最終頁 「筋違い」は何故起きる?

 閲覧者からのリクエストを含め、特撮番組における10件の筋違いな逆恨みを考察した。「筋違い」や「逆恨み」を断言出来るのは、本来被害者達に害を与えた者が誰なのかはっきりしているからである。にもかかわらず例題に出て来た人々は本来の加害者ではなく、自分達を守ってくれている筈のヒーローや正義のチームに矛先を向けた者達も少なくなかった。
 もしシルバータイタンがヒーローや、正義のチームの隊員だったら、「日々命懸けで守っているのに、そんな風に恨まれるならやってられないよ!」と思うことだろう。だが、この様な例は決してフィクションの世界の話だけのことではない。

 現実の世界でも凶悪犯罪が起きれば、逮捕され、有罪が認定された加害者が責められるのは当然なのだが、前後の状況によって犯罪から身を守っている筈の警察関係者が責められることがある。また加害者が前科者ならそいつを世に放つ判断をしたり、その者に対する罰則軽減に努めたりした裁判所や刑務所や弁護士が恨まれることもある。そして判決次第では弁護士や裁判官が被告から恨まれ、死刑を含む厳罰を勝ち取れなかった検察官が原告から恨まれることもある。
 また、有罪が下ったケースだけでなく、犯人が捕まることなく逃げ果せればこれまた警察は「何やってんだ!?」との罵声を浴びせられることが珍しくない。

 確かに被害に遭った人々にしてみれば、要因になった者や、望む解決に至らなかったすべてを責めたくなる気持ちは分からないでもない。だが、本来味方である筈の者をも責めていたり、状況的に責任を負う立場にないものを責めたりすることもある。そしてそれらの中には「逆恨み」や「筋違いの怒り」も散見される。

 では、何故、本来責めるべき相手ではなく、守ってくれている者や、共闘者に誤った矛先が向けられるのだろうか?
 フィクションの世界の「逆恨み」を、「作り話の世界の出来事」として受け流さず、未来の逆恨みを生まない為にも拙文であってもこの最終頁を真剣に閲覧願いたい次第である。
 シルバータイタンの書いていることは必ずしも正しいとは云い切れない。だが、所謂、「逆恨み」がそれを向けられる者は勿論、向ける者にとっても不幸であることは断言出来る故に。



考察1 求められる「怒りのぶつけどころ」
 書籍名を覚えていなくて恐縮だが、かつて読んだ本にこんな話があった。
 アメリカのとある地方で車を走らせていた男性(仮に「A氏」と表記)が道端に倒れている人(仮に「B氏」と表記)を発見した。周囲は荒野で、A氏は自分の車にB氏を乗せて病院へ急いだが、不幸にしてB氏は途中で息を引き取った。
 後日、A氏は亡くなったB氏の遺族から責められた。

 「アンタが動かしたからうちの人は死んだんだ!」

 と。
 実のところ、B氏の死因も、動かしたこととの因果関係も不明で、その後この話がどうなったかもその書籍には書かれていなかった。
 ただ、その書籍では亡くなった人の遺族は、家族の突然の別れに対してその死を受け入れられず、不幸に対する憤りからその感情をぶつける相手としてA氏を選んだのだろう。と分析していた。

 第三者的に、冷静に考えるなら全くもって理不尽な話である。

 A氏が動かさずに救急車を呼んでいたとしても、B氏の遺族は「何故救急車が来るまでの間介抱しなかった?」、「救急車を呼ぶ前に搬送してくれていれば助かったんじゃないか?」としてA氏を責めたと思われる。また、仮に動かしたことが死因となってしまっていたとしても、何もしようとしない人より遥かにマシである。
 結局、身内に死なれた遺族はその悲しみをぶつける相手を求めてしまうのである。故に気持ちが全く分からないとまでは云わないが、やはりB氏遺族がA氏に怒りの矛先を向けるのは間違っていると云わざるを得ない。もしB氏遺族の怒りが正当なものとされ、、A氏が「人を死なせた。」として白眼視されるなら、誰も行き倒れを助けなくなる世の中になるだろう。

 A氏の死が避けられなかった結果は痛ましいし、遺族の悲しみは察して余りある。だが、いくら受け入れ難い結果だったからと云って、助けようとしたB氏を責めるのは絶対に間違っているし、仮に救命措置に(結果的な)不手際があったとしても、助けようとした事実は感謝こそされど、責められるものでは決してない。
 大切な人を失った直後の人々に冷静さを求めるのは酷だとは思うが、心の痛みをぶつける対象が欲しくても、その対象を間違えばその悲しみすらもが正当なものでは無くなってしまうだろう


考察2 求められる「責め易い相手」
 『闘将!拉麺男』という漫画にて、主人公の拉麺男は破壊鬼・玉王率いる将棋七鬼衆に勝負を挑んで、彼自身にとって初めての敗北を喫したことがあった。事の起こりは玉王が村人の飲料水として使っている川に人間を石化させる毒薬を流し、その特効薬を独り占めにするという、村落を潰そうとしているしか思えない悪行を働いていたことにあった。
 村人・麻婆から救援を求められた拉麺男は、玉王の元に幼い時に生き別れになった妹・拉娘(ラーニャ)がいると知って、冷静さを失って玉王達に敗れた。
 まんの悪いことに、敗れた直後に拉麺男に加勢しようとして駆け付けていた麻婆を初めとする村人達は玉王達七鬼衆に皆殺しにされてしまった。

 心身共にズタボロ状態で村に戻って来た拉麺男を待っていたのは、麻婆を初めとする殺された村人の遺族達だった。
 麻婆の妻と見られる中年女性は涙を流しながら、「うちの亭主はあんたを助けようとして殺されたんだよ、この人殺し!」と拉麺男を罵った。他の村人達も同じ気持ちで、大切な人を失った悲しみと怒りから彼等及び彼女等は拉麺男に次々と投石を浴びせ、痛罵する声の中には、「お前、本当な大林寺の回し者じゃないのか?」とする者まであった。

 だが、遺族に酷なことを書けば、一人で戦おうとした拉麺男だったのに、勝手に「一人じゃ無理!」と決め付けて加勢に駆け付けたのは麻婆達である。殺されたことを自業自得とまでは云いたくないが、元々大林寺の面々に自分達では勝てないから拉麺男に救いを求めながら、拉麺男が断った加勢に出たのだから、本来なら殺される覚悟ぐらいしてかかるべきである。
 そして書くまでもないことだが、麻婆達を皆殺しにしたのは玉王達で、「人殺し」は玉王達にこそ浴びせられる言葉なのである。はっきり云って、リアルタイムでこの話を見た時道場主は、「ほなら、自分達で大林寺に仇討ちに行け!」と叫ばずにいられなかった。
 詰まる所、大切な家族を失った怒りと哀しみを、殺害した張本人である玉王達には手が出せないから、反撃する心配のない拉麺男にぶつけていたに過ぎないのである。
 在り得ない話とは云え、もしあんまりな仕打ちにキレた拉麺男が報復に出たら彼等はどうするつもりだったのだろうか?

 似た例をもう少し現実に近い例で挙げると、映画『ミンボーの女』がある。
 この映画は民事介入暴力−略してミンボーと、その脅しに遭いながらも徐々にやくざへの対応力を強めていくホテル従業員達のストーリーなのだが、話の中盤でやくざ側は示談金を脅し取る為にホテル側に工事中止を求める揺さぶりを掛けた。
 幾つか行われた方法の一つが街宣車でがなり立てるものだったが、これによってホテルのコールセンターに苦情の電話がひっきりなしに鳴り響いた。騒音で赤ん坊がひきつけを起こしたり、子供が眠れないと云ったり、といったものだったが、これも第三者的に見れば、「騒音を起こしたのはやくざなのに、当の本人達に直接文句云うの怖いから、責め易いホテルを責めてるだけやんけ。」としか映らない。
 ただ、現実に同じ事が我が身に起きれば、同じ選択をする人間が大半だと思う。

 現実の世界でも、暴力団やマフィアや半グレ集団が街の一角を裏面から支配し、警察がそれを充分に取り締まれなければ、住民や被害者の中には警察を罵る者が珍しくない。
 だが、これも本来は罵り、加害を詰るべき相手は暴力団やマフィアや半グレ集団である。だが、こいつらを正面切って罵ったり逆らったりすれば後が怖い、と多くが考える。逆に警察をいくら罵っても暴力を振るわれることは無い。もし警察官が『天才バカボン』に出て来る様なすぐに発砲する連中の集まりだったら、決して警察官を罵ったりしないだろう(苦笑)。

 上述の『闘将!拉麺男』の話でも、自分が冷静さを失ったことで麻婆達が犠牲になったことに物凄い罪悪感を抱えていた拉麺男は項垂れたまま、村人達の投石をただただその身に受けていた。
 いくら悲しみ・怒りをぶつける相手が欲しいからと云って、本来の加害者は怖くてスルーするくせに、反撃の心配がない失敗者を攻撃する姿勢は「卑怯」と云わざるを得ないし、いくら罵ったところで何も解決しないどころか、新たな怨み合いを生じさせるだけでしかないことを断言したい。



考察3 何を怒り、何を恨み、如何に終わらせるか
 突然大切な身内や友を失えば誰だって冷静ではいられない。怒りと悲しみは甚大で攻撃的になるのは誰にだって起こり得る話である。『仮面ライダーゴースト』に登場した御成(柳喬之)は冷静さに欠ける三枚目キャラながら、敵であるジャベル(聡太郎)の苦境におにぎりを持ってくるなど、御仏の慈悲を忘れないキャラだったが、そんな御成でも、アデル(真山明大)が先代住職である天空寺龍(西村和彦)を殺した張本人と知った際は、天空寺タケル(西銘駿)に「倒すべき!」と訴えていた。
 病気や事故でさえ、大切な人の死を回避出来なかった際にそれに携わった人を責めてしまいたくなる時が人間にはある。ましてそれが殺害によるもので、直接の加害者が眼前にいて反省も悔悛も罪悪感も見せていなければ、「恨むな」と云うのは無理であろう。

 ただ、世の中加害と被害の因果関係がはっきりしているときばかりではない。また加害者が自分の力で責めることの出来ない相手である場合、そのスケープゴートとなる対象を無理やり設定してまで人は怒り・悲しみをぶつけようとする。
 一例を挙げると、平成7(1995)年の阪神大震災の時も、平成23(2011)年の東日本大震災の時も、一部の新聞の見出しに「人災じゃないのか?」と書かれた。
 自然災害である地震が誰かが恣意的に起こした犯罪である訳がないのは誰にでも分かる話である。しかしながら震災発生前の防災や、発生後の処置に不足があると一部マスコミは「人災」と書く。
 例えば、東日本大震災において大きな被害を被った東北地方だったが、昭和57(1982)年に起きた宮城沖地震の教訓から建物の免震化が進んでおり、揺れだけでは阪神大震災を上回る被害は出なかった。だが、予想外の津波が阪神大震災を上回る惨禍をもたらし、原発事故が今も一部の人々が故郷に帰ることを妨げている。つまり、政府は過去に学び、打てる手はそれなりに打っていたが、それでも出てしまった惨禍に対して罵声が浴びせられるのである。

 酷い書き方をすると、人間はどうしようもない怒りや悲しみに対して八つ当たり対象を求めているとしか云い様がない。
 ただ、悲しみや怒りを背負った人々の名誉の為に言及しておきたいが、彼等も決して喜んで八つ当たりや逆恨みをしている訳ではない。被害に遭わなければかかる負の感情を抱く必要はなかったのである。本作冒頭でも触れたが、八つ当たりも逆恨みも、それは行っている側にも、受けている側にも不幸で不毛な悲劇でしかないのである。

 ではこんな愚行・愚考、そしてそれに伴う二次的な悲しみを生まない為にもどうすればいいのだろう?
 まずは、「加害者の正しい認定」であろう。これは「誰が加害者なのか?」だけではなく、(自然災害や元々の天寿などで)加害者が不在ならば、辛くてもそれを認める事であろう。
 そして間違いない加害者であれば、法廷なり、メディアなりで口を極めて罵り、その責任を取ることを強く求めるべきであろう。

 次に大切なのは、「手段・結果に囚われず、救援・解決に尽力してくれている人を恨まないこと」であろう。確かに尽力してくれた人の能力や手際によっては望む解決が遠ざかることがあるかも知れない。その結果に面白からざる感情が生まれるのは分からないでもないが、それでも意図的に加害行為に及んだ者と同一視して加害者認定するのは著しく不当で、助けてくれる人にそんな目を向けてはその内誰も助けてくれない存在に自らを陥れてしまうことだろう。

 そして最後に、これは極めて困難だが、「解決の着地点を決めること」だろう。
 一例を挙げれば、大切な人が誰かに殺されれば、それが怪獣や宇宙人ならその討滅が、人間によるものなら死刑を含む厳罰に処せられることが望まれるだろう。
 確かに大切な人に死なれた悲しみは、原因となった者の命が奪われても消えることは無い。ましてや現代日本では殺人犯の1%程度しか死刑囚とされない上に、死刑が確定してもなかなか執行されない(海外に目を向ければ死刑が廃止されている国の方が多い)。
 だが、何時までも恨み続けることや、哀しみ続けることは亡くなった本人も決して望んではいないだろう。どんなに困難でもどこかで区切りをつけなければならない。さすがにそれを事件直後の凄まじい悲しみと怒りの中にいる人に求めるのは無理であろう。
 だが、そこは時の流れと周囲の支援が気持ちの整理をつけさせることに期待するしかないだろう。

 いずれにせよ、筋違いな怒り、恨み、そしてそれらをいついつまでも引きずることは誰にとっても不幸であり、亡くなった人の名誉をも傷つけかねないことを断言して本作を締めたい。引き摺らないのが無理でも、少しでもかかる負の感情を薄れさせて欲しいものである。

令和六(2024)年二月七日 特撮房シルバータイタン




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令和六(2024)年二月七日 最終更新