第壱頁 上田原の戦い…………信玄、ただ一度の大敗

戦名上田原の戦い
合戦日時天文一七(1548)年二月一四日
敗者武田晴信
大敗度★★★★★★☆☆☆☆
その後への影響★★★★★★★★☆☆
損失板垣信方、甘利虎泰討死
戦経過 甲斐の国主・武田晴信(信玄)は七年前の天文一〇(1541)年に父・信虎を駿河に追放して国主の座を奪取して以来信濃への侵攻を繰り返していた。
 その過程で、二一歳にして国主となり、まだ血気盛んだったこともあってか、晴信はかなり過酷な処置を敗者に強いていた。同盟相手で義弟でもあった諏訪頼重を東光寺に幽閉して助命の約束を反故にして切腹させ(←逃げた頼重も悪いのだが)、志賀城を威嚇する為に降兵三〇〇〇人を打ち首にしてその生首を城前に並べたりもした上、落城後には城内の妻子を人買いに売り払ったりもした………。

 信濃の南部・中部を制圧した晴信は、信濃の完全制圧を目指して矛先を北信の村上義清に向けたが、南信での苛斂誅求が祟って、村上勢はかなり「晴信憎し」に凝り固まっていた。
 そんな状況下の天文一七(1548)年二月一日、晴信は自ら五〇〇〇の兵を率いて出陣し、重臣板垣信方に諏訪衆・郡内衆と云った国人衆を率いさせ、上原城で合流すると大門峠を越えて小県南部に侵攻した。
 これに対して清和源氏の末裔(武田家もそうだが)で鎌倉時代以前から北信に勢力を保っていた義清は拠点としていた戸石城から南下し、産川を挟んで武田軍と対峙し、両軍は同月一四日に戦端を開いた。

 実は、そこそこ有名な戦いでありながら、上田原の戦いにおける合戦経過に触れた史料は多くない。『甲陽軍鑑』が良く参考にされるが、昨今でこそ史料として見直されている同書も、かつては晴信の大切な戦いにおける日付の間違いが多いことから、史料としての価値が軽視されていたので、鵜呑みは禁物である。だが、薩摩守の資料収集能力の低さ故に他に頼る史料が無いから仕方ない(苦笑)。
 ともあれ、同書によると、武田勢約八〇〇〇に対し、村上勢は約五〇〇〇で、晴信は信濃国人の一人で先陣を願い出た真田幸綱を退け、板垣信方を先陣に栗原左衛門尉・飯富虎昌(山県昌景実兄)・小山田信有・武田信繁等が攻撃を仕掛けたことで始まった。



大敗振り 開戦当初、旗色は武田勢優勢で進んだ。
 殊に先鋒を務めた板垣勢は村上勢を撃破して敵陣深く突進したが、ここで勝ちに奢ったことが板垣信方の最後と武田勢の敗北を招いた。

 それと云うのも、緒戦の勝利に気を良くした板垣は、何を思ったのか敵陣に深入りした状況下で、敵前で首実検を始めたのである
 首実検は、勝ち戦確定後なら味方の指揮を更に盛り上げ、戦勝の威を高め、論功行賞に繋げる為にも重要な儀式となり得るが、これを緒戦が終わった段階で、それも敵の眼前で行ったのは、余りにも敵を軽く見た愚行で、凡そ歴戦の名将・板垣信方に相応しくない行為だった。

 余りに自分達を見下した行為を受け、村上勢に火がついた者か、村上勢はその油断を突く反撃に出て、不意を突かれた板垣勢は混乱状態に陥り、板垣は馬に乗ろうとしたところを敵兵に槍で突かれて討ち取られた。
 武田晴信の片腕である板垣の討ち死にに板垣勢は総崩れとなり、逆に村上勢は勢い付いた。雪崩現象のように武田勢の中軍も崩され、村上義清も自ら晴信本陣に攻め掛かり、晴信の旗本衆も後退。
 脇備の内藤昌秀と馬場信春の奮戦で何とか村上勢を追い返したが、晴信自身二ヶ所に軽傷を負う有様だった(これは上田原の戦いの概況を描いた『勝山記』という史料からも確認出来る)。

 『甲陽軍鑑』によるとこの戦で板垣の他にも甘利虎泰、初鹿野伝右衛門と云った歴戦の将が戦死し、武田勢は約七〇〇人が討ち死にした。
 戦における兵の総勢と戦死者の割合がどれほどで損害の大小が決まるのか薩摩守の知識では断じ難いのだが、兵というものは半数(五割)を失えば、組織的抵抗が不可能となり、「全滅」とされるらしい。
 また、『三国志』では、ある戦いで三〇万の大軍を率いた曹操が五万の兵(六分の一)を失ったことを「惨敗」としていたことを見ると、一割弱の犠牲とは云えかなりの痛手であったことは推認出来る。まして先代以来の重臣を何人も失ったとあっては。

 一方、村上勢も約五〇〇〇の兵に対し、約三〇〇人を失い、一割に至ってはいないものの、やはりそれなりの痛手を受けている。戦死した兵の数を見れば、この上田原の戦いは決して武田晴信の大敗ではなく、村上義清がやや優勢の痛み分けに近いとされている。
 戦死者だけを見れば、正に両軍痛み分けで、実際、義清も屋代基綱・小島権兵衛・雨宮正利といった将等が戦死し、敗走する武田勢を追撃する余力は残されていなかった。

 しかしながらこの戦いが「晴信痛恨の大敗」としてクローズアップされるのは、一つには、この戦いを例外として、晴信の生涯に殆んど敗戦が無かったことでこの敗北が目立っていること、もう一つには板垣信方・甘利虎泰と云った信虎時代以来の重臣が何人も討ち死にしたことがある。
 晴信が「人は城、人は石垣」と唱えていたのは余りにも有名で、山がちで甲斐一国では七〇〇〇の兵を養うのが精一杯と見られていた状態から、天下の誰もが恐れる最強軍団を晴信が築き得た要因は幾つもあるが、「天の時、地の利、人の和」で云えば、明らかに「人」が大きなウェイトを占めていた。
 逆を云えば、その「人の和」に難を残し、それが死後に顕在化したことで武田家は滅亡に向かったと云えなくもない。
 そんな武田家にあって、家督を継いだばかりの晴信が片腕とも頼んだ、師傅でもあった板垣の死は痛恨の極みだった。

 ちなみに、この上田原の戦い武田晴信の生涯における数少ない敗戦であると同時に、史料が乏しいことと、重臣が何人も討ち死にしたことから、作家達には自作のストーリーを盛り込むのに格好の材料となった様で、 新田次郎原作『武田信玄』では、この時義清は当時の常識を覆す作戦を展開していた。

 それは、「兵達に自分が討ち取った相手の首を取ることを禁じ、ひたすらに武田晴信の首だけを狙え。」としたものだった。
 当時、合戦終了後、持ち帰った敵兵の首の数で褒章が決まったから、兵に「敵の首を取るな。」と云うのは、戦の常識を否定したに等しかった。確かに戦の趨勢をメインに考えれば、敵総大将の首を取れば味方の大勝利となる。だが、総大将ともなれば、周囲を腕利きの旗本や猛将が固めており、それを目指すことは戦に勝てても己の命を落とすリスクが小さくなかった。ならば、半農半兵の域を出ない、農民兵を相手に首を数多く取る方がリスクは少ない。云うなれば、義清の命令は「手柄より、リスクを取れ。」と云っているに等しかった。  しかし、この常識外れが通じたのである。それほど、志賀城攻めでの残虐行為に怒り心頭だった村上勢は「晴信憎し!」の念が浸透していた。
 村上勢は自分が斬り倒した武田兵に見向きもせず、ひたすら晴信の元に突進した。そして自分が討ち取った相手の首を無視して総大将に突進する村上勢の常識外れの行動を受けて武田勢は浮足立ち、晴信が負傷するまでに追い込まれたとされていた。

 また昭和六三(1988)年の大河ドラマ『武田信玄』では大敗を招いた慢心は板垣信方(菅原文太)のものでは無く、信虎追放以来負け知らずに奢った武田晴信 (中井貴一)の者とされ、板垣と甘利虎泰(本郷功次郎)はこれを諫めるも聞き入れられず、二人とも死を覚悟し、別れを交わして出陣し、共に討死する内容となっていた。
 同ドラマでは晴信は(父子相克への描写協調もあってか)ややマザコン気味に描かれており、戦後、晴信は母・大井夫人(若尾文子)から、「板垣と甘利が討ち死にしたのは、そなたの責任じゃ!」と叱責されていた。

 実際の敗北が板垣の慢心によるものだとすると、チョット晴信が可哀想ではあるが、やはり諏訪・佐久での残虐行為に対する報いを感じないでもない。



敗戦から得たものと立て直し 上田原の戦いに敗れた武田晴信だったが、さすがに稀代の名将・武田信玄となった男は転んでもただでは起きなかった。

 立て直しは敗戦直後に既に始まっており、晴信は敗れて尚、敵地から退かなかった。
 恐らく本音では、すぐに引き揚げて志摩の湯辺りで湯治に入りたかったことだっただろう。だが、板垣・甘利等を失い、動揺大きい自軍の立て直しは急務だったと思われる。
 酷な話だが、かかるときに大将が浮足立ったとあっては、自軍は益々浮足立つ。晴信としても内心やきもきしながら自軍の鎮撫に努めたことだろう。

 幸い、村上勢に追撃の余力はなかった。だが、やはりこの敗戦は後々の信濃侵攻に大きく影響した。不敗の武田勢を破った村上義清の求心力は高まり、村上衆は勿論、小笠原衆を始めとする北信国人衆が団結して晴信に反旗を翻し、諏訪でも西方衆と呼ばれた国人達が反逆した。
 実際、立て直しに成功した晴信は五ヶ月後に小笠原勢を破ったが、二年後の天文一九(1550)年には戸石城にて再び義清に敗れた(戸石崩れ。このとき、武田二十四将の一人・横田高松が戦死)。
 結局、戸石城を落としたのは、元々この城を築城して地の利に明るい真田幸隆の謀略によるもので、北信を追われた義清と小笠原長時等は越後の上杉政虎(謙信)を頼り、これが川中島の戦いに繋がった。
 ちなみに義清信玄の病死とほぼ同時期に越後でこの世を去っており、村上氏が北信に帰還出来たのは武田家の滅亡後だった。

 以上の様に、上田原の戦いにおける敗戦を機に信濃攻略に散々な苦労をした晴信だったが、逆に見ればこの敗戦を顧みたことで、武力一辺倒を改め、慢心を戒め、謀略にも長ける様になった。正に敗戦に学んだと云えるだろう。
 同時に国人衆に対しても押さえつけるだけではなく、硬軟巧みに織り交ぜて厚遇し、諏訪氏には四男(勝頼)を、仁科氏には五男(盛信)を養子に出し、木曽氏には三女(真龍院)を嫁がせ、懐柔に努めた。
 有名な話だが、晴信は生涯を通じて、所謂、堅城と云うものに頼らず、戦はすべて領外で行った。些か過言かも知れないが、「人は城、人は石垣」という晴信の人生訓は上田原の戦いを初めとする信濃侵攻における労苦に学んだ点は小さくなかろう。


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令和五(2023)年一〇月二日 最終更新