第弐頁 冷泉天皇………心の病の陰で

退位者
名前冷泉天皇(れいぜいてんのう)
生没年天暦四(950)年〜寛弘八(1011)年一〇月二四日
在位康保四(967)年五月二五日〜安和二(969)年八月一三日
退位させられた理由病気の為
退位させた者
退位後の地位上皇
無念度


略歴 伝第六三代天皇。父は村上天皇、母は藤原安子(師輔の娘)で、第二皇子に生まれた。諱は憲平(のりひら)。同年に生まれていた兄で第一皇子の広平親王がいたが、外祖父の力関係から生後二ヶ月で兄を差し置いて立太子された。

 幼少時より奇行が多く、将来が危ぶまれたが、康保四(967)年五月二五日に村上天皇の崩御を受けて一八歳にして藤原実頼を関白として即位した。実頼は冷泉天皇にとって、外祖父・師輔の兄で、謂わば、大伯父に当る。この時点で師輔は世を去っており、一方で実頼は天皇の外戚になり損ねていたが、師輔の代理として冷泉天皇を補佐する形で政権を掌握した。
 これにより、本来幼少の天皇の代理である摂政、成人した天皇の補佐である関白が常設となり、長く天皇親政は途絶えることとなった。


退位への道 幼少時より奇行の目立った冷泉天皇は即位のみならず、その後も危ぶまれた。
 即位前既に弟・為平親王(村上天皇第四皇子)を村上天皇の後継者に推す声が有った。これは藤原氏の反対により潰されたが、逆に藤原氏は自己の権力基盤を失わない為に冷泉天皇即位直後に守平親王(村上天皇第五皇子)を皇太子に立てた。
 守平親王は冷泉天皇とは同母帝で、当然藤原氏の血を退いている。一方で、為平親王の妃は左大臣源高明で、為平親王が即位すれば高明は藤原氏に対する大きな抵抗勢力となることが危ぶまれた。

 これに対して藤原氏は冷泉天皇の后に藤原懐子(藤原伊尹の娘・師輔の孫)を立て、この懐子が安和(968)元年に首尾よく後に花山天皇となる師貞親王を生んだ。
 そしてその翌年には陰謀で源高明を謀反の罪で大宰府に流し(安和の変)、藤原氏は朝廷内におけるすべての他氏抵抗勢力を排除することに成功した。こうなると藤原家の血を引きつつも、奇行の目立つ天皇が在位し続けるのは藤原家にとって不安材料でしかなかったのかも知れない。
 詳細は薩摩守の研究不足で詳らかでは無いが、安和の変から半年も経ない安和二(969)年八月一三日、冷泉天皇は同母帝にして皇太子でもあった守平親王に譲位し、太上天皇(上皇)となった。

 譲位に伴い、関白藤原実頼は新帝・円融天皇の摂政にシフト、就任した。そして皇位に関しては、冷泉天皇の皇子・師貞親王が既に円融天皇の皇太子と定められていて、師貞親王が花山天皇として即位するとすぐに円融天皇の子・懐仁親王(後の一条天皇)が皇太子に立てられたように、丸で鎌倉時代後期の両統迭立の様に、冷泉系・円融系で皇位の交互譲位が行われたのだった。


退位後 退位した冷泉天皇は後院(上皇御所)となった冷泉院に過ごした(これに因んで後に冷泉天皇と諡された)。引退したとはいえ、まだ二〇歳で、八年後には子供(後の三条天皇)まで作っている。出家した訳でもなく、恐らくは病気療養を名目とした譲位と思われるが、薩摩守はそもそもこの「心の病」が様々な意味で怪しくて「屈辱の退位」を余儀なくされた天皇の一人にこの冷泉天皇をカウントした。

 「怪しい」と云っても、病気自体を怪しいと見ている訳では無い。病気は病気だったと思う。ただ、「心の病」は現代医学をもってしても難しい問題である。程度も千差万別だし、常に発症している訳でもない。詐病だってあり得ただろう。
 冷泉天皇に関しては、「足が傷つくのも全く構わず、一日中蹴鞠を続けた。」、「幼い頃、父・村上天皇に手紙の返事として、陰茎が大きく描かれた絵を送りつけた。」、「清涼殿近くの番小屋の屋根の上に座り込んだ。」、「病気で床に伏していた時、大声で歌っていた。」、「退位後に住んでいた御所が火事になった折、避難するときに牛車の中で大声で歌った。」といったものがあるとされている。
 ただ、普段の冷泉天皇は気の病を持つようには見えない、容姿端麗な人物だったとも伝えられている。機嫌の悪い時に強がってか、パニクってか、大声を上げる人物は幾らでもいるし、幼少時に陰部や排泄物に異常な関心を示してそれを連呼する者も数多い。正直、薩摩守は「この程度で?」という気がしないでもない。
 史書『大鏡』では冷泉天皇の奇行が藤原元方の祟りであると伝えている。藤原元方とは、冷泉天皇の異母兄・広平親王の外祖父で、娘が村上天皇の第一子を生みながら、同じ藤原氏に在りながら力関係で実頼・師輔兄弟に抗し得ず、早々に天皇の外祖父となる道を絶たれ、憂悶の内に世を去った人物である。そして『大鏡』の作者は摂関家や村上源氏に近い官人と見られており、村上天皇時代に政権争いから敗北した元方の無念を肌で感じていたかも知れない。

 平安時代の日本人は怨霊の存在を信じ、政争に敗れたり、無実の罪で落とされたりした果てに無念の死を遂げた人間が怨霊化すると信じていた。そして怨霊となったと見做した者に対し、鎮魂・祭祀することで祟りを転じて御加護を為すとしていた。
 菅原道真に対する天神信仰はその代表だし、『源氏物語』を政争に敗れた源氏関係者の霊を慰める為に源氏を主人公とした物語を、源氏を追い落とした張本人である藤原家がパトロンとなって作り上げたとも云われている。
 ここで話を冷泉天皇に戻すが、重篤か軽微かは別として、冷泉天皇に心の病自体はあったのだろう。ただそれが藤原氏が政争によって追い落とした多くの同族を含む貴族への罪悪感もあって、奇行の度に「祟りでは……??」と強く発想され、繰り返される内に物凄い病とされたのではあるまいか?

 薩摩守が冷泉天皇の病を大したものではなかったと見ている根拠は宝算である。
 平安時代中期の天皇は呆れるほど短命の物が多く、隠居後の余生が短い者も多い。しかし、冷泉天皇は安和二(969)年八月一三日に退位して後、寛弘八(1011)年一〇月二四日に宝算六二歳で崩じている。

参考
天皇 退位時の年齢 宝算
醍醐 四六
朱雀 二四 三〇
村上 四二
冷泉 二〇 六二
円融 二六 三三
花山 一九 四一
一条 三二 三二
三条 四一 四二
後一条 二九 二九
後朱雀 三七 三七
後冷泉 四四

 表にて比較すると一目瞭然だが、冷泉天皇以外は五〇歳にも満たずに崩御しており、「当時としては」になるが、冷泉天皇の長寿は抜きんでている。
 常々薩摩守は、周囲に医者もいて、財力的にも最新・最上の治療を受けることが出来、食事にも事を欠かない筈の当時の皇族がなぜこうも短命者が多いか疑問を抱いている。まあ、迷信深かった当時のこと、信仰に応じた食生活が却って栄養の偏り、薬と信じての毒物摂取(水銀・鉛など)から高貴な人ほど平均寿命が短かったのでは?との推測も可能ではあるが、歴代天皇が四〇・五〇歳になる前に病死するのが連発するのを当時の人々は誰も疑問に思ったり、解決に尽力しようとしたりは思わなかったのだろうか?

 いずれにせよ、病気を不安視され、皇位から外されたにしては、冷泉天皇の余生は長く、重篤の病気を抱えていた者の余生とはとても思えない。勿論心の病と体の病に必ずしも因果関係が有る訳では無いことぐらい分かっている。
 但し、政権の座から失脚した途端に意気消沈して体まで病んで程なく没した歴史上の人物は枚挙に暇がない。それを考えると、冷泉天皇の場合、病はそれほど重篤なものではなかったか、奇行の逸話も皇統が冷泉天皇の系統から円融天皇の系統に移ったことを背景に、これを正統化するという政治的思惑があり得るとする歴史家の見解も頷けなくはない。

 ともあれ、冷泉天皇の人生は完全に藤原摂関家と密着している。
 生まれて間もなく異母兄を差し置いて立太子されたのも藤原家の力なら、即位後すぐに同母兄を立太子することになったのも藤原家の思惑なら、皇位が藤原家の娘との間に出来た子に戻ることが早々に約束されたのも藤原家の画策である。
 つまり、すべてが藤原摂関家を後ろ盾として運営されており、別の云い方をすれば完全に藤原家に翻弄されている。
 となると、すべてを藤原家の描くストーリー通り動かざるを得ないことへの反発として、「奇行」があり、世継ぎを設けたことで藤原家に利用されることもなくなったことで退位したことが却って藤原家からの呪縛を断ち切ることとなり、悠々自適の生活が可能となったことで長い余生を送ることが可能となったのであろうか?
 だとすれば、かなり皮肉な話ではあるのだが。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和六(2024)年九月二七日 最終更新