第弐頁 顕如………粘り勝ちに等しい降伏?

降伏者顕如(けんにょ)
生没年天文一二(1543)年一月六日〜天正二〇(1592)年一一月二四日
降伏した戦争石山合戦
降伏した相手織田信長(正式には朝廷)
降伏条件石山本願寺開城
降伏後本願寺が東西に分裂
前半生 天文一二(1543)年一月六日、浄土宗本願寺派第一〇世宗主証如の息子として大坂石山本願寺に生まれた。幼名は茶々(←どうか聞いたような名前だ)、諱は光佐で、本願寺光佐と呼ばれることもある。

 天文二三(1554)年八月一二日、証如が病で重態となり、急遽得度が行われ、同時に父同様九条家の猶子ともなった。翌一三日、証如が示滅(死去)したことで本願寺宗主を継承した。
 弘治三(1557)年四月一七日、六角定頼の猶子・如春尼を娶った。如春尼の実父は三条公頼で、その長女で如春尼の姉は武田晴信(信玄)に嫁いでいたので、顕如は信玄と義兄弟となっていた。
 勿論政略結婚だったが、夫婦仲は至って良く、教如・顕尊・准如といった子宝にも恵まれた。

 その後、顕如は八世蓮如の時代以来進めてきた各地の一向一揆の掌握、管領の細川家や京の公家衆や各地大名との縁戚関係を深め、経済・軍事の要衝・石山を拠点とし、大名顔負けの権力・武力を有し、教団を巨大勢力とした。

 だが、大勢力にも斜陽の時がやって来た。織田信長との対立である。
 始まりは信長が足利義昭を報じて上洛してきたことにあった。義昭は永禄一〇(1567)年に兄にして、一三代将軍だった足利義輝を三好義継等に殺されて京を脱出しており、信長は彼を立てることで畿内に勢力を築かんとした。
 だが、義昭はすぐに信長が自分を傀儡としかしていないことに気づき、全国の諸大名に御内書を送って信長打倒を呼び掛け、その中には石山本願寺も含まれていた。



戦端 顕如はこの御内書に応じ、「法敵・織田信長を討て!蜂起しない門徒は破門する!」との檄まで飛ばし、元亀元(1570)年野田・福島の戦いを皮切りに本願寺と信長は交戦状態に入った。
 顕如自身、石山本願寺に籠城し、雑賀衆等の友好関係にあった土豪勢力や地方の門徒組織を動員して信長に対抗した。

 周知の通り、石山の地は後に豊臣秀吉が難攻不落の居城・大坂城を築いた地である。軍事的にも、経済的にも要衝の地で、ここに精強な軍が籠ると陥落はまず不可能だった。
 それでなくても信長は周囲に多くの敵を持つこととなり、命が幾つあっても足りない難戦連戦に明け暮れた。実際、同じ一向宗の門徒である長島一向一揆の前には多くの身内や部下を失った。

 顕如信長の戦いの詳細は過去作『怪僧大集合』を参照頂けると嬉しいが、本作ではダイジェストで記しておきたい。

 戦いは元亀元(1570)年九月一二日から天正八(1580)年八月二日までの一〇年以上に及んだ。
 元亀元(1570)年九月一四日、淀川堤で信長軍と戦い、劣勢となった本願寺軍は石山に引き返し早くも籠城に入った。一向宗門徒の手強さを知り、足利義昭考案の反信長包囲網の中にあった信長は無理攻めせず、監視の為の軍を置くと、朝廷に働きかけて本願寺軍に矛を収めるよう勅書を出させ、早くも戦闘回避に出て、緒戦の戦闘期間は一ヶ月に満たなかった。

 元亀三(1572)年七月、信長は家臣に一向宗禁令を出し、一向宗に対する政治的弾圧に出たが、顕如の義兄・武田信玄が仲介し和議を結んだ。
 だがその信玄は西上途中の天正元(1573)年四月一二日に病死し、信長は朝倉・浅井を滅ぼした勢いで再度長島を攻めた(失敗)。この動きに対して顕如は 毛利輝元と結んで反信長包囲網の堅持に務めた。
 朝倉滅亡後、信長は越前一向一揆に苦しめられたが、顕如が越前守護に下間頼照(しもつまよりてる)を派遣したこともあって和議は壊れ、四月二日に石山本願寺は再挙兵した。
 信長は長島・越前・石山に点在する本願寺勢力に対して各個撃破を図り、七月に大動員令を発して長島を陸上・海上から包囲し、兵糧攻めにした。特に長島は凄惨な展開を辿り、九月二九日に降伏・開城したが、その後拙サイトで何度も触れた大虐殺が起きた………。

 天正三(1575)年、信長は本願寺と結託した高屋城主三好康長を降伏させ、武田勝頼を長篠の戦いで破り、八月一二日に越前を平定。九月には北ノ庄に戻り、更に岐阜へと戻って石山を牽制した。
 長島と越前が敗れ、大虐殺が敢行されたことを受けて顕如信長に自らの行為を詫び、条目と誓紙を納めることで再度和議を結んだ。
 だが信長の態度は硬化しており、「今後の対応を見て赦免するかを決める」と出た。

 天正四(1576)年春、顕如は毛利輝元の庇護下にあった足利義昭と組んで三度挙兵。信長は四月一四日、明智光秀に命じて石山本願寺を三方から包囲し、長島同様の兵糧攻めに出た。
 だが本願寺は海上から弾薬・兵糧を補給。木津を攻められた際も一万を超える軍勢でこれを返り討ちにした。天王寺砦では織田方の原田直政を討ち、明智光秀ですら砦に立て篭もって、信長に救援を要請する有様だった。
 信長は援軍を連れて来て天王寺砦を包囲していた本願寺軍を攻め、包囲を突破して光秀と合流。砦の内外から挟撃された本願寺軍は浮き足立って本願寺内に退却した。
 その後、信長は更に包囲を強化し、顕如は利輝元に援助を要請。輝元は七月一五日に村上水軍など毛利水軍の船七〇〇〜八〇〇艘でもって兵糧・弾薬を大坂湾から運び込み、これを妨害せんとした織田方の九鬼水軍は毛利水軍の兵数と火器の前に大敗した。

 翌天正五(1577)年二月二日、本願寺に協力していた紀伊の雑賀衆と根来寺の一派が信長に内応し、信長は和泉・紀伊に攻め入り、降伏に追い込んだ。
 勢いを得た信長は九鬼嘉隆に有名な鉄甲船を造らせ、天正六(1578)年六月二六日、熊野浦から大坂沖に向けて出航。本願寺軍は淡輪(現:大阪府岬町)で鉄砲も火矢も通じない鉄甲船の前に多くの船を沈められ、制海権を奪われた。
 九鬼水軍は七月一七日堺に着岸し、翌日から石山本願寺への海路を封鎖。駆け付けた毛利水軍も鉄甲船団に敵わず、本願寺包囲網は崩せず、海上封鎖で弾薬や食料の欠乏に苦しんだ本願寺は継戦不能状況に直面し、泥沼状態の戦いも終結に向かった。



降伏 恐らく、顕如本人にインタビューしたとすると、彼は「降伏」とは云わず、「和睦」と云うだろう。どっちを見るのが妥当かは後述するとして、石山本願寺対織田信長の戦いの終結について見てみたい。

 前述した様に籠城戦にあった石山本願寺は織田水軍の海上封鎖で食糧・弾薬の補給を絶たれ、抗戦が困難となった。
 直前まで、信長は荒木村重の離反や別所氏の奮戦で中国征伐軍が危機に瀕し、朝廷を動かして和睦を図るも、意気上がる毛利が応じず、朝廷からの勅使に対して顕如も「毛利氏の賛同が無いと応じられない」として拒否した。
 だが、上述した様に信長は毛利水軍の撃破に成功し、海上封鎖で弾薬や食料の欠乏に苦しんだ顕如は本願寺が苦しむのを見計らい、天正七(1579)年一二月、顕如は密かに朝廷に先年の和解話のやり直しの希望を伝えるや、信長からも再度朝廷に講和の仲介を働きかけ、互いが和睦を望んだ結果、翌天正八(1580)年三月一日、「勅命講和」が成立し、長い戦いはようやく終結した。

 八月二日、顕如は織田軍に石山本願寺を引き渡して退去。信長は火を放ち、石山本願寺は三日三晩燃え続け、完全に焼き払われた(退去をよしとしなかった教如が火を付けたという説もある)。

 同時にこれは互いに「痛み分け」とも云える結末だった。信長にしてみれば「一〇年以上かけても武力で石山は落とせなかった。」となり、顕如にしてみれば「難攻不落の本拠地を退かざるを得なかった。」という悔しさが残った。
 だが、長島における開城後の助命反故や大虐殺に伴う悲惨な殲滅戦を鑑みれば、顕如信長共に最善を尽くせたと云えなくはない。偏に、朝廷による仲介を受けていたのが大きく、例え実権や武力を持っていなくても権威と云うものが日本史において大きな存在だったことが伺えて興味深い。



その後 織田信長への「降伏」(くどいが、形の上では「和睦」)後、本願寺としては顕如及びその息子達が様々な人生を送った。

 顕如自身は豊臣秀吉の強い影響下に置かれることになった。
 和睦した相手である信長は二年後の天正一〇(1582)年六月二日に本能寺の変で倒れ、顕如はその後畿内の実権を握った羽柴秀吉(豊臣秀吉)と改めて和解した。
だが、信長の後継者となった秀吉の勢力はその後急拡大し、顕如は様々な命を受けることとなった。天正一三(1585)年には秀吉が石山本願寺の寺内町をモデルに建設した摂津中島(現:天満)に転居し、天満本願寺を建立したのだが、そこは低地で、壁をめぐらしたり堀を掘ったりすることを禁じられたこと。

 天正一七(1589)年、京都聚楽第の壁に落書を書かれる事件が勃発。犯人が本願寺寺内町に逃げ込み、更に天満に秀吉から追われていた斯波義銀(元・信長の主君)・細川昭元・尾藤知宣が隠れているという情報を得た石田三成によって、寺内町の取締と、下手人達を匿ったとされた二町が破壊された。
 犯人隠匿容疑で天満町人六三名が京都六条河原で磔とされ、顕如は二月二九日に秀吉から浪人の逃亡を見過ごしていたことを理由に叱責を受けた。
 三月八日には犯人隠匿容疑で願得寺顕悟に自害が命じられ、既に領主権力は有ったものではなかった。

 二年後の天正一九(1591)年、秀吉から京都七条堀川に寺地を与えられ、京都に本願寺教団を再興したが、翌文禄元(1592)年一一月二四日入滅、顕如こと本願寺光佐享年五〇歳。


 かくして顕如自身は往時の勢力や求心力を失ったものの、武家政権から教団を守り通して生涯を終えた。だが、顕如の息子達は教団こそ失わなかったものの、その後の武家政権に翻弄されて東西分裂の憂き目を見ることとなり、その分裂は現在に及んでいる。

 簡単に記すと、顕如入滅後、三男・准如が後を継いで一二世法主となった。三男が後継者となったのは長男・教如が徹底抗戦を主張して石山本願寺退去に反対することで顕如に逆らったためであった。
 その教如は後に徳川家康による寺地の寄進がなされ、慶長七(1602)年に東本願寺を建立。これにより准如率いる元祖・本願寺は東本願寺と呼ばれることになったが、当然双方とも「本願寺」を称している。

 一大勢力として本願寺を率いた顕如の抗戦と降伏は可能な限り(敵味方共に)無駄な犠牲を避け得たものだったが、同じ宗派が分裂したその後を見ると、外の固めは堅くても内部の結束が脆かったことを非難しては気の毒だろうか?
 単に家康の宗教勢力を抑える手腕が老獪だったと云えるのだろうけれど、顕如の息子達が一致団結していればとの想いは残るのであった。


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令和四(2022)年七月七日 最終更新