第壱頁 安部頼時………降伏は都合が悪かった?

降伏者安部頼時(あべよりとき)
生没年?〜天喜五(1057)年七月下旬から八月初旬頃
降伏した戦争前九年の役(厳密には違う気がするが………)
降伏した相手源頼義
降伏条件朝廷による大赦への恭順
降伏後阿久利川事件で瓦解
前半生 安部頼時は初名を安部頼良(あべよりよし)と云った。
 生年は不詳。平安時代中期、陸奥大掾(←陸奥権守の様な官位らしい)であった安倍忠良の子に生まれた。平安時代、東北地方は「蝦夷(えみし)」と呼ばれた異民族の支配する地で、大和朝廷は税を収め、恭順を誓うことで半独立勢力としてその統治を黙認していた。
 蝦夷には幾つかの部族があり、安部氏は「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれる一族で、頼良の代には奥六郡(現・岩手県北上川流域)にて族長制社会を形成し、一一世紀半ばには朝廷への貢租を怠る状態となった。
 これを懲罰せんとして永承六(1051)年に、陸奥守・藤原登任が数千の兵で攻め寄せんとしたことで、奥羽の地は長く戦乱に見舞われることとなった。



戦端 朝廷からの討伐軍が来るのを察知した安部頼良は逆に俘囚等を動員して衣川を越えて国衙領へ侵攻し、鬼切部の戦いにおいて国府側を撃破した(前九年の役)。
 慌てた朝廷は清和源氏の棟梁・源頼義を新たに陸奥守に任命して派遣した。



降伏 だが、安部頼良軍と源頼義軍は激突しなかった。
 と云うのも、頼義が陸奥に赴任した翌永承七(1052)年春、朝廷において上東門院藤原彰子(一条天皇中宮・有名な藤原道長長女)の病気快癒祈願の為に大赦が出され、安部氏もこれに含まれた。
 元より頼良は地元に勢力基盤を築きたいだけで、朝廷に反逆したい意があった訳ではなく、頼良は息子・貞任(さだとう)とともに源氏軍の下に出頭し、大赦に感謝する形で降伏し、恭順を示す意として、頼良は自分の名前が源頼義と読みが同じことを遠慮して「頼時」と改名すると申し出た(同時に頼時は朝廷から鎮守府将軍に任命された)。



その後 だが、事件は一件落着とならなかった。
 天喜四(1056)年、源頼義が任期満了で陸奥守の任務を終え、中央に戻ることとなったのだが、その直前、多賀城へ帰還中の頼義軍の部下の営所を何者かが夜襲された(阿久利川事件)。
 頼義は部下殺害の下手人を安部貞任であるとして、その身柄を要求した。貞任は父に対して身に覚えがないことを訴え、頼時も息子がこの大事な時にわざわざ相手を怒らせる愚か者ではないとし信じ、頼義の要求を拒絶して、領土守るべく挙兵した。
 勿論、これに対して朝廷は頼義安部頼時追討の宣旨を下した。

 実際のところ、この阿久利川事件が貞任によるものかどうか確たる証拠はない(貞任に逆恨みされていると思っていた藤原光貞の密告が唯一の証拠)。
 個人的見解として、薩摩守は十中八九、頼義による自作自演と見ている。まず、頼時が息子を信じたように貞任には動機がない。仮に貞任が源氏を憎んでいて、反旗を翻す意を内包していたとしても、戦上手な頼義が都に引き返した後の方が事は容易である。
 また、貞任とは逆に源氏側には自作自演を行ってでも安部氏を滅ぼしたがる動機は充分にあった。頼義は清和源氏始祖・源経基の曾孫に当たる人物だが、経基は平将門や藤原純友等と戦った人物で、武力で自勢力拡大を始めた人物である。
 その息子・満仲(頼義祖父)は藤原氏の手先となって源高明を失脚させ、花山天皇を出家・退位させた策謀家で、その子・頼信(頼義父)は平忠常の乱を戦わずして鎮めたが、降伏直後の忠常が護送中に急死したことには関東に覇を唱えんとした頼信による暗殺説がある。
 父祖だけではない。頼義の息子・八幡太郎義家が頼義と共に東北覇権の為に戦い続けたのは有名だし、その後も義親(孫)、義朝・為朝(玄孫)、義平・頼朝・義仲(来孫)と地方に勢力を張る為に戦い続けた奴等ばかりである。
 特に義家・頼朝の陸奥に対する執着は凄まじかった………が、これはまあ後の話。いずれによせ、動機面で語れば源氏方が安部氏に対して冤罪で言い掛かりをつけて相手が戦端を開かざるを得ない状況に持っていき、安部氏討伐の勅許を得たのだろう。

 いずれにせよ、頼義の安部一族に対する敵意・戦意は凄まじく、これを恐れたものか、果てまた源氏の余りのやり方に辟易したものか、頼時の娘を妻としていた藤原経清が大和民族であるにもかかわらず、岳父である頼時に付いた。頼時・貞任が喜んだのは云うまでもない。
 再度開かれた戦端は一進一退で、「安部一族手強し!」と見た頼義は奥六郡より北方の津軽俘囚を調略し、自陣営につけることに成功。慌てた頼時は天喜五(1057)年七月、反旗を翻した一族と見られる安倍富忠を説得する為に北上したが、仁土呂志辺においてに富忠勢の伏勢による奇襲を受け、流れ矢を受けて深手を負った。
 頼時は何とか本拠地の衣川の目前である鳥海柵まで退却したが、そこで息を引き取った。

 戦いは貞任が後を継いで続けられ、貞任は黄海の戦いでは頼義・義家父子をたった七騎で敗走せしめるほどの奮戦をしたが、頼義は安部氏と同じ俘囚である清原武則(出羽俘囚)を味方につけるのに成功すると反撃に転じ、貞任は厨川柵の戦いに敗れて戦死し、朝廷を裏切ったと見做された藤原経清は苦痛が長引くようになまくら刀で鋸挽きのようにして斬首された。

 かくして前九年の役は終わり、安部一族は滅亡した。
 ただ、源氏のこの汚いやり口を天は許さなかったようだった。安部氏に代わって奥六郡を支配した清原武則は息子が頼時の娘(藤原経清未亡人)を娶ったが、後年孫達(真衡・清衡・清衡)が内紛を起こした。
 これに頼義の子・義家が介入し、清衡(藤原経清実子)と家衡(清衡異父弟)は降伏した(真衡は義家陣中で急病死)が、すぐに家衡が反旗を翻した(後三年の役)。
 この戦いは義家・清衡が勝利したが、朝廷は戦争を源氏と清原氏の私闘と見做して(←間違いではない)清原家衡討伐の勅許も、乱平定への恩賞も出さなかった。

 結局、義家は昇殿を許されたことで洛中にて多忙となり、奥六郡は亡父の姓に戻して奥州藤原氏の祖となった藤原清衡の支配するところとなり、義家は多大な犠牲と莫大な戦費を払いながら奥羽に覇を唱えられず、源氏が奥羽を支配したのは義家の玄孫・頼朝の時代まで待たねばならなかった。


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令和四(2022)年七月七日 最終更新