第弐頁 月山富田城の戦い………無気力化の始まり

戦名月山富田城の戦い
合戦日時天文一二(1543)年三月〜五月二五日
敗者大内義隆
大敗度★★★★★★★★☆☆
その後への影響★★★★★★★★☆☆
損失大内義隆文弱化及び大内家中崩壊
戦経過 月山富田城(がっさんとだじょう) の戦いとは、出雲に存在した城を舞台とした戦争で、二度激戦の舞台となっているが、本作で採り上げるのは厳密には、「第一次月山富田城の戦い」と呼ばれるものである(第二次は永禄九(1566)年に毛利元就が尼子勝久を降伏に追いやった戦いで、尼子軍残党が攻め寄せた永禄一二(1569)年の第三次もある)。

 戦の始まりは天文一一(1542)年で、当時月山富田城は出雲に覇を唱え、中国地方においては周防の大内氏と勢力を二分していた尼子氏の居城だった。
 二分と云っても、本来勢力では大内氏の方が上だった。殊に尼子氏は前年の天文一〇年一一月一三日に当主尼子経久が世を去ったばかりで、後を継いだ孫の尼子晴久は同年に毛利元就の居城・吉田郡山城攻めに失敗していた。
 元就が晴久を撃退出来たのも、大内勢の援軍を得たからで、大内と毛利の連携も好調が保たれていた。同時に晴久の毛利攻め失敗を受けて尼子氏についていた国人領主達の中から大内方に寝返る者が続出しており、安芸・備後・出雲・石見の国人衆から尼子討伐を求める連署状が大内義隆に出されたことを受け、陶隆房(晴賢)を初めとする大内家中の武断派が出雲遠征を主張し、義隆は尼子討伐を決意した。

 義隆は自ら総大将となって天文一一(1542)年一月一一日に出陣。甥(姉の子)で養嗣子となっていた大内晴持、重臣陶隆房、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、弘中隆包等がこれに従軍し、これに毛利元就が安芸・周防・石見の国人衆を集めて合流した。
 四月に出雲に侵入したが、六月七日〜七月二七日までの二ヶ月弱を穴山城攻めに費やし、月山富田城攻めに掛れたのは周防を出てから約一年となる翌天文一二(1543)年三月に入ってからだった。



大敗振り 一般に戦は守る方が有利である。しかも月山富田城は天険を利した難攻不落の要塞で、「天空の城」と称されていた。攻め手である大内・毛利勢が約四万五〇〇〇に対し、尼子勢は約一万五〇〇〇だったが、城攻めには一般に五倍の兵力が必要と云われることを思えば、籠城戦に持ち込まれると容易に落とせるものではなかった。

 一方で、籠城側に必要なのは援軍である。がっちり守っていれば城は簡単に落ちないが、そもそも打って出るのが不利なので籠城する訳で、相手方が城を包囲し続ければいずれは食糧が尽きる。
 となると、籠城戦が勝利するには寄せ手側に長期出陣の継続困難となる要因があるか、味方に援軍が来て疲弊した攻め手を襲ってくれるかが大切になる。

 その点で云えば、まず尼子側は糧道にてゲリラ戦術を展開し、大内勢を苦しめたことで戦況を優位に進めることが出来た。兵站の補給が困難になると大軍程苦しむことになる。加えて、四月末に三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経等の国人衆が再び尼子方に寝返った。
 この模様を『陰徳太平記』では城を攻めると見せかけて堂々と城門から尼子軍に合流していったと記し、平成九(1997)年の大河ドラマ『毛利元就』では再裏切りを為した国人衆は笑いながら月山富田城に入城し、城兵達も得意気に歓声を上げて大内・毛利勢を嘲笑っていた。

 かかる展開を受け、五月七日に大内義隆は月山富田城攻めを断念し、撤退に掛った。
 籠城戦は守る方が有利と上述しているが、追撃戦は攻める方が圧倒的に有利で、大内勢は尼子勢の執拗な追撃を受け、殿軍を務めた福島源三郎親弘・右田弥四郎等が戦死し、同様に殿軍を命じられていた毛利元就は土一揆の待ち伏せを受けたこともあって壊滅的な打撃を受け、途中で嫡男隆元ともに自害を覚悟するほど追い込まれたが、家臣の渡辺通(わたなべかよう)が身代りになる形で難を逃れ、命からがら吉田郡山城へ帰還出来た。

 総大将である義隆は晴持と別れてそれぞれ別ルートで周防に退いた。
 義隆は宍道湖南岸の陸路を通って石見路経由で五月二五日に山口に帰還したが、中海から海路で退却しようとした晴持は、船が転覆したことで溺死してしまったのだった。



敗戦から得たものと立て直し 身も蓋もない云い方だが、大内義隆はこの第一次月山富田城の戦いにおける大敗を受けて腑抜け化した。つまり敗戦に何も学ばないどころか、現実逃避的に文弱に走ってしまった。
 満を持して参戦し、一年四ヶ月に及ぶ長退陣の果てに大敗し、養嗣子・大内晴持を失った義隆は酷く意気消沈した。

 そもそも月山富田城の戦いに当初義隆は乗り気ではなかったのを陶隆房等の武断派重臣が尼子討滅を強硬に主張し、文治派重臣達は反対だった。そこを受けて掛かる大敗を経た義隆は領土拡大を初めとする武断的な行動を完全に武断派家臣達に丸投げしてしまった。
 とは云え、肥前の竜造寺胤信に自らの片諱である「隆」の字を与えて竜造寺隆信と名乗らせて北九州における連携を強化したり、京都の荒廃を見かねて繁栄する山口を頼ったフランシスコ・ザビエルを引見して布教の許可を与えたり等と云った行動も見られるので、守護大名としての任を全く放棄した訳ではなかったが、結果的に武断派重臣達とは心が離れ、寵愛するのは文治派重臣のみという傾向が露骨となり、これが隆房の謀叛を呼び、大寧寺の変で命を落とすこととなった。

 他方、同じく月山富田城の戦いに大内方として従軍して大きな痛手を被った毛利元就は大敗に学び、大内家とはつかず離れずで独自の勢力を回復・拡大させていったのだった。


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令和五(2023)年一〇月一三日 最終更新