最終頁 降伏と和睦の相違

総論壱 世界史における「降伏」の例
 日本史における「降伏」を幾つか考察した。勿論戦争の歴史は古今東西溢れ返っており、各国にて歴史の大きなターニングポイントとなったものもあれば、局地戦的で大勢に影響しないものもあった。そこで、ここでは薩摩守が個人的に印象に残っている二つの例を簡単に取り上げたい。

 一つは中国史から。
 三国時代における、への降伏である。
 三国時代は、正式には二二一年に後漢のラストエンペラー・献帝から魏王曹丕への禅譲が行われたことで始まった(元となった群雄割拠状態は前々からあったが)。その曹丕の皇帝即位を認めないとして、を支配していた漢中王・劉備が二二二年に蜀漢の建国と皇帝即位を宣言し、が争う中で漁夫の利的に国力を増大させた後の孫権も後に呉帝として即位したことで中国は・呉・の三国時代に突入した。
 三国の中で最も強大だったのはで、曹丕の父・曹操の時代に天下の三分の二を掌握しており、それに対抗したの国土は三分の一、人口は五分の一で、結局は北伐を繰り返すも長安すら落とせず、建国四一年後の二六三年に二代目皇帝劉禅の代に滅亡した。

 そのの滅亡に関し、高校時代にに降伏したことを知った道場主は驚愕した。
 昭和中期生まれの多くの例に漏れず、横山光輝『三国志』でその結末を知った少年の頃の道場主だったが、『三国志』を読み終わるまでは、「は天下を統一出来なかった。」、「は二代目劉禅の代に滅びた。」としか知らなかった。また、中学生の頃に見た人名事典の諸葛亮の項目で、「出来の良くなかった二代目の劉禅にも真心を尽くしました。」という記述を見ていたので、「劉禅が無能でか呉に攻め滅ぼされたんだな。」という認識だった。

 その滅亡の詳細を知った時、亡国が「降伏」によるもので、劉禅がその後生き永らえたことに愕然とした。『三国志』を呼んでいると曹操は自分に対する謀叛が発覚すると、謀叛参加者は勿論その一族も悉く処刑していたし、歴史は古代を遡るほど敗者に容赦がないと思っていたから、「漢の正統」を訴えていたの皇族である劉禅が殺されなかったことにも驚いたが、後の孫権が状況によっては一時的に曹操・曹丕に膝を屈したことがあったのに対し、劉備・諸葛亮は一貫してと敵対していたので、劉禅の方から降伏を申し出ていたことにも顎を落とした。
 横山『三国志』では滅亡時の劉禅は戦を嫌い、覇気もなく、第五皇子の劉ェが先帝達建国の功臣の労苦と共に徹底抗戦を訴えても、「そちの様な小童に天の時が分かるか!」として退け(直後に劉ェは妻子共々自害)、「身分を保証すれば降伏する。」として魏将・ケ艾に降伏していた。

 降伏後、劉禅は洛陽に連行され、から安楽公に封じられ、捨扶持を貰って何の野心もなく六五歳で天寿を全うした。の司馬昭から「が恋しくありませんか?」と聞かれても、「ここは楽しいから、思い出しません。」と答えて司馬昭やの旧臣を唖然とさせていた。

 そんな劉禅の旧都である成都にある、初句の英雄・名称を祀る武侯祠に今も祀られていないとの記述を見たときは、「当たり前だ!」との憤りも覚えた。
 別段、何も何が何でも劉禅に死んで欲しかった訳ではない。
 国の滅亡がたった一人の人間の力量や責任に帰すことはまずないし、良くも悪くも劉禅にそこまでの能力はない。の滅亡は致し方なかったにしても、彼が「最後の最期まで抗戦する。」、「成都攻防戦の果てに刀折れ、矢尽きて降伏した。」、「降伏後、将兵の助命を託して自らは庶民となった。」等の展開を辿っていれば、ここまで劉禅に嫌悪感を抱かなかっただろう。

 もっとも、これには若き日の血気盛んな性格と価値観から来たものもあった。
 年齢を経て、横山『三国志』以外にも様々な関連書籍を読み、劉禅に対する物の見方も多少は修正されている。
 そもそも開祖の劉備が漢朝再興に生涯を尽くし、曹操に徹底的に抗した為、それを受け継いだ諸葛亮は六度の北伐を行ったが、の廷臣の多くは両国の力量差から北伐に積極的ではなく、後世の研究者にも「元々に勝目は無かった。」と捉える者も多い。
 また、劉禅もいきなり父や功臣の苦労を考えない暗君に成り下がった訳ではなく、諸葛亮が街亭の戦いに敗れて丞相を辞そうとしたときには、丞相職を廃し、諸葛亮を右将軍として「降格」の形は取りつつも今まで通りに三軍を指揮出来るよう図らい、諸葛亮に対しても「これ以上の我儘は許さぬ。」と窘めさえした。
 その諸葛亮が五丈原の戦いで陣没した際には、諸葛亮の遺訓・遺言を徹底的に信頼して魏延と楊儀の争いを沈め、諸葛亮が残した人事を徹底し、棺が成都に帰った時にはこれに取り縋って「天は朕を滅ぼしたもうた!」と叫んで号泣し、周囲の涙を誘った。

 劉禅の人柄は決して悪くないと思う。そもそも幼少時から父の影響で母に死なれ、戦場に彷徨い(←本人の記憶はないが)、父の崩御により僅か一七歳で皇帝と云う立場に就かされ、初めは自我の発露もあったものじゃなかったことだろう。
 ある識者は劉禅のことを「染まり易い白糸の様な人。」としており、劉禅が愚帝暗君に成り下がったことには周囲の責任も小さくない。
 悪名の高い降伏だって、劉禅が云い出したと云うよりは周囲の廷臣の進言によるところが大きい。降伏に際して劉禅は服を脱ぎ、自らの体に棺を縛り付けてケ艾の前に出たと云うから、敵味方に向けたパフォーマンスがあったにせよ、殺される覚悟が皆無だった訳ではないだろう。
 を離れた後の、に対する無関心振りも、司馬昭に目を付けられない為に暗愚を装った可能性が指摘されている。

 とは云え、劉禅に対するイメージがすっかり良くなった訳でもない。劉ェが潔い憤死を選んだことに比べると「カッコ悪い」のイメージは拭えないし、まだ剣閣に姜維や張翼・廖化といった名将が奮戦しており、抗戦の余地があった段階での降伏決断にはやはり首を傾げざるを得ない。

 「じゃあ、お前が劉禅の立場にあったら、的確な判断が下せたのか?」と云われたら、勿論それに対する正解を出す自信は薩摩守にはない(苦笑)。
 劉禅が早期に降伏したことで避けられた犠牲もあるだろうし、それを云い出せば劉備が漢王朝の命運が尽きたことを受け入れて曹操に抗戦しなければ三国時代を通しての膨大な犠牲が無かったとさえいえるので、云い出せばキリがない。

 最終的には立場と理想の問題もあるだろう。劉備・関羽・張飛・諸葛亮の人生を振り返ればやはり劉禅には徹底抗戦して欲しかったと思うし、「初めからに勝ち目はなかった。」の論点に立つなら、早期の降伏は無駄な犠牲が避けられたと見れなくはない(実際、の降伏に際して、鍾会や姜維の反抗に絡む抗争を除けば無駄な殺戮は無かった)。
 年を食えば食う程、劉禅の決断に対して是非が出し辛くなるし、劉禅だけにそれを求めるのも違う気がする。云い出せばキリがないが、そもそも後漢王朝がしっかりしていれば三国時代自体が無かった(余談だが、同じ様な物の見方で、薩摩守は中世日本に戦国時代という凄惨な時代が訪れたA級戦犯は足利義政と見ている)。

 些か無責任だが、劉禅の降伏決断に対する是非はここでは出さない。ちなみに個人的には呉の最後の皇帝・孫晧という人非人に等しい人物が降伏後に天寿を全うしたことの方が納得いかない。


 もう一つの例は第二次世界大戦末期のパリ解放時におけるディードリッヒ・フォン・コルティッツの降伏である。
 ある程度世界史を知る方なら、パリ陥落時にアドルフ・ヒトラーの「パリは燃えているか?」の指令に逆らって降伏した将軍と云えばピンとくるだろう。
 昭和一四(1939)年九月一日のナチス・ドイツによるポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦にて、開戦当初ドイツは目覚ましい快進撃で欧州各地を占領下に収め、フランスは僅か六週間の戦闘で無条件降伏に追いやられた。
 第一次世界大戦で自国が敗れたことに対するヒトラーの報復感情は凄まじく、降伏文書の調印に際してわざわざヴェルサイユ条約締結時と同じシチュエーションを作って、調印式を執り行った。
 だが、イギリスの徹底抗戦の前に戦争は膠着状態に陥り、独ソ不可侵条約を破って矛先をソビエト連邦に転じるも、スターリンの名を関するスターリングラードにおけるフルシチョフの抵抗と、冬将軍の到来の前にナチスは劣勢に転じた。
 相次ぐ敗戦に際し、ヒトラーは将兵の降伏を許さなかった(ついで云うとスターリンも同様)。そしてノルマンディー上陸が為され、連合国軍がパリに迫ると、ヒトラーは国防軍歩兵大将のディードリッヒ・フォン・コルティッツにパリの死守と、それが叶わない場合はパリを焼き払うよう命じた。
 余談だが、ヒトラーは画家を目指していた頃、廃墟の絵を好んで描いていたと云う。彼は「理想の国が築けない様なら滅びてしまえばいい。」と云う思想だった故、陥落して連合国軍の占領下におかれるぐらいならパリを廃墟にしてしまわんと本気で思っていた。
 だが、コルティッツは有名な、「Burrent Paris?(パリは燃えているか?)」の通信を無視して連合国軍に降伏した。

 君命を無視してでもパリを守ったことが認められたものか、戦後ナチス幹部・軍属の多くが厳罰に処される中、コルティッツは戦後二年も経ずして釈放された。令和の世になっても旧ナチスの残党がイスラエルから訴追されていることを考えればこれはかなり稀有である。
 降伏後も、パリ市内ではナチスの残党が発砲事件を繰り返したり、ドイツ軍人と交際したパリジェンヌ達が「祖国の裏切り者」として頭髪を刈られて晒し者にされたり、といったこともあったが、コルティッツの降伏が要らざる犠牲を避けたことを想えばまだましに思われるし、コルティッツへの寛大な処置も頷ける気がする。
 もっとも、コルティッツはパリの防衛と統治を任じられた矜持から、パリ市民によるレジスタンスには断固として降伏しないつもりでいたと云うから、話は単純ではなく、興味深い。

 様々な角度から見て、劉禅の降伏もコルティッツの降伏も、結果的に多くの犠牲を避けていた面は否めない。ただ、降伏のタイミングや態度やその他の状況によっては多大な犠牲が出ていた可能性も否めない(勿論もっと少なく済んだ可能性もある)。
 実際、パリ防衛ナチス軍の降伏後も、全く犠牲者が出ていない訳ではない。
 前者では劉ェ親子が憤死し、ケ艾と対立していたの鍾会がの姜維・張翼と共に反乱を起こし、結果、名前を出でいる全員が死亡した。勿論、巻き込まれて命を落とした将兵も少なくない。
 後者でもパリ・レジスタンスとナチス残党の戦闘は続いた。ナチス兵と交際したことで私刑にあったパリジェンヌ達の中に死者がいてもおかしくなかっただろう。

 ただ、それでも降伏で避けられた犠牲の方が大きいと薩摩守は見ている。

 正直、犠牲者数や、開戦にナチスの非の方が大きいことからも、薩摩守は劉禅の降伏よりはコルティッツの降伏の方が好意的に捕らえられる。それと同時に劉禅の降伏決断によって失われなかった命を軽視したくもない。

 勿論降伏を良しとしなかった人もいただろう。
 劉ェがそうだったし、大日本帝国でもポツダム宣言受諾の障害となっただけあって、陸軍関係者に自害した者が多かった。文字通り、「死んだ方がマシ。」との心境だったと思われるが、中には降伏しても死を免れられないと思われる者も少なくなかっただけに複雑である。
 身も蓋も無い云い方をすれば、国や軍隊が降伏をしても(様々な意味で)死を免れ得ない者も存在する。ただ、歴史に「if」は禁物だが、薩摩守は一人の人間として、「死なずに済む方法は無かったのか?」との考察を止めたくはない。



総論弐 困難極める降伏のタイミング
 日露戦争において、日本は勝利大国ロシアに勝利した。これに対して、薩摩守はロシア語がほんの少ししか分からないのでロシアの歴史教科書を読んだことが無いので分からないが、ロシアでは「敗れた。」とは教えていないと思う。
 確かに戦闘的にも、講和内容的にも、間違っても「ロシアは日本に勝った。」とはならないだろうけれど、ロシアは日本に降伏した訳でもなければ、首都サンクトペテルブルクを蹂躙された訳でもなかった(戦場となった国土はサハリン(樺太)のみ)。
 戦争の終わりはアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの仲介で「和睦」したのである。つまりロシアは「降伏」していなければ、「敗北」を認めてもいない(それゆえに講和会議にてロシア全権セルゲイ・ウィッテは賠償金支払い拒否を最後まで貫いた)。
 実際、ポーツマス講和条約の内容からすれば、日本は得たものばかりで、ロシアは失う一方で、日露戦争は日本の勝利と云えるのだが、それでも戦費や人的被害を想えば、「痛み分け」に等しかった(講和内容に不服の日本人は日比谷焼き討ち事件まで起こした)。

 日露戦争の例に限らず、戦争の中には勝敗がはっきりしていないものも少なくない。戦争の終わり方にも一方が降伏した者もあれば、互いに戦闘継続不能状態に陥ったり、目的の一部を達したことに満足したりして自然消滅的に終わったものもある。
 そんな膨大な戦史の中、薩摩守の目を引いたものに中国秦末の嶢関の戦いがあった。

 始皇帝死後、陳勝・呉広の乱を皮切りに反秦勢力は燎原の火の如く中国全土に広がり、後に漢の高祖となった劉邦の軍が秦最後の砦も云える嶢関に迫った。当時の秦では悪宦官趙高が自らの地位を脅かされることを恐れて有能な将兵を数多く誅殺していたため(←道場主「大戦末期のスターリンとソ連軍みたいやな。」)、秦の将軍は凡将ばかりとなっていた。
 それでも嶢関は最後の砦とあって、必死に抵抗し、劉邦陣営は守将の買収に掛かった。商人出身で利に聡い守将は降伏に色気を見せたが、兵達が応じそうになかった。そこで守将は劉邦の使者に「降伏は出来んが、和睦はどうじゃ?」と投げ掛けた。
 劉邦の使者はそれを容れて帰陣し、話は進んだが、結局守将の思い通りに事は運ばなかった。降伏・和睦に乗り気なのは将達だけで、兵士の士気は衰えていなかった。劉邦陣営は将帥サイドの和睦を信じず、関内の厭戦気分が広まったところで奇襲を掛け、嶢関を落とし、嶢関どころか秦王子嬰が本当に降伏することとなった。

 ただ、思うに、「降伏」は限りなく「和睦」に近いのが敵味方双方にとって望ましいと薩摩守は思う。冒頭でも書いたが、降伏のタイミングとしては、「これ以上抵抗されたら犠牲が大き過ぎる。」と攻め手に思われている内が最善だろう。
 敗れた相手ながら、「もし逆らったら厄介だ………。」と思わせ得れば、勝者の敗者による支配も苛斂誅求は避け易いだろう。「弱い。逆らっても全然怖くない。」と思われれば支配は過酷なものになり得るだろうし、「降伏したものの、何時頑強に逆らうか分かったものじゃない………。」と思われれば別の意味での苛斂誅求を生むだろう。

 それでなくても戦争である以上、決着の前に双方に少なからぬ犠牲が出ている筈である。犠牲が大き過ぎれば報復感情から降伏は成立し難く、成立後の苛斂誅求に繋がりかねない。
 戦争が終わった以上、更なる犠牲は誰もが避けたいと考えるだろう。例え敵兵に近しい人が殺されていて、敵兵や敵国への悪感情が拭えない場合でも、戦争を終わらせたからにはそれ以上の殺傷を防ぎ、双方は和睦しなくてはならない。
 それゆえ、戦争の終結は「和睦」が好ましく、「降伏」の場合でも「和睦」に近いに越したことは無い。ただその匙加減は困難を極める。「そんな終わらせ方に困難を極める戦争など、起こさない尽力の方が遥かに容易だ!」とすべての世界の為政者に訴えたいものである。



総論参 降伏前の犠牲に報いる為に
 人類の歴史は、イコール戦史と云っても過言ではない程戦争が多い(少なくとも未来はそうあって欲しくないものだ)。
 有史以来、平和が皆無な訳ではないが、常に世界の何処かで戦争は行われてきた。当然そこには勝利と敗北があり、負けた側が「降伏」という決断を下した例も枚挙に暇がない(局地戦や内戦まで含めれば膨大な数になるだろう)。
 取り分け、前頁で採り上げたポツダム宣言受諾による大日本帝国の降伏は、是非や賛否はどうあれ、日本の歴史における最大ターニングポイントの一つとなった。

 勿論好ましくない終わり方でも、戦争が終わった以上はそれ以上の戦闘による破壊や殺傷が無い中で交戦国の仲直りと、復興に尽力されるべきである。
 では、大日本帝国から日本国となったこの国では、それが為されただろうか?
 結論を云えば、部分部分では為されているし、部分部分では丸で為されていない。少なくとも令和四(2022)年一〇月五日現在、日本国は七七年近くに渡って世界のいずれの国とも戦端を開いたり、干戈を交えたりしていない。「平和ボケ」を揶揄する声もあるし、敵対的な行為を繰り返す外国との問題に「遺憾」を表明するぐらいしか出来ない問題もあるし、真の意味で自国を自力で守れず米国に頭が上がらないと云う歯痒さも続いている。

 ただ、勝敗・大義名分・戦後の在り様に関係なく忘れて欲しくないのが、還らぬ犠牲者のことである。
 戦争にも犯罪にも云えることだが、失われた命はそれを奪った者をどう罰しようと決して還ってこない。それゆえ人は大切な命を奪った相手に寛容さをなくし、相手を打ちのめしただけでは飽き足らず、敵方に属する者にまで苛斂誅求を課しかねない。
 同時に犠牲者への想いが戦争への歯止めをなくしたケースも枚挙に暇がない。

 例えば日米開戦を避ける為に昭和天皇から組閣を命じられた筈の東條英機が日米開戦を成してしまった要因の一つに、「満州の地に眠る白骨を想えば、中国大陸から兵を退くと云う選択肢はどうしても取れない。」というものがあった。
 東條の云い分もほんの少しは理解出来るが、そもそも満州の地に多くの日本人が眠ることになったこと自体が侵略によるものだし、残酷な結果論を突き付ければ、戦死者への想いを重んじた結果、膨大な数の犠牲者を出してしまったのだから、勝ち目のない戦端を開いた東條の責任は決して小さくない。
 ついでを云えば過去作で少し触れたが、アメリカは日本に戦争を止めさせるために、一時は満州における権益は認めるところにまで譲歩した時があった。しかしながらそれは日独伊三国同盟を締結し、ソ連を含めた四国による米英との対決を目論んだ男=松岡洋右の意地張りによって潰された(故に、薩摩守は松岡を東條以上のA級戦犯と見ている。個人的にはそんな松岡が戦後に戦犯となりながらタイミングよく(?)病没して裁かれず、それどころか靖国神社に合祀されていることにも納得がいかない)。

 勿論、戦端を開いた人物だからと云って、戦争開始を止めなかったからと云って、当事者達が大勢の人が戦死する事態を喜んで起こしたような嗜虐家とは見ている訳ではない(意に介さない薄情者は散見されるが)。
 薩摩守は戦争を起こした責任者が場合によっては処刑されることもやむを得ないと考えるが、それでも戦端を開いた者や戦争を止められなかった者が必ず処刑されなければならないとは考えない。
 戦争が起きた事情には仕掛けられた側に問題があったケースも決して少なくない(一例を挙げると、阿片戦争など当時の清朝の失政を視野に入れてもイギリスに対して全く大義名分が認められないと考えている)し、開戦を国民・民衆が支持したケースも皆無ではない。

 結局、考察を重ねれば重ねる程責任や罪状は複雑を極め、還らぬ犠牲への遣り切れなさが増大するばかりである。早い話、過去は変えられないのである。
 となると、今と未来を生きる私達にとって大切なのは、「同様の犠牲が出るような事態を避ける。」、「犠牲者の無念に報いられるような平和な世を作る。」ということに尽きると薩摩守は考える。

 それゆえ、「降伏」という選択肢を封じられた歴史の局面には悲しみをより一層深くしている。
 独ソ戦争が悲惨な殲滅戦となり、兵士ならざる民衆にまで多大な犠牲が出たのにはスターリン・ヒトラーと云う世界史的最悪二大独裁者が一切の降伏を禁じたからだった。

 「生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ」の戦陣訓を全面否定はしないとしても、それを民間人に強い、敵国の降伏者を軽んじることに結び付いたことへの憤りは全く拭えない。ひめゆりの塔に行き、その資料館で女学生達の最期の様子を見れば、「学生の降伏だけでも許されなかったのか………。」との念を禁じえない。

 『殷周伝説』(横山光輝)にて、迫りくる周軍六〇万の大軍を目前にして、一人の大将が「こうなれば城を枕に討ち死にだ!」と叫んだ時、隣にいた大将が、「お前一人なら好きにすればいい。だが、兵士には家族もいるんだぞ!」と云っていたワンシーンは個人的に忘れられない。

 『武田信玄』(新田次郎)にて武田軍が籠城する徳川勢に降伏を勧告し、三日間の時間が設けられた際に、一日目は将の大半が徹底抗戦するつもりだったが、二日目三日目になると多くの将兵が妻子に泣きつかれたことで城は開城された。
 降伏=臆病、降伏=卑怯、降伏=裏切りでは必ずしもなく、単純ではないことを考えさせられる展開である。

 最初から負け犬根性ではそれこそ戦に勝てないだろうし、降伏後の苛斂誅求を避ける為にはそれこそ勝ち目の無い戦いに死力を突くさなければならない局面もあるだろう。
 だが、基本的に歴史上における降伏の多くを薩摩守は否定的には見ない(「そんな戦を最初から起こすな!」という罵声を浴びせたくなるケースは多いが)し、頭から降伏を禁じた者やそれによって避けられなかった膨大な犠牲には底なしの怒りを覚える。

 現代日本が、現代世界が、膨大な数の戦史の中で無残に散っていった犠牲者に報いた社会になっているとは到底云い難い。ただそれでも差し当たっては日本社会に対して、太平洋戦争の犠牲者から「こんな日本の為に犠牲になったんじゃない!」という怒りの声を浴びせられない社会にしたいものである。
 勿論、戦争を始めなければ、勝敗に関係なく「降伏」にも「和睦」にも頭を悩ます必要が無いのが第一ではあるのだが。

令和四(2022)年一〇月五日 戦国房薩摩守



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令和四(2022)年一〇月五日 最終更新