第拾頁 災凶における身の処し方
昭和五八(1983)年の大河ドラマ『徳川家康』において、賤ケ岳の戦いに勝利して意気上がる羽柴秀吉(武田鉄也)と対峙することになった徳川家康(滝田栄)は、側近に秀吉の嫌いなものを問い、「負ける事でしょうか?」と答えた側近に、家康は「たわけめ、負けることはこの家康、秀吉以上に嫌いじゃ。」と返した。
人間誰も負けることを好き好んだりはしないだろう。だが、戦乱の世に生きながら、才能・運勢・最終的な身分に関係なく、生涯無敗で終わる者は極めて稀有である。戦乱の世でなくても、受験・競技・試験・商売・懸賞・その他様々な場面で人間は勝負に挑み、勝ったり負けたりする。
「俺は如何なる戦いにおいても一度も負けたことはない!」と豪語する人間には、「じゃんけんでも一度も負けたこともないのか?」と皮肉りたくなる(苦笑)。
まあ、それは極論として、殆んどの人間は「敗北」と無縁でいられない。そしてその敗北には、それが人生の終焉となるものもあれば、一時的な痛みで終わるものもあれば、「損して得を取る」的なものもあれば、勝敗断じ難い痛み分け的なものもあるし、引き分けの中にも「双方大敗」と云いたくなるものもある。
そして本作で検証してきた戦に「大敗」した者の中には、「大敗」を糧として次の勝利や最終的な勝利を掴んだ者もいれば、そのまま崩れ落ちてしまった者もいる。勿論歴史上、「大敗」の中に命を落とした者は枚挙に暇がない。
冒頭の徳川家康じゃないが、誰だって負けたくない。まして戦となれば勝ち戦であって仲間に死者が出るのは避けられない。同じ戦死するにしても、自軍が大勝すれば「死に甲斐」もあるだろうけれど、「大敗」したとなると、その死が「無駄死に」。「犬死」であることも多く、何とも無念極まりない話である。
それゆえにこの最終頁では、改めて「大敗」をその前後で如何に向き合うかを、現代に生きる我々の糧とすべく最終検証を行って本作を締めたい。
検証壱 「大敗」を招かない為には?
一番理想的且つ平和的なのは「戦をしないこと」である。戦をしなければそもそも負けることはない(笑)。まあ、勝つことも無い訳だが(苦笑)。
だが、それが一番難しいことは誰もが知っている。領土・国家の威信・宗教・過去の怨恨等々、国家間にはうんざりするほど「もめる理由」が転がっている。もっとも、政治家達は絶対に自分達の損になることはしない(苦笑)。それゆえ基本、戦争を起こす理由にどんな大義名分を持ち出していても背景にあるのは経済問題であることが大半である。もっとも、その損得勘定を間違えたり、国家や自分達の利益は計算出来ても国民の損害を一顧だにしなかったりする奴等もいるのが問題である。
また、喧嘩も戦も「自分一人」では出来ない。相手が在って初めて成り立つ訳で、そうなるとこちらが戦を望んでいなくても向こうから掛かってくる分には避け様の無いものもある。ただ、戦争を仕掛ける側は「さあ負けるぞ!」と思って挑む訳ないから(笑)、戦を避ける為には相手に「挑んだら大怪我をする…。」と思わせるだけの力(軍事力とは限らない)が必要となる。
殊、戦国時代に限って云うなら、周辺大名に侵略を諦めさせる力を持つか、侵略で得るものが無いとの魅力の無さが平和を保つ主な手段となる。分かり易い例を挙げれば、関ヶ原の戦い直後の薩摩島津氏が該当する。
関ヶ原の戦いで西軍に属した島津義弘は名高い敵中突破で虎口を脱して薩摩に帰還したものの、甥の島津豊久を初め多くの将兵を失い、徳川家康から完全に目をつけられていた。そんな状況下で島津家では家康に対して謝罪の意を示しつつも、国内では徹底的に臨戦態勢を整えていた。
家康にしても、配下の猛将・井伊直政を負傷させた島津勢の奮闘振りは記憶に新しく、遠い薩摩の地まで遠征して精強な島津勢と死闘を展開するのは、負けないとしても多大な犠牲を強いられる話で、それによって得られるのが薩摩・大隅だけとあっては旨味のある話ではなく、結局西軍参戦大名中、島津だけが本領安堵を勝ち得た。
ただ、止む無く始まってしまった戦いに負けない為の軍事力ならともかく、圧倒的な強さで侵略を諦めさせるとなると、「抑止力」と云う話になり、自衛隊をより強力な国防軍とするか?核武装すべきか?という話にも通じて来るが、自制を上回る武力は暴走を生む。
分不相応の武力を持ってしまうと、「武力を用いた方が解決早いじゃん。」と考えかねない。早い話、侵略を防ぐ為の力で自分が侵略者になりかねない。世の中には「戦争に強い国程戦争に巻き込まれない。」と主張する者もいるが、世界最強の軍事力を持つアメリカ合衆国が如何に戦争と無縁でいられない国であるかを冷静に振り返って欲しいし、核武装は一度すれば手放すことが出来ない事も認識して欲しい。
個人的に自衛の為の武力を全面否定はしないが、力だけに頼ることが如何に危険か?は重要である。力ですべてを解決しようとすれば、相手はそれ以上の力を持とうとするだろうし、更にそれに対抗するとなると…………特撮房シルバータイタンなら、「それは血を吐きながら続ける悲しいマラソン」と云うことだろう(云うまでもなく、『ウルトラセブン』の名台詞である)。
検証弐 「大敗」を食らった後は?
残念ながら、「大敗」を喫した上は、その前の状態には戻れない。復興あるのみである。ただ、その大痛手である「大敗」だが、その直後にまず認識すべき大切なことがある。それは「まだ生きている。」と云うことである。身も蓋もない云い方をすれば、一戦に滅びれば「その後」も「立て直し」もへったくれもないのである。
それゆえ、「いっそ死んだ方がマシだったかも………」と思ってしまうどん底状態でも、「これ以上悪くなり様がない。」と考えて立て直しに臨む他ない。まだ生きていることに感謝し、まだやれる事があることを認識し、前向きな姿勢が生まれてこそ反省も生きて来るし、後悔も全くの無駄にはならなくなるだろう。たとえ、その「大敗」を機に勝負自体を捨てて別の生き方をすることになったとしても。
逆の云い方をすれば、「大敗」時の茫然自失を引き摺り、ただただ落ち込んでいるだけで背後の成長は望めないし、それこそ次戦に滅びるかも知れない。
これは何も「戦」における「大敗」だけに云えるのではない。
戦争以外にも、出世競争・受験・恋愛・就職・コンクール・スポーツ・格闘等々人生には様々な勝負があり、勝つ時もあれば負ける時もある。
まずは「大敗」の事実をしっかり見据え、何が残され、何をしなければならないのかを把握し、次なる戦いに備えることが肝要となる。そしてそこには撤退・降伏・路線変更と云った選択肢も含まれる。
このことが、「云うは易し、行うは難し」となるのは、「大敗」の悔しさや苦しみに囚われ過ぎて、現状の把握を妨げられていることが多いからである。特に(理由はどうあれ)意固地になって「大敗」を認めることが出来ない時は尚更である。
「男の人生はこれ戦いの連続。勝つ時もあれば負ける時もある潔さが肝心じゃ。」(by風雲羅漢塾塾長熊田金造(『魁!!男塾』第34巻より))
検証参 「大敗」に何を学ぶか?
まずはその「痛手」を忘れないことだろう。敗北の悔しさ、多くを失った悲しさ、痛みと喪失に打ちひしがれた傷心、いずれもが向かい合って気分の良いものでは無く、「思い出したくもない!」となることも多いだろう。
だが、「大敗」後も同じ舞台で戦い続けるなら、敗北に学ぶことは必須である。仮にその舞台を降り、別の生き方を選ぶにしても、敗北の本質から目を逸らしたままではその生き方でも「大敗」を招くだろう。
敗北に学ぶのは何も敗因だけではない。その勝負自体が本当に戦う意義や価値があったものなのか?その勝負は避けることが出来ないものだったのか?別の路線は歩めなかったのか?戦略・武備・味方の団結・地の利・いざと云うべきに頼れる第三者等々は充分だったのか?………云い出せばキリがない。
過去作にても触れたことがあるが、「大敗」や「滅亡」を鑑みた時、丸で天がその一族や国家を滅ぼそうとしてるのではないか?と思いたくなるぐらい次々と悪い要因が重なる。逆の云い方をすれば、一つや二つの要因で簡単に御家や国家は「大敗」を喫したり、滅びたりはしない、となる。
敗北は悔しいし、出来るなら認めたくない。「大敗」となれば尚更である。だが、見たくないものを見て、知りたくないことを知って、それを内省し、次に活かせてこそ、「大敗」も「肥やし」となり得ることであろう。
最終検証 最前の「大敗」とどう向き合うか?
今を去ること八三年前、大日本帝国は日中戦争が泥沼化して勝敗が見えていない状況でアメリカ・イギリスとも戦端を開いた。軍需物資面で見て、まともに戦えるのは日露戦争時同様一年と見られ、開戦後に戦勝を重ね、米英に痛手を与える中、有利な条件で講和することが必須だった。
だが、この目論見はミッドウェー海戦に「大敗」して半年で崩れ、日本軍は制海権と制空権を失い、その後優勢に転じることがないまま敗戦を迎えた。この時点で既に日本軍は暗号を解読され、国際的に孤立し、本土に空襲を受けている有様だった。
そして退くに退けない状況で戦争はその後三年二ヶ月続き、その頃にはまともな航空機も作れず、敵が一つの都市を破壊する核兵器まで使い始めたのに対し、日本軍が頼りとしたのは竹槍だった……………歴史の結果を知っているから云えることながら、「こんなんでどうやって勝てんねん!?!」と云いたくなる有様である。
ともあれ、昭和二〇(1945)年八月一五日、大日本帝国は「無条件降伏を受け入れる」という建国以来最大の屈辱且つ重篤な敗北を迎えた。
これにより多くの日本人が「戦争はもう懲り懲り」と云う想いを抱いた。
この想いは良いようにも悪いようにも作用した。
良い面を見れば、世界で唯一戦争放棄を謳った憲法を擁し、核武装は議論すら許さない空気を作り、正式な軍隊を持たないことで侵さず、侵されずで(少なくとも直接的には)戦争を八〇年近く行わずに来た。
また復興に向けた尽力は特に工業面で著しく、日本製品の優秀性・信頼性は世界に誇れるし、その復興力は阪神大震災・東日本大震災と云った大災害からの復興にも活かされた。
外交面でも戦時中に被害をもたらしたアジアの国々を初め、多くの国々にODA等の協力を行ったことへの国際的評価も高い。
悪い面を見れば、「平和ボケ」を様々な局面において国内外で非難されている。
平和憲法を擁して正式な軍隊を持たない一方で、アメリカの云いなりが続き、事実上の軍隊を持ちながら真の意味で自国の意志でこれを使えず、領土問題や拉致問題で強気な態度に出られず、領海侵犯やミサイル発射に「遺憾だ!」、「断じて容認出来ない!」を繰り返すばかりである(一概にそれが悪いとは云い切れないが)。
ODAで国際協力を繰り返しているにもかかわらず、国際社会における発言力は決して強くなく、多大な援助を行っているにもかかわらず、戦時中の恨みをいまだにネチネチ云われ続けている。
物事には何事も良き面も悪しき面もあるから一概にその功罪を云い切ることは難しい。 戦争が一国では出来ない様に、外交は相手あってのことなので、未来がどうなるかは分からない。
ただ、個人的に危惧するのは、太平洋戦争に敗れ、国道が焦土と化し、三〇〇万人以上が命を落とし、国の在り様が大きく変わる程の「痛み」への想いが薄れつつあることである。
作中でも述べたが、薩摩守は国を守る為の最低限の武装までをも全面否定はしない。とはいえ、日本国憲法を改正すれば間違いなく今より戦争を行い易い国になるから現時点での改憲には賛成しかねているし、ましてや核武装は論外だと思っている。
ただ、「現時点での」としたのは、いずれは真の意味で日本人の手で日本人の為の憲法が制定されて欲しいと思っているからである。だが、今は時期尚早と思っている。少なくとも二つの要因が解消される必要がある。
一つが上述の「痛みへの想いが薄れていること」である。確かに日本は先の大戦における「大敗」に懲りて、軍事に関してはかなり考えが極端に走った。その影響は今でも大きく、再軍備や国防軍の創設や改憲を訴えただけで「軍国主義復活を許すな!」、「平和の敵!」との声が上がる。だが、その想いをも時の流れの中で徐々に薄れ、平和への有難みが失われ、過去の侵略を認めることや戦時中の戦争犯罪を認めることが国際社会における敗北と捉え、頑なな論を唱える者も少なくはない。
戦争に対する見方も、軍事に対する見方も、外交に対する見方も、歴史に対する見方も人それぞれで、薩摩守の考えが必ずしも正しいとは云い切れない。だが、少なくとも八〇年前の甚大な戦禍への想いを軽視し、平和への有難みが麻痺した状態での憲法改正や再軍備が日本に良い未来をもたらすとはどうしても思えないのである。
もう一つの要因はアメリカとの関係である。
日本国憲法第九条を文章通りに捉えるなら、本来自衛隊は違憲な存在である。ましてや、海外に武器をもって出ていく等、どう解釈しても正当な行為とは認められない。しかし、アメリカによって決められた内容は、アメリカによって覆されている。
朝鮮戦争を受けて警察予備隊が組織され、湾岸戦争を経て「憲法の新解釈」で自衛隊が海外に派兵されることとなった……………国防や国際協力の観念から、自衛隊の存在や海外派兵を全面的に反対しないにしても、第九条が形骸化していると云わざるを得ず、すべての法の基である憲法が他国の思惑で形骸化される様では憲法改正以前の問題である。
未来がどう変わろうと、まずは最前の「大敗」と、そこに埋もれた夥しい犠牲への思い遣り・哀悼は決して忘れて欲しくないことがまずは願われてならない。そうでなくては、誰が散って云った命に意味を持たせるというのであろうか。
決して無駄にしてはならない、まずはその一言である。
令和六(2024)年元旦
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