第玖頁 昭和天皇・鈴木貫太郎………和平反対派への乾坤一擲

降伏者昭和天皇(しょうわてんのう)
生没年明治三四(1901)年四月二九日〜昭和六四(1989)年一月七日
降伏した戦争大東亜戦争(太平洋戦争)
降伏した相手連合国(アメリカ合衆国・イギリス王国・中華民国・ソビエト社会主義共和国連邦)
降伏条件国体保持
降伏後国家元首・現人神の立場を捨て、国家の象徴として君臨

降伏者鈴木貫太郎(すずきかんたろう)
生没年慶応三(1868)年一月一八日〜昭和二三(1948)年四月一七日
降伏した戦争大東亜戦争(太平洋戦争)
降伏した相手連合国(アメリカ合衆国・イギリス王国・中華民国・ソビエト社会主義共和国連邦)
降伏条件国体保持
降伏後ポツダム宣言受諾決定の翌日内閣総辞職。後、公職追放
前半生 鈴木貫太郎は江戸時代末期の慶応三(1868)年一月一八日、関宿(せきやど)藩士にして代官の鈴木由哲と妻のきよの長男として和泉大鳥郡伏尾新田(現:大阪府堺市中区伏尾)に生まれた(和泉鳳郡は関宿藩の飛び地だった)。
 中学校卒業を卒業し、明治一七(1884)年に海軍兵学校に一四期生として入学し、海軍軍人としての道を歩んだ。

 明治二七(1894)年の日清戦争従軍をへて明治三一(1898)年に海軍大学校を卒業。旧薩摩藩出身者が優遇される海軍にあって旧幕府系だった貫太郎の進級は遅く、一時は退官も考えたが、ロシアに備えるよう説く父の励ましを受けて武官として尽力し、ロシアとの戦いが不可避となると、貫太郎は海軍が対ロシア戦のためにアルゼンチンの発注でイタリアにおいて建造され装甲巡洋艦・春日の回航委員長を命じられた。

 明治三四(1901)年四月二九日に、当時皇太子だった嘉仁親王(大正天皇)と同妃節子(貞明皇后)の間に第一皇子が誕生。称号を迪宮(みちのみや)、名を裕仁(ひろひと)と命名された。勿論後の昭和天皇である。皇孫養育係を担ったのは後に貫太郎の後妻となるたかだった。
 少年期は学習院初等科に通学し、卒業後は東宮御学問所で教育を受けた(前者の院長は乃木希典、後者の総裁は東郷平八郎)。

 明治三七(1904)年二月八日、日露戦争が勃発。直後に貫太郎は日本に到着するや春日の副長に任命され、黄海海戦にも参加。日露戦争の重要ターニングポイントとなった日本海海戦では自らの駆逐隊で敵旗艦クニャージ・スヴォーロフ、戦艦ナヴァリン 、シソイ・ヴェリキィーに魚雷を命中させるなどの大戦果を挙げ、勝利に大きく貢献した。

 明治四五(1912)年七月三〇日、明治天皇が崩御。皇太子・嘉仁親王が即位したことで旧皇室典範の規定により裕仁親王は皇太子となった。
 大正五(1916)年に正式に立太子され、皇太子として初めてイギリスやフランス、ベルギー、イタリア等を訪問。帰国後、大正天皇の病気により摂政に就任した。

 その間、貫太郎日露戦争後は海軍大学校教官、大正三(1914)年に海軍次官、大正一二(1923)年に海軍大将、大正一三(1924)年に連合艦隊司令長官、翌大正一四(1925)年に海軍軍令部長に、と海軍重鎮としての大正時代を過ごした。

 一方、裕仁親王は大正一一(1922)年九月二八日、納采の儀をはじめとする儀式が執り行われ、良子女王との婚約が正式に告示されたが、翌大正一二(1923)年九月一日に関東大震災が発生し、同月一五日に震災による惨状を乗馬で視察し、その状況を見て結婚を延期した。
 大正一三(1924)年一月二六日、良子女王と結婚した。その後は海軍軍人・生物学研究者・摂政として過ごしていたが、病弱だった大正天皇の容体が悪化し、大正一五年(1926)一二月二五日、大正天皇は崩御。裕仁親王は第一二四代天皇として即位した。

 そして三年後の昭和四(1929)年、昭和天皇と貞明皇后に強く希望されたことで貫太郎は、侍従長に就任した。
 前述した様に貫太郎の妻・たかは独身時代に皇孫養育係を務めてもいたので、昭和天皇貫太郎に「たかは、どうしておる?」、「たかのことは、母のように思っている。」と、語ったと云う。

貫太郎が侍従長時代を過ごすこと七年、昭和一一(1936)年二月二六日、 麹町三番町の侍従長官邸に同日午前五時頃、陸軍大尉安藤輝三の指揮する一隊が襲撃した(二・二六事件)。
 貫太郎五・一五事件の犬養毅宜しく、「問答無用」的に打たれたが、たかの機転で止めは刺されず、反乱部隊が去った後、病院に運ばれた。
 賊が去った直後、貫太郎は自分で起き上がり、意識もしっかりしていたが、「駆けつけた医師がその血で転んだ」という風説を生んだ程の出血多量で、搬送中に意識を喪失し、心臓も停止するなどの重傷だった。
 幸い、直ちに蘇生処置が施され、枕元ではたかが必死の想いで呼びかけたところ、奇跡的に貫太郎は息を吹き返した。

 だが青年将校が錦の御旗とした昭和天皇は、長年信頼していた重臣達を何人も虐殺された事態に、「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて朕が首を締むるに等しき行為なり!!」
 と云って大激怒。
 侍従武官長・本庄繁が、決起した将校の精神だけでも認めて欲しい、と奏上しても耳を貸さず、「即刻鎮圧せよ!」、「朕自ら鎮圧に出る!」と次々と怒りの声を挙げた。
 結局、この昭和天皇の断固たる決意により「勅命下る軍旗に手向かふな」のアドバルーンが揚がり、降伏勧告のビラが撒かれ、事件は四日目にして終結した。

 重傷を負い、年齢的にそのまま引退してもおかしくなかった貫太郎だったが、昭和天皇の信任はますます深まり、昭和一五(1940)年に枢密院副議長、昭和一九年に枢密院議長に就任した。



戦端 だが、そんな昭和天皇鈴木貫太郎の想いとは真逆に、軍部、取り分け、陸軍は暴走していた。統帥権干犯を盾に周囲の助言・苦言・忠告を一切排し、独断で満州事変を起こし、昭和一二(1937)年)一一月三〇日には日中戦争 (当時の呼称は支那事変)が勃発した。
 政府としてはあくまで戦線不拡大の方針だったが、軍部は聞かず、首都南京を落とせば決着すると見ていたが、中国国民党政府は重慶、そこが落ちると武漢に退いて徹底抗戦を続けた。
 その間、昭和一四(1939)年九月一日、欧州では第二次世界大戦が勃発した。当初日本はこれに関わらない方針だったが、共産主義への対抗や、蒋介石率いる国民党政府を支持する米英への牽制を目的に快進撃を続けるドイツに接近し、昭和一五(1940)年九月二七日、日独伊三国同盟が締結された。
 だが、これによりアメリカ・イギリス・中国・オランダは経済封鎖に出て( ABCD包囲網)、日本は欧米との対立を深めた。

日米開戦を望まない昭和天皇は陸軍を抑え切れる人物と見込んで東條英機に組閣を命じ、東條内閣が成立したが、結局昭和一六(1941)年一二月一日、第八回御前会議にて対米英開戦が決定。同月八日、マレー作戦と真珠湾攻撃が行われた後に、昭和天皇の名で『宣戦の詔書』を渙発し、太平洋戦争(当時の呼称は大東亜戦争)に突入した。

 だが、大日本帝国軍の快進撃は半年しか持たず、ミッドウェー海戦の大敗北で制空権・制海権を失うと劣勢に転じ、昭和一九(1944)年六月一五日にサイパン島が陥落すると米軍は無補給での日本空襲が可能となった(それ以前の空襲は日本列島を横断し、中国にて補給してから帰国していた)。
 絶対防護圏とされたサイパン陥落を受けて東條内閣は総辞職。ついで陸軍軍人である小磯國昭内閣が成立したが戦況は好転せず、昭和二〇(1945)年三月一〇日、東京大空襲により、東京都心部は甚大な被害を受けた。
 同年五月二六日の空襲では宮城に攻撃を受け、宮殿が炎上する有様だった。既に一ヶ月前には戦況悪化の責任を取って小磯内閣は総辞職。後継総理を決める為に重臣会議が開催され、貫太郎はこれに出席した。
 「重臣会議」とは総理経験者と内大臣と枢密院議長を「重臣」=「構成メンバー」として行われる臨時会議であった。

 この時点で既に日中戦争並びにそれに続く太平洋戦争第二次世界大戦の戦局は劣悪を極めていた(同盟国イタリアは降伏しており、ドイツも降伏寸前に追い込まれており、連日日本各地が空襲に曝され、沖縄にまで攻め込まれ、ソ連は日ソ中立条約の不延長を宣告していた)。
 現代において、「どうせ誰が総理大臣になっても変わらない…。」と云う言葉は度々囁かれるが、当時も「誰が総理になったとしても戦局を打開出来る状況にない。」という状態にあった。
 そんな中、重臣会議にて、次期総理に若槻禮次郎、近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎等の首相経験者達は貫太郎を推した。貫太郎は驚いて「とんでもない話だ!お断りする!」といって固辞したが、既に重臣達は戦争を終わらせる為には昭和天皇の信任が厚い貫太郎しかいない、と見てその根回しが行われていた。
 首相経験者の中ではただ一人、東條英機のみ「陸軍が本土防衛の主体である」との理由で元帥陸軍大将・畑俊六を推し、「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある。」と高圧的な態度を取ったが、岡田啓介に「陛下のご命令で組閣をする者に『そっぽを向く』とは何たることか。陸軍がそんなことでは戦いが上手く行く筈がないではないか?」と云われ、反論出来なかった(←「カミソリ東條」もこの頃には錆びついていたようだ)。
 かくして重臣会議は鈴木貫太郎を後継首班にすることが決定された。
 これを受けて昭和天皇貫太郎を呼び、組閣の大命を下したが、それでも貫太郎は侍従長就任時以上に乗り気ではなかった。
 というのも、貫太郎には「軍人は政治に関与せざるべし」という信念があり(ちなみに東條英機も元々はそう考えていた)、七七歳という高齢でもあり(←実際、令和四年現在から見ても歴代最年長での総理就任である)、耳も遠くなっていたこと等からあくまで辞退の言葉を繰り返したが、昭和天皇は「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もう他に人はいない。頼むから、どうか曲げて承知して貰いたい。」と告げた。

 さすがに昭和天皇からこうまで云われ、貞明皇太后(昭和天皇母・大正天皇皇后)にまで「どうか陛下の親代わりになって。」と云われてはそれ以上の辞退もならず、昭和二〇(1945)年四月七日、鈴木貫太郎内閣が成立した。
 貫太郎は「非国会議員」、「江戸時代生まれ」、「戦時中」という三点において「最後の総理大臣」となった。

 メディアに「最後のご奉公」と称して国政に挑んだ貫太郎の重大任務は勿論終戦工作である。国民感情や世論とは裏腹に政治家の誰も戦争に勝てると思っていなかった。だから「戦争を終わらせる」ということは非常に難しい問題だった。

 同年六月六日、最高戦争指導会議に提出された内閣総合企画局作成の『国力の現状』では、資材・燃料・施設・人員・輸送手段のいずれの面からも戦争継続は不可能に等しいとの状況認識が示された(←それでも本土決戦との整合を持たせるために「敢闘精神の不足を補えば継戦は可能」と結論づけられたのだから狂っている)。
 二日後の六月八日、御前会議で戦争目的を「国体護持」とした「戦争指導大綱」が決定。この日の重臣会議で貫太郎は「徹底抗戦で利かなければ死あるのみだ!」と叫び、テーブルを叩くという強硬姿勢を示したが、これは戦争継続派に対するカムフラージュを目的としたパフォーマンスと見られている。

 六月二二日、木戸幸一(内大臣)と米内光政(海軍大臣)の提言で御前会議にてソビエト連邦(日ソ中立条約の延長を拒否したが、翌年春までは効力を持っており、国交は断絶されておらず、東京に在日ソ連大使館もあった)に米英との講和の仲介を働きかけることが決定された。
 勿論ソ連並びにスターリンに仲介の意など更々なく、ポツダム会談にてアメリカ大統領・トルーマン大統領に、日本から終戦の仲介依頼があったことをあっさり明かし、「日本人をぐっすり眠らせておくのが望ましい」ため「ソ連の斡旋に脈があると信じさせるのがよい」と提案し、トルーマンもこれに同意する始末だった。

 七月に陸軍将校の案内で、迫水久常(内閣書記官長)とともに国民義勇戦闘隊に支給される武器の展示を見学した際に、その武器が鉄片を弾丸とする先込め単発銃、竹槍、弓、刺又であったのを見て、迫水に「陸軍の連中は、これらの兵器を、本気で国民義勇戦闘隊に使わせようと思っているのだろうか。私は狂気の沙汰だと思った。」と呟いて呆れ返った。



降伏 七月二六日、アメリカ合衆国大統領(トルーマン)、イギリス首相(チャーチル)、中華民国主席(蒋介石)の名において大日本帝国に対し、ポツダム宣言が発せられた。
 翌二七日未明、外務省経由で宣言の内容を知った政府は、直ちに最高戦争指導会議及び閣議を開き、その対応について協議。東郷茂徳外相の意見により、暫くこれに対して明確な意見を表示せず、状況の推移を見送りながら、対ソ和解仲介交渉を進め、ソ連の出方を見た上措置を取る、との合意がなされた。

 だが、些細な食い違いの為に鈴木貫太郎にとって、スターリンを信頼したことに匹敵する不覚となった。翌二八日付けの各紙朝刊は、政府のこの姿勢をポツダム宣言への「黙殺」と報じた。
 更に継戦派の梅津美治郎(陸軍参謀総長)、阿南惟幾(陸軍大臣)、豊田副武(陸軍軍令部総長)等の圧力もあり、同日午後に行われた記者会見にて、貫太郎が「共同聲明はカイロ会談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戦争完遂に邁進する。」というコメントを述べたことも裏目に出た。
 貫太郎は「ノーコメント」という意図で「黙殺」としたのだったが、翌日新聞各紙は「黙殺」という言葉を大きく取り上げ、このことが連合国側に「ポツダム宣言は強固に拒否された。」と映り、このことを貫太郎は生涯悔いていたと云う。

 そして七月末、アメリカは八月三日以降の原子爆弾投下を決定。八月六日、広島に原子爆弾が投下され、広島は地獄絵図と化した。そして事ここに至って貫太郎を始めとする政府首脳は、細部に意見の相違を持ちつつも、「ポツダム宣言受諾やむなし」の共通認識を持つに至った。

 そして八月九日午前一一時、皇居地下の防空壕にあったポツダム宣言受諾を巡る緊急会議が貫太郎、阿南、梅津、米内、東郷、豊田の六名にて開かれた。前述した様に六名は「ポツダム宣言受諾やむなし」の共通認識を持ってはいたが、その条件について会議は紛糾した。
 この宣言の第一三条にある文言から、この終戦は良く「無条件降伏」と呼ばれるが、本当に何の条件も示さず、敵の云うがままを受け入れたとしたら、無責任を通り越してホンマ物の阿呆でしかない。
 「無条件降伏」ではあっても、相手の付き付けて来た条件を精査し、何処までを受け入れるか決めた上で受諾するのは当然で、会議は受諾条件の数でもめにもめた


 会議参加者の全員が、「受諾止む無し」と「国体護持の条件は譲れない」という点に関しては一致していた。だが、阿南・梅津は「国体護持」の為にも「占領は短期間且つ限定的」・「武装解除は日本人の手で」・「戦犯の処罰は日本人の手で」の三条件も併せて要求すべし、と主張した。
それに対し、東郷等は「条件を多く付き付け過ぎては交渉が決裂する恐れがあるから一条件で耐えるべき。」と主張し、「一条件提示」と「四条件提示」の対立で議論は平行線を辿った。

 会議直前にソ連が中立条約を無視して攻め込んでくるわ、開会直後に長崎に原爆が投下されるわ、と事態は一刻の猶予もならないのに意見は一致せず、議長の貫太郎は午後二時三〇分に議論の場を臨時閣議に移したが、それでも決定には至らなかった(結局と東郷と阿南の対立が続いただけでしかなかった)。

 実際の所、ポツダム宣言受諾最大の懸念材料は「陸軍の暴走」だった。
 様々な立場の者達が、勝機が無い、と見る中、陸軍のみ本土決戦に最後の期待を抱いており、ポツダム宣言にも頑強に反発していた。それも上層部ではなく、中堅どころに血気に逸る強硬派が点在していたので陸軍大臣や参謀総長でも簡単に制御出来る存在ではなかった。
 それでなくても当時の内閣は「陸軍大臣を現役の陸軍から出す」(海軍も同様)という組閣条件があり、戦前戦中、陸軍は内閣が意のままにならぬと思うや陸相を辞職させ、内閣を総辞職させると云うことを何度もやって来た。まして貫太郎にとっては僅か九年前に二・二六事件で文字通り死ぬ想いをさせられた記憶があり、五五〇万人という人員数の暴発は物凄い脅威だった。
 貫太郎に限らず、多くの者達が陸軍を刺激しない様に話を進めなければならなかった。

 結局、臨時会議でも結論は出ず、深夜に貫太郎は会議を散会させると最後の手段に出た。それは二・二六事件をも簡単に阻止せしめた「聖断」と云う名の伝家の宝刀だった。
 八月一〇日午後〇時(つまり先の臨時会議散会直後)、貫太郎昭和天皇臨席の御前会議を開催。
 やはり議論が平行線を辿ること二時間、それまで聞き役に徹していた貫太郎昭和天皇に、

「議論を尽くしましたが決定に至らず、しかも事態は一刻の猶予も許しません。誠に異例で畏れ多いことながら聖断を拝して会議の結論と致したく存じます。」

 と告げた。

 「異例」と云うのは本当に「異例」だっただけでなく、戦争終結の重大局面に「聖断」にて決着をつけると云うことは、「聖断」が絶大な効力を持つことで、帝国憲法にて「無答責」とされていた天皇に戦争責任を持たせることになりかねず、貫太郎の要請は本来「有り得ない」要請でもあった。

 だがそれに対して昭和天皇は、

 「私の意見は先ほどから外務大臣(東郷)の申しているところに同意である。」

 と回答し、ここに「国体護持」の一条件だけを連合国側に出してポツダム宣言を受諾することが決定した。

 即座に「国体護持」が守られることを条件にポツダム宣言を受諾する旨が連合国に通知された。だが難題は完全には解消されていなかった。
 というのも連合国側は二日後の八月一二日に回答を寄こしてきたが、日本側の「国体護持」の提示に対して具体的に応えていないものだった。回答文中の「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官の制限の下に置かるるものとする。」の解釈を巡って、再度議会は紛糾。原文の「subject to」=「制限の下」に再度阿南が噛みついてきた。

 阿南等陸軍は連合国側の回答を「国体の破壊」として反発。翌八月一三日午前九時、再度最高戦争指導会議が開かれる運びとなった。それまで余り自分の意見を云わなかった貫太郎がこの日はポツダム宣言受諾に反対する意見を「非常識」とまでいって退けんとした。
 昭和天皇も阿南に対し、「阿南、心配するな。自分には(国体護持への)確証がある。」と諭した。
 午後からは臨時会議が開かれ、それでも阿南は即時受諾に同意を示さなかったが、その背景には陸軍暴走への懸念があったと見られている。

 そして貫太郎も再度、聖断を仰ぐと云う伝家の宝刀を抜いた。
 翌八月一四日午前八時、貫太郎昭和天皇に御前会議の開催を願い出、昭和天皇はこれを承諾しただけでなく、軍部の妨害を防ぐ為、自ら開催時間を繰り上げ、午前一一時に御前会議は開催された。
 その場で貫太郎昭和天皇に、大半の者がポツダム宣言受諾に同意しているが、全員一致ではないので再度の聖断を仰ぎたい旨を述べ、昭和天皇は「自分の先般の考えに変わりはない。国体に動揺を来たすというがそうは考えない。戦争を継続することは結局国体の護持も出来ず、ただ玉砕に終わるのみ。どうか反対の者も自分の意見に同意して欲しい。」と答え、これを受けて全閣僚が「終戦の詔書」に署名し、改めてポツダム宣言受諾が完全に決定した。

 同日、ポツダム宣言受諾並びに戦争終結は翌一五日の正午に玉音放送にて国中に告げられることとなり、午後一一時三〇分に昭和天皇は宮内庁政務室にて放送内容の録音を行い、録音されたレコードは徳川義寛侍従に渡されて皇后宮職事務室内の軽金庫に保管された。
 そして運命の八月一五日の早朝、あくまで降伏に反対する陸軍の一派はクーデターを決行。佐々木武雄陸軍大尉を中心とする国粋主義者達が総理官邸及び小石川の私邸を襲撃した(平沼騏一郎枢密院議長、木戸内大臣、東久邇宮稔彦王等の私邸も同様に放火された)。
 貫太郎は再度殺害の危機に立たされた。だが、護衛の警護官に間一髪救い出され、レコード盤もダミーを利用した裏をかく搬送で無事に放送局に持ち込まれ、最後の妨害工策も失敗に終わった(宮城事件)。

 そして正午、昭和天皇の朗読による終戦の詔勅がラジオで放送され、第二次世界大戦は終結した。
 この日未明、阿南惟幾が自刃。貫太郎は阿南を除く全大臣の辞表をまとめて昭和天皇に提出し、鈴木内閣は総辞職。その際に昭和天皇は「御苦労をかけた。」といってそれまでの貫太郎の苦労を労った。
 一応、後任の東久邇宮内閣が成立した同月一七日まで職務は執行したが、ここに鈴木貫太郎の政治生命は終幕した。

 話は前後するが、一説に、阿南は陸士同期の安井藤治国務大臣に対して、「どんな結論になっても自分は鈴木首相に最後まで事を共にする。どう考えても国を救うのはこの内閣と鈴木総理だと思う。」と語ったと云う。
 八月一四日の御前会議で完全にポツダム宣言受諾が決定した直後、阿南は紙に包んだ葉巻の束を手に貫太郎と以下の会話を交わしたと云う。

阿南「終戦についての議論が起こりまして以来、私は陸軍の意見を代表し強硬な意見ばかりいい、お助けしなければならない筈の総理に対し、色々ご迷惑を掛けてしまいました。ここに慎んでお詫びいたします。
 ですがこれも国と陛下を思ってのことで、他意は御座いませんことを御理解下さい。
 この葉巻は前線から届いたものであります。私は嗜みませんので、閣下がお好きと聞き持参いたしました。」

貫太郎「阿南さんのお気持ちは最初から分かっていました。それもこれも、みんな国を思う情熱から出て来たことです。
 しかし阿南さん、私はこの国と皇室の未来に対し、それほどの悲観はしておりません。我が国は復興し、皇室はきっと護持されます。陛下は常に神をお祭りしていますからね。日本は必ず再建に成功します。」

阿南 「私も、そう思います。」

 そう云って阿南がその場を去った後、貫太郎は迫水に「阿南君は暇乞いにきたのだね。」と呟いた。勿論 「暇乞い」の意味した「別れ」の対象は貫太郎だけではなく、昭和天皇、政界、つまりはこの世を対象としたもので、、数時間後、阿南惟幾は「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の文面で有名な遺書をしたため、割腹自決した。

 九月二日、ミズーリ号艦上にて降伏文書に調印され、日本の降伏は正式に成立した。
 連合国軍が進駐してくると、九月二七日、昭和天皇連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)を率いるダグラス・マッカーサーとの会見のため駐日アメリカ合衆国大使館を初めて訪問した。
 有名な話だが、連合国関係者の多くは当初昭和天皇を最大の戦争責任者として死刑を含む厳罰を訴えていたが、自らの責任を訴え、臣民の助命を請う昭和天皇の真摯な訴えに感嘆したマッカーサーは戦後の日本統治の為にも昭和天皇の断罪は得策ではない、と考え、結果東京国際軍事裁判では昭和天皇は訴追されず、戦犯は全員が有罪となったが、概して陸軍関係者に厳しく、海軍関係者には寛大なものとなった(※東京国際軍事裁判の是非や判決内容には薩摩守なりに思うところは多々ありますが、長くなる上、今回の趣旨とは異なるので割愛します)。



その後 昭和二〇(1945)一一月一二日、昭和天皇は伊勢神宮並びに神武天皇の畝傍山陵(現・奈良県橿原市大久保町)、祖父・明治天皇の伏見桃山陵(現・都府京都市伏見区桃山町古城山に親拝して終戦を報告した後、同月一五日に東京に戻り、二日後に父・大正天皇の多摩陵(現・東京都八王子市長房町)にも親拝した。
 翌昭和二一(1946)年一月一日の年頭詔書にて、「天皇ヲ以テ現御神トシ、日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」ことを「架空ノ概念」として全否定した上で、国民の団結に期待し、新日本建設への希望を述べた(『人間宣言』)。

 一方、鈴木貫太郎は 終戦後、枢密院議長を務めていた平沼騏一郎が一二月一五日に戦争犯罪容疑で逮捕されたため、再度貫太郎は枢密院議長に就任したが、翌昭和二一(1946)年六月三日に公職追放令の対象とされ、郷里の関宿町に隠棲した。
 昭和天皇からは御紋付木盃と酒肴料を下賜され、宮中杖の携行を許された。

 完全に公職から退いた貫太郎は妻・たかとともに土いじりの日々を送ること三年、肝臓癌に倒れた。死の直前、「永遠の平和、永遠の平和。」と、非常にはっきりした声で二度繰り返し、昭和二三(1948)年四月一七日に天寿を全うした。鈴木貫太郎享年八一歳。
 火葬された際、遺灰の中から二・二六事件にて被弾した弾丸が出て来たと云う。

 ここに昭和天皇鈴木貫太郎の主従の日々は終結した。
 貫太郎は、昭和天皇に信頼され、それと同等かそれ以上に昭和天皇のことを信頼していたことで聖断を仰ぐことが出来、昭和天皇も、「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ戦争終結は可能だった。」と語っていた。
 貫太郎の逝去から一二年を経た昭和三五(1960)年八月一五日、昭和天皇は終戦一五周年記念日であるこの日に、鈴木貫太郎に従一位を追贈された。

 この後の昭和天皇については、太平洋戦争における日本の降伏とは直接関係のないものになるので割愛します。
 現人神を否定し、国家の象徴としてその後の人生を歩んだ昭和天皇は昭和六〇(1985)年七月一二日、第一〇八代後水尾天皇と並び歴代最高齢に達し、昭和六一(1986)年四月二九日、御在位六十年記念式典が挙行され、第二六代継体天皇以降の歴代天皇で在位最長を記録。
 しかし二年後に体調を崩し、癌であることを伏せられたまま闘病の日が続き、新聞は毎日昭和天皇の体温・血圧等の状況を掲載した。
 昭和六四(1989)年一月七日午前六時三十三分昭和天皇崩御。宝算八七。



参考 満州事変日中戦争太平洋戦争第二次世界大戦、といった昭和の戦争に対する是非は語っても語り切れないし、正直、万人が納得する結論は出ないだろう。
 ただ、はっきり云えるのはこれらの戦争を戦い、ポツダム宣言を受諾したことで日本が降伏したことは日本史における最大級のターニングポイントであり、ポツダム宣言受諾は日本史上における最大の降伏だったと云うことである。

 降伏を経て日本人が歩んだ昭和中期から令和までの歴史の是非を断じることが出来るのはまだまだ先の話になると思われるが、(局地戦を別にして)対外戦争に負けたことのなかった日本及び日本人が断腸の想いで負けを認め、その後の復興に向かった歴史のターニングポイントは史観の相違に関係なく、日本人であれば、否、人間であれば、誰もが重く受け止めなくてはいけないことと思う。
 それを振り返る意味で、ポツダム宣言受諾に際して昭和天皇が大日本帝国臣民に告げた内容を下記に記したい。
八月一五日玉音放送(括弧内は現代語訳)

 朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ(朕は、深く世界の大勢と大日本帝国の現状を顧み、非常措置をもって事態を収拾しようと思い、ここに忠良である貴方達臣民に告げます。朕は帝国政府として米(アメリカ)・英(イギリス)・支(支那(中国))・蘇(ソ連)の四ヶ国に対し、彼等の共同宣言を受諾する旨を通告しました)

 抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス(そもそも帝国臣民の安寧を図り、万国ともに栄えることを楽しむのは皇室皇族始祖以来の遺訓で、朕が常々心掛けてきたことである。先に米英二ヶ国に宣戦布告したのも、帝国が自存し、東アジアの安定を希望してのもので、他国の主権を排したり、領土を奪ったりするようなことは元より朕の本意ではなかった)

 然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル(しかるに、交戦状態は既に四年に及び、朕の陸海軍将兵の勇敢なる戦い、朕のすべての官僚役人の精勤と励行、朕の一億国民大衆の自己を犠牲にした活動、それぞれが最善を尽くしたのにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の大勢もまた我が国にとって有利とは云えない。そればかりか、敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、幾度も罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、誠に計り知れない)

 而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ(それでも尚交戦を続けるであろうか。終には、我が日本民族の滅亡をも招くだけではなく、更には人類文明そのものを破滅するようなことになれば、朕は何をもって億兆の国民と子孫を保てば良いか、皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊に謝ればよいか。以上が、朕が帝国政府に命じ、ポツダム宣言を受諾させるに至った理由である)

 朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ(朕は帝国と共に終始東アジアの解放に協力してくれた諸々の同盟国に対して遺憾の意を表せざるを得ず、戦史・殉職した帝国臣民とその遺族に想いを馳せるとき、朕の五臓六腑は、それがために引き裂かれんばかりである。且つ、戦傷を負い、戦争の災禍を被り、家も土地も職場も失った者達の健康と生活の保証に至っては、余の心より深く憂うるところである)

 惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス(思うに、今後帝国の受けるであろう困難は尋常ではなく、貴方達臣民の悲しい気持ちも朕には良く分かる。しかしながら、朕は時の流れの赴くところ、耐え難いのを耐え、忍び難いのを忍び、それをもって万国の未来の為に平和な世に踏み出したいと思う)

 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム(朕は、ここに国体を護持でき、忠良なる貴方達臣民の真心を信頼し、貴方達と共に在ります。もし感情的になってその赴くままに事件を起こし、或いは同胞同士で相争い、その為に天下の大道を誤って信義を世界に対して失ってしまうようなことになれば、それは朕が最も望まないことです)

 宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ(そのことを国を挙げ、家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅信じ、任務が重く道は遠いと云うことを想い、全力を挙げて未来の建設に傾け、道義を重んじ、志操を堅固にして、誓って国体の精髄・美質を発揮し、世界の進歩に遅れないよう心掛けなさい。貴方達臣民、以上のことを朕の意志として為しなさい)


 昭和二〇(1945)年八月一五日時点、道場主はおろか、道場主の母上さえ生まれていなかった。道場主の亡父は生まれていたが、乳飲み子だったゆえ、勿論この玉音放送を聴いた記憶はない。
 令和四(2022)年九月二四日現在、終戦から七七年を経て、玉音放送の記憶を持つ道場主の身内は数える程もいない。
 約三〇年前に、道場主の妹が道場主の大叔母(母方の祖母の妹)から玉音放送を聴いた時の話を聞いたことがあった。終戦時小学生だった大叔母の記憶も決して鮮明なものではなかったが、大叔母にとって最も印象に残っていた昭和天皇の言葉は「将来ノ建設ニ傾ケ」という言葉だった。

 昭和天皇の玉音放送と云えば、何故か「難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」の部分が最も有名だが、大叔母には幼心にも戦争が終わり、復興に進めることが一番の印象に残っていたのが興味深かった。

 降伏を恥とし、守るべきものの為に戦い抜き、その過程で心ならずも多くの命が失われ、未来に遺恨も残した日本の戦史ではあったが、日本人は決して血に飢えた好戦的民族ではなく、思想の根底や価値観に大きな狂いがあり、結果的に間違っ選択を為しはしたが、誰しもが平和を望んでいたことを信じたい次第である。


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令和四(2022)年一〇月五日 最終更新