第玖頁 ミッドウェーの戦い………空母全滅と制海権・制空権喪失

戦名ミッドウェーの戦い
合戦日時昭和一七(1942)年六月五日〜六月七日
敗者山本五十六
大敗度大敗度 ★★★★★★★★★★
その後への影響★★★★★★★★☆☆
損失空母四隻轟沈。以後の制海権・制空権喪失
戦経過 中部太平洋、ハワイ諸島の北西ミッドウェー島の周辺海域にて行われた日米両海軍による海戦である。

 昭和一六(1941)年一二月八日の真珠湾攻撃により、日米両国は開戦した訳だが、アメリカに対して戦争を仕掛けることに反対する声は決して少なくなかった。まあ、日米開戦を初めとする戦時中の是非や大義名分を語り出せば膨大な分量になるので、本作では割愛するが、大雑把に云えば、日中戦争において中国を支援する米英を敵視する陸軍は対米開戦に乗り気で、仮想敵国としていたことでアメリカの能力を良く知る海軍関係者程対米強硬路線に反対の者が多かった。
 実際、大日本帝国海軍連合艦隊長の山本五十六からして、アメリカと事を構えるのには反対だった。

 歴史の結果を起きた後から知っている現代の我々が、「一方で中国と継戦中なのに、もう一方で米英と戦端を開くなんて、何て無茶で愚かな……。」と簡単に切り捨てられるが、当時の物の考え方は複雑だった。
 勿論、日本の二十数倍の国土を持ち、軍需物資も報復で、軍事技術も世界の最先端を行くアメリカに対して、完全屈服を為せると思っていた者はまずいなかった(中には居たかも知れんが)。ただ、当時の日本には日露戦争と云う大国に勝利した前例があった。
 要するに緒戦で敵国に大打撃を与え、厭戦気分に陥らせたところで有利な講和を為そうという考えである。実際、ABCD包囲陣を初めとする経済封鎖を受け、国際的に孤立していた当時の日本は日米開戦の時点で石油の備蓄は二年分しかなかった(それゆえ現地調達を狙って仏印進駐が為された)。
 山本自身、「一年間は暴れて見せる。」と豪語していた。逆を云えば、それ以上は継戦の自信が無かった訳で、結果から云えば日本の対米優勢は半年しか持たず、その後は降伏するまで劣勢に立たされ続けた。

 思惑はどうあれ、真珠湾攻撃を皮切りに日米は開戦した。この真珠湾攻撃からして、奇襲そのものには成功し、日本軍の被害は軽微だったが、様々な意味で失敗が散見された。

 まず、軍事施設には打撃を与えられず、戦艦を何隻も沈めたものの、停泊空母は一隻もなく、アメリカ軍は奇襲後も充分な戦力を保持していた(戦艦も多くが後に引き揚げられ、修復され、戦線復帰した)。
 また、米軍の戦意を挫くという目標も達せられなかった。当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは欧州での戦争(要するに第二次世界大戦)に介入しないことを公約として大統領に参戦されていたので、彼自身の口から戦端を開くことに積極的な言葉を口に出来なかった。
 しかし、米国民は真珠湾攻撃を「卑怯な騙し討ち」と見做し、「Rmember Peal Harbor!」を合言葉に戦意を高揚させ、ルーズベルトは日本討つべしの論を方々で展開した(一般に奇襲になったことには、大使館の不手際で宣戦布告書手交が遅れたためと云われているが、ルーズベルトが知っていて、日本軍への憎悪を植え付けるためにスルーした説もあるが、ここでは詳細には触れません)。

 いずれにせよ、真珠湾攻撃は「米国に痛恨の一撃を与えて早期講和に持ち込む」という意味では山本の目論見からは程遠い戦禍に終わった。
 対米戦だけを語るが、日本軍は二日後のグアムの戦いに勝利し、同月二三日にウェーク島を占領し、東南アジアでも翌昭和一七(1942)年が明けて間もない一月二日にフィリピン・マニラを無血占領した。
 東南アジア各地で英海軍に対しても順調に勝利を重ね、二月一九日にはオーストラリアに空襲を仕掛けるまでに戦線を拡大した。だが、米軍も黙ってやられっ放しだった訳ではなく、二月24日に対日プロパガンダ放送を開始し、前月に奪われたウェーク島にも反撃を仕掛けた。

 三月一三日、フィリピンから米軍司令官マッカーサーを追放するに至ったが、一ヶ月後の四月一八日、米空母から発進したB-25爆撃機による初の本土空襲が敢行された。所謂、ドーリットル空襲だが、一六機の爆撃機が東京・横須賀・横浜・名古屋・神戸を空襲したもので、大戦末期に比べれば軽微な被害だったのだが、日本本土が初めて攻撃を受けたことにすべての日本人が大きな衝撃を受けた(まあ、八七名も死んでいるので、「軽微」と云っても後々との比較の上でしかないが)。
 ともあれ、それまで海軍では地の利(?)を得た日本近海で米海軍を迎撃する考えが支配的だったが、本土空襲への衝撃もあって、次の空襲を防ぐ為にも、本土よりも遠方で米海軍力を叩くべしとした山本に意見が同調されるようになった。

 この考え自体は戦略的に間違っていない。実際、この時点での空襲では米軍機に国にまで戻るだけの燃料は機内に持ち得ず、空襲を終えた米軍機は日本列島を超えて中国大陸に不時着する状態だった。後にサイパン島陥落の責任を取る形で東条英機内閣が総辞職に追い込まれたのも、サイパンを占領されたことで米軍が機内の燃料で日本に空襲し、帰還することが可能となり、本土への空襲が激化したからであった。

 実際、山本自身も真珠湾攻撃が中途半端な成果に終わり、米軍に本土空襲が出来る程の戦力を残していたことを恥じ、彼の元にも彼を非難する声は数多く寄せられていた。
 連合艦隊はミッドウェー島を攻略し、ここを占領することで米艦隊の動きを封じ、要衝であるこの地を取り戻す為に米軍が必死になるであろうから、米軍の矛先をこの地に集中させることが出来ると見ていた(軍令部はそうは見ていなかったが)。

 気象状況から六月七日午前零時に上陸すると計画したが、これらの計画は、連合艦隊の機密が完全保たれる中、奇襲にて米軍より早くミッドウェー島を占領し、そこを基地として後から現れる米海軍を迎撃するという形での成功が目されていた。



大敗振り このミッドウェー海戦の成否における必要絶対条件は連合艦隊の動きが米軍に察知されていないことだった。だが、有名な話だが、この時点で日本軍の暗号は完全に米軍によって解読されていた
 当然、米海軍は動員出来る全力をミッドウェー島に差し向けた。

 それでも連合艦隊の軍事力は相対した米海軍に劣っていた訳ではなかった。双方の参戦兵力は、

日本) アメリカ
空母:四隻(赤城・加賀・飛龍・蒼龍) 空母:三隻(ヨークタウン・エンタープライズ・ホーネット)
戦艦:二隻 戦艦:〇隻
重巡洋艦:二隻 重巡洋艦:七隻
軽巡洋艦:一隻 軽巡洋艦:一隻
駆逐艦:一二隻 駆逐艦:一五隻
航空機:二六一機 航空機:三四七機

 となっており、重巡洋艦と航空機の数がやや劣っているとはいえ、空母は一隻多く、単純な戦力として然程劣っていた訳ではなかった。

 勝敗を分けたのは索敵能力と航空機の運用にあった。
 そもそも当初米海軍を日本近海で迎撃する方針であったのが、ミッドウェー島への攻撃に転じたこと自体、日本軍の哨戒能力では米海軍の動きを捕捉し切るのは不可能で、ドーリットル空襲に続く空襲を防ぐのは困難と見られた故だった。
 そして、暗号を解読されたこともあって、先に索敵に成功したのは米軍だった。

 奇襲を予定していたのが、奇襲された訳だから、連合艦隊を襲った動揺は大きかったと思われる。しかも連合艦隊は米軍より先にミッドウェーに到着したと思い、空母の艦載機は地上基地攻撃用の兵装で出撃しており、海上に展開する米海軍と戦うには空中戦用の兵装に換装する必要があった。
 かくして空母上は換装の為に充分な臨戦態勢を整えられず、一方の米軍機は急降下爆撃で空母の機能を殺しに掛かった。これにより空母蒼龍、赤城、加賀が撃沈され、最後まで奮戦した飛龍も米軍機猛攻の前に次期海軍司令長官を嘱望されていた山口多聞とともに海底深く沈み、日本海軍は空母四隻と、三九〇機もの艦載機をすべて失い、以後制空権と制海権を完全に米軍に握られてしまったのだった。



敗戦から得たものと立て直し 酷な書き方だが、敗戦に学んだことは若干あっても、立て直しはならなかった。

 ただでさえ、太平洋戦争は二年分の備蓄しかない燃料の下、一年以内に有利な講和に持ち込む形で決着を付けなければならない戦いだった。それが開戦半年で空母の半数を失い、大量の艦載機を失ったのである。空母の喪失も、ベテランパイロットの大量戦死も大痛手だった。そしてそれを立て直すには何もかもが不足していたし、何より暗号が完全に解読されている状況が打開出来なくては勝てるものも勝てなかった(連合艦隊司令長官山本五十六の戦死も空路を完全に読まれて奇襲迎撃を受けたことによるものだった)。

 謂わば、ミッドウェー海戦における大敗は、大日本帝国の当初の目論見を完全に瓦解させ、対米戦の敗北を決定付けたと云っても過言ではなかった。もっとも、だからといって即講和・即降伏という訳にもいかず、対米戦争はこの後三年二ヶ月続いた。
 勿論、物資も人員も元々不足していた日本軍に当初と同じ戦いが出来る筈もなく、講和の道を模索するにしても、「せめて米軍にもう一撃与えて有利な状態にしないと………。」とという想いが当事者達にはあった。
 周知の通り、「せめてもう一撃…。」という念に固執し、戦闘状態を引き延ばしたことで日本全国が空襲に曝され、沖縄が戦場となり、広島と長崎には原子爆弾が投下されることとなった………。これらの惨禍に対するすべての責を大日本帝国に帰す気は無いが、昭和二〇(1945)年八月一五日のポツダム宣言受諾が前後していれば犠牲者数の増減幅が大きかったであろうことは想像に難くない。
 結果論ながら、ミッドウェー海戦における大敗で「この戦争に勝ち目はない。」と云うことを完全に悟り得なかった軍部の判断の甘さは悔やまれてならない。勿論こっちから喧嘩を吹っ掛けておいて、如何に大敗でも一回の敗北で即講和・即降伏を切り出す訳にもいかなかっただろうから話は単純ではないが、もう少し深い学びと悟りは得て欲しかったと思われてならない。


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令和五(2023)年一二月二五日 最終更新