退位者第壱頁 淳仁天皇………大権力者に翻弄されて
名前 | 淳仁天皇(じゅんにんてんのう) |
生没年 | 天平五(733)年〜天平神護元(765)年一〇月二三日 |
在位 | 天平宝字二(758)年八月一日〜天平宝字八(764)年一〇月九日 |
退位させられた理由 | 謀叛人として罰せられて |
退位させた者 | 孝謙上皇 |
退位後の地位 | 親王 廃帝 流刑者 |
無念度 | 七 |
略歴 舎人親王(天武天皇の子)を父に、当麻山背を母に天平五(733)年に七男として誕生。諱は大炊(おおい)。父の舎人親王は天武天皇の皇子の中で最後まで存命していた人物で、長屋王の変においてもその対処を命じられるなどして活躍した人物だったが、大炊が三歳のときに薨去。大炊は七男だったこともあってか、皇族の中でもその存在感は薄く、天皇の孫でありながら官位を受けることもなく、存在が注目されることもなかった。
転機が訪れたのは天平勝宝九(757)年三月二九日で、この日孝謙天皇の皇太子とされていた道祖王(ふなどのおう)が廃位され、四日後に藤原仲麻呂の推挙により、大炊が立太子された。
道祖王は大炊と同じく、天武天皇の孫で、大炊とも聖武天皇とも従兄弟に当った。その聖武天皇の娘で天皇となっていた孝謙天皇はその地位に釣り合う男性が存在せず、生涯独身を余儀なくされ、子が生まれる可能性は皆無だったため、聖武天皇は崩御に際して道祖王を立太子していた。
だが、道祖王は素行に問題があり、自身も「自分は愚か者で皇太子の重責には耐えられない。」としていた。これを受けて孝謙天皇は群臣を招集して道祖王廃太子の是非を問うたところ、反対意見は無く、大炊にお鉢が回ってきた。
立太子された大炊は、仲麻呂の長男で既に没していた藤原真従の未亡人・粟田諸姉を妻に迎えた。諸姉は真従死後も仲麻呂邸に住んでいて、ために大炊もそこに住むことになり、彼は仲麻呂夫妻を父母と仰ぎ、両者は深く結びついた。
天平宝字二(758)年八月一日、大炊は孝謙天皇から皇位を譲られて即位し、第四七代・淳仁天皇となった。
淳仁天皇は仲麻呂に「恵美」の二文字を姓に付け加えさせ、仲麻呂は藤原恵美押勝と名乗り、絶頂期を迎え、周囲は「(押し勝つという)名前の通り。」と陰口を叩いた。丸で星亨だな(笑)。
いずれにせよ淳仁天皇は押勝を深く信頼し、政治に関しては良く云えば全面信任、悪く云えば丸投げに近かった。そんな中、コテコテの中国かぶれだった押勝は官位を唐風の名称に改めたり、唐で安史の乱が起きた際には新羅討伐を行おうとしたり、橘奈良麻呂(諸兄の子)が自分を排除する密告を受けると即座に関連者を捕らえ、殴打による拷問の末に殺害するという酷刑を執行したりした(橘奈良麻呂の変)。
だが押勝が太政大臣となった天平宝字四(760)年、押勝にとって叔母で、最大の後ろ盾であった光明皇太后が崩御すると押勝の命運に翳りが差し、それは淳仁天皇のそれにも大きく影響した。
退位への道 淳仁天皇が皇位を追われることとなったのは、早い話、藤原恵美押勝が失脚したからである。淳仁天皇の皇位は押勝があってのものと云っても過言ではなかった。
淳仁天皇を擁し、多くの政敵を葬り、父・武智麻呂が三人の叔父と共に藤原家我が世の春を築き上げた時以上の栄耀栄華を掴んだ押勝だったが、上述した様に光明皇太后の崩御で権勢に翳りが見え出した。
かといって、いきなり失脚した訳でもなかったのだが、光明皇太后崩御から二年後の天平宝字六(762)年、病気療養中だった孝謙上皇が自分の看病をした禅師・弓削道鏡を寵愛する様になったことに押勝は不安を覚えた。
淳仁天皇を通じて「怪しい僧を近付けぬよう。」と進言したのだが、これは孝謙上皇の逆鱗に触れ、激怒した上皇は淳仁天皇に対して「国の大事は自分が行う。帝は小事を行え。」と宣言した。
これを受けて天平宝字八(764)年九月押勝は道鏡を除かんとして挙兵を画策。だが、このことは即座に上皇に通報され、先手を打たれたことで押勝は淳仁天皇を擁することが出来ず、代わりに塩焼王(天武天皇の孫で、廃太子された道祖王の弟)を新帝に担いで挙兵したが、敗れて妻子共に誅殺された(恵美押勝の乱)。
この間、淳仁天皇は何もしなかった、と云うか、出来なかった。先手を打った上皇軍に拘束されていたからとも、押勝を見限って上皇側に和解を申し入れていたからとも云われているが薩摩守の研究不足ではっきりしない。しかしながら、乱鎮圧後、淳仁天皇も関係者として連座を免れなかった。
乱鎮圧の翌月、上皇軍は淳仁天皇のいた中宮院を包囲。上皇より「仲麻呂と関係が深かった。」された淳仁天皇は廃位を宣告され、五日後の天平宝字八(764)年一〇月一四日、淡路島への流刑に処された。
一応、皇族だったので建前上は罪人とされず、親王への格下げとなったが、皇位は完全に剥奪され、上皇とされず、逆に孝謙上皇の方が重祚して称徳天皇となった。
退位後 かくして淡路島に流された淳仁天皇は「流罪となった最初の天皇」となった。
現代の感覚で云えば、奈良から見てそれほど遠い距離でもなく、淡路島は海峡大橋で本州とも繋がった地で、「陸続き」とさえ云える。だが、奈良時代の皇族にとっては都を追われるだけでもとんでもない流され方で、命が助かったとはいえ、かなりの酷刑だったのだろう。
そんな刑罰を受けた淳仁天皇が流刑地にてどんな生活を送っていたのかは詳らかでない。これは例によって薩摩守の研究不足もあるが、流されて後の淳仁天皇の余生が短かったと云うのもある(早い話約一年でこの世を去った)。
廃帝となったとはいえ、皇族の席まで奪われた訳では無く、世間からは「先帝」と目されていた淳仁天皇の元に通う官人は多かった。同時に都でも野心家の貴族達の中に、孝謙上皇が称徳天皇として重祚した様に、淳仁天皇を重祚させてその後ろ盾にならんと画策する者達もいた。
これに危機感を抱いた称徳天皇は天平神護元(765)年二月に現地の国司に淳仁天皇が過ごす院の警戒強化を命じた。掛かる幽閉生活に嫌気がさしたものか、或いは、「親王」の地位に在っても「淡路廃帝」などと呼ばれていたことが我慢ならなかったものか、淳仁天皇は同年一〇月二二日に逃亡を図ったが、失敗して捕まった。
そして翌日、淳仁天皇は薨去した。宝算三三歳。
淳仁天皇の屈辱待遇は死後も続き、彼を嫌い抜いた称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、大喪が行われることも無かった。陵は三原郡(現・兵庫県南あわじ市)に造営され、七年も経ってから宝亀三(772)年に光仁天皇が僧侶六〇人を派遣し、斎を設けて、その魂を鎮めた、六年後の宝亀九(778)年三月二三日に山陵扱いとされた。
だが、その後も廃帝扱いは続き、明治三(1870)年七月二四日に、明治天皇によって「淳仁天皇」の諡号が贈られた(同時に弘文天皇(大友皇子)・仲恭天皇も諡号された)。つまり、淳仁天皇の名は生まれてまた一五〇年チョットしか経過していないのである。
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令和六(2024)年九月二四日 最終更新