叔父・徳川頼房や、自らと同様に父の愛を得られなかった(と思い込んでいた)異母弟・保科正之(徳川秀忠の隠し子)、自らの三代将軍位を確定してくれた祖父・徳川家康とは深い情で結ばれつつも、両親の愛を独占した(と思い込んでいた)同母弟・徳川忠長、自分より弟を偏愛した(と思い込んでいた)父・秀忠、母・崇源院、正室実家の加藤家を取り潰すことで面子を潰した(と思い込んでいた)紀伊頼宣とは身内として心通う仲とは云い難かった。

 そんな険悪な状況にあって、参勤交代で江戸に出府してくる御三家の当主を家光の名代として迎えたり、上意を伝えたり、家光が墓参を渋る芝増上寺を代参したのは信綱であった。
 徳川家光が江戸幕府を盤石化させた名君と称えられる陰で、家光と徳川一門の対人関係に将軍代理で奔走した信綱の辛苦はもっと語り継がれるべきではなかろうか?(どうせなら、信綱には家光の被害妄想思想に対するストッパーになって欲しかったな……)

 主君に対するストッパー振りと別に語りたいのは、有事において様々なストッパー振りを為した幕閣重鎮としての信綱の活躍である。
 つまりは信綱の危機管理能力について注目すべきということである。
 家光家綱の時代に江戸時代を通じても有名な事件が三件、つまり島原の乱由比正雪の変明暦の大火が起きていて、そのすべての対処に信綱は深く関わった。


 島原の乱信綱が平定したのは有名だが、一二万の大軍を率いながら平定までに三ヶ月もかかった信綱の采配は評判が良くない。
 しかし薩摩守は、信綱はそれなりに適切な采配を為したと見ている。
 廃城を改装したものとは云え断崖の要害であった原城。そしてそこに籠っていたのは、「信仰心で結束した農民」と、「関ヶ原の戦い大坂の陣で主家を失った浪人勢」で戦意も、戦闘能力も決して低くなかった。
 そんな一揆勢三万七〇〇〇名をカリスマ高き天草四郎が率いて、最後の一兵に至るまで徹底抗戦されたのだから、誰が指揮しても苦戦は免れなかった。
 実際、家康の代から大きな戦に参陣してきた歴戦の猛者であった板倉重昌が戦死する程の苛烈な戦いだった。そんな戦況下にあって、無駄な戦闘を避け、最も有利な物量作戦で犠牲を少なく勝利をもたらした信綱の采配(←しかも初陣!)は間違っていないと考える。

 それでなくとも参陣した九州諸大名の連携は弱く、現役老中が派遣される事態に焦りを感じた板倉重昌は無理な突撃を行って戦死していたのである。時間をかけて老中の権威で持って統率を高め、内通者を作りながら一揆軍の飢えと疲弊を誘ったのは現実を直視した極めて妥当な策であった。


 島原の乱は本来、領主である松倉勝家が幕府に対して過大に石高を申請し、それを誤魔化す為に過酷な年貢を取り立てたが為に勃発したものであった。
 しかし当の松倉は自らの虚偽と失政を認めず、一揆軍を「キリシタンの反乱」として報告した(その余りに虚偽づくめが生んだ咎で戦後、松倉は切腹さえ許されず、斬罪に処された。江戸時代における大名の斬罪は松倉ただ一人である)。
 一方で一揆軍を率いた天草四郎は大坂の陣で自害したと見せかけて九州に脱出した豊臣秀頼の子であるのと説が有り、豊臣家の残像を消す為に信綱を初め、幕閣は一揆軍を「キリシタンの反乱」として取り扱ったと云う説もある。
 こうした複雑な背景の為か、島原の乱で戦死した一揆軍はクリスチャンの世界において殉教者とされていない。
 いずれにしても一連の動きの中で一揆、キリシタン活動、幕府軍の犠牲、豊臣残党の影響等に(←存在が疑われる事象もあるが)ストップが為された訳だが、そのすべてに信綱が携わっていたことは想像に難くない。


 慶安四(1651)年四月二〇日に徳川家光が薨去すると、その間隙を縫うかの様に三ヶ月後に由比正雪達浪人衆が慶安事件を起こそうとしたが、前述した様にこれを未然に防いだのも信綱であった。

 関ヶ原の戦い以来、戦争も起きない為に浪人した武士の再士官、生活は供に厳しかった。
 その改善を求めて幕府の転覆を謀ったこの変は、周知の様に密告により事前に幕閣の知るところとなった。
 由比が駿府の金蔵を狙って江戸を発った翌日の慶安四(1651)年七月二三日に信綱の元に訴人があり、信綱は変の副頭格にして、江戸城襲撃の陣頭指揮を取る予定だった丸橋忠弥を捕縛し、新番頭・駒井右京親昌を駿府に派して正雪を追わせた。
 翌二四日に信綱は大老・井伊直孝と会談し、五日後の七月二九日には一味の数十名が捕えられた(この間の二五日に由比は駿府で自害)。

 この日、信綱は老中仲間である松平乗寿(のりなが)、阿部忠秋と三名で一味の金井半兵衛の捕縛を全国に命ずる旨を連署した。
 翌三〇日には一味の熊谷三郎兵衛が自殺体で発見され、金井も八月三日に天王寺で自害した。一週間後には既に捕えられていた丸橋忠弥も処刑され、変は未然に防がれた。
 変を謀った側にすれば唯一の密告者を呪いたい気分だろうけれど、メールも電話もない時代に密告から一〇日間でこれだけの計画を壊滅させた松平信綱の手腕は物凄く大きい。
 まして将軍に就任したばかりの家綱は幼君で、その治世も浸透していない状況下でのことで、変後に武家諸法度を緩めて浪人の発生率を低くする様務めた信綱の柔軟性もまた、そのままでは同様の変が起きたかもしれない要因をストップさせているのである(つまり由比一味の失敗と犠牲も全くの無駄ではなかったと云う訳である)。


 最後は明歴三(1657)年に起きた明暦の大火、別名・振袖火事の対処に尽力した松平信綱についてである。
 詳細を書くと長くなり過ぎるので、
 「江戸本郷の本妙寺(または老中・阿部忠秋邸)を火元に発生し、江戸城を初め、江戸市街の三分の二が焼失、死者は一〇万人を超えた。」
 とだけ解説しておくが、災害後、信綱は江戸を大火から守る都市計画に従事した。
 川越藩主時には川越街道の整備とともに野火止用水の開削に手腕を発揮していた信綱は、慶長一五(1610)年に起きた駿府城火災で消防の手際の良さから三〇〇〇石の加増を受けた養父・正綱の手腕を受け継いでいたらしく、市区改正・広小路・火除地の設置などは火事をよく知る者の手腕であった。


 三つの事件は、いずれも対処を一歩間違えれば幕府崩壊に繋がりかねなかった大事件で、無能な為政者なら事件そのものは自然消滅していたとしても類似事件の後続を断つ事は出来なかっただろう。
 明暦の大火の後も、「火事と喧嘩は江戸の華」と呼ばれたほど江戸は幾度となく大火に見舞われたが、明暦の大火を上回るものはなく、由比正雪クラスの謀反も、島原一揆を上回る宗教的反乱も遂に勃発しなかった。
 松平伊豆守信綱は事件そのものだけでなく、類似事件の続発に対してもストッパーだった事が覗える(それが彼を手本とした後世の人々の尽力であったことを考慮してもである)。


ストッパーたり得た要因 何と云っても万事に気のつく男であったことが挙げられる。
 松平信綱徳川家光の小姓だったときに、次の間にて控えているときにも足の指で戸口を押さえ、例え居眠りしてしまったとしても、戸が開けば目を覚ます様に心掛けたという有名なエピソードがある。

 その気配りは島原の乱由比正雪の変明暦の大火の事後処理によく表れていた。
 そしてその気配り振りは、官職名である伊豆守とかけて「智恵伊豆」(「智恵が出ずる」の意)と称された信綱の博識・知識量の賜でもあった。

 勿論、主君・家光との蜜月関係も見逃せない。が、同時にそこに血縁に裏打ちされた人間関係もまた見逃せない。
 家光家綱の二代を側近くで支えた人脈を見てみると、初期は土井大炊頭利勝、中期は松平信綱、稲葉正勝、酒井忠勝、阿部忠秋、後期は保科正之が挙げられる。
 勿論他にも多数いるのだが、信綱のストッパーとしての要因を為した人脈的要因を見る為にも上記の人物に注目したことをご理解頂きたい。

 まず、土井利勝だが、彼には徳川家康の御落胤説がある。つまりこれが事実なら家光にとって叔父であり、家康直々に命ぜられた養育係の任は、利勝をして秀忠の代わりを為さしめるものとも云える。

 続く稲葉正勝、酒井忠勝、阿部忠秋は信綱同様小姓時代から家光信任が厚く、特に春日局の実子である正勝は乳兄弟に当たる。

 最後の保科正之に至っては徳川秀忠が正室・崇源院の没後に認知した家光の異母弟で、家光が最後に頼りとした血縁者である。

 いわば徳川家光政権後半並びに徳川家綱政権前半は「血縁」と「幼馴染み」を中核とする人脈で構成されているのだが、その中にあって松平信綱家光の「遠い親戚」であり、家光が初めて一つの長として君臨した際の「側近」でもあった。
 コネクションで固めた依怙贔屓と云えば云い方は悪いが、別の云い方をすれば幼き日より家光グループを構成してきた周囲の力を遺憾なく発揮してきたからこそその中にあって信綱家光と一心同体であり、側付きストッパーで有り得たのだろう。


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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新