屈辱の退位
「退位」…………国王や校庭などがその地位を退くことである(デジタル大辞泉・コトバンク引用)。広義にはある種の地位を退くことを意味し、狭義には帝王や将軍と云った最高権力者がその地位を退くことを意味する。
平成三一(2019)年四月三〇日、第一二五代天皇であらせられた明仁様(現上皇陛下)が皇太子であらせられた徳仁様(現今上天皇陛下)に御譲位あそばされたが、これは明治元(1868)年に一世一元の制が制定されて以降は初めてのことで、天皇の退位は実に第一一九代光格天皇が文化一四(1817)年三月二二日以来、二〇二年振りのことだった。
現上皇陛下が退位を決意あそばされた理由は高齢による公務の継続を困難としてのもので、陛下の強い意向を受けて皇室典範に例外を設ける形で御譲位が成立した。健康上、この判断は正しかったと云え、令和六(2024)年九月二四日現在、父帝である昭和天皇を上回る九〇歳にして御健在である。
一世一元の制では、天皇の在位を原則終身としている。実際、大正天皇が病弱で政務に耐えられなかった際も、当時皇太子だった昭和天皇が摂政として公務を代行したものの、大正天皇が退位することは無かった。
ただ、さすがに退位時に父帝が崩じたのと同年齢となっていたことで公務に耐え難いと見られていた明仁陛下の退位に反対する声は殆んどなく、譲位は滞りなく行われて世は平成から令和に移った。
かように日本の皇室における「退位」は世にも稀なこととなっていたが、時代を遡れば多くの天皇が天寿の全うを待つことなく生前に「退位」している。その理由は様々で、
・高齢による政務継続困難を考慮して
・皇位継承争いを未然に防ぐ為の早目の譲位
・天皇本人が政務に嫌気がさしてのもの
・天皇以上の権力者による強要
・病による公務継続困難
・出家したがって
・その他
等々が挙げられる。
当然、それ等の「退位」の中には、周囲が反対したにもかかわらず天皇本人の強い意向によるものもあれば、逆に天皇は全く退位したくないのに権力や権威に強要されて不承不承退いたものもある。
本来、日本において天皇は最高の地位にある者で、その地位が臣下によって去らしめられるなど「謀叛」・「反逆」と云っても良い暴挙である。しかしながら、実際に最高の権力が最高の地位に在る者に有るとは限らず、歴史上何人もの天皇が意に沿わない「退位」を強要されている。
勿論、天皇だけではなく、摂政関白や征夷大将軍、大名の中にも退位を余儀なくされた例は数多くあり、現代の内閣総理大臣に至っては内閣不信任案が可決されるか、内閣信任案が否決されれば「総辞職」や「退陣」という名の「退位」を余儀なくされる(与党内における人望を失わない限りまずそうはならないが)。
「治天の君」と呼ばれる天皇だが、周知の通り常に最高権力者の座にあった訳では無い。時代によっては摂関家や征夷大将軍の方が強い権力を持ち、天皇といえどもその意向に逆らえない時代もあった。
逆に天皇の権威はしっかり保たれ、統治に関与しない方がその地位は安泰だったとも云える。そこで本作は日本史上意に沿わぬ「退位」を余儀なくされた七人の天皇に注目し、何故に彼等が「退位」を強要されたのか?その背景にどんな力や世情が有ったのか?等を検証し、理不尽に高位の去就が強要されることの意義や弊害を考察したい。
第壱頁 淳仁天皇………大権力者に翻弄されて
第弐頁 冷泉天皇………心の病の陰で
第参頁 花山天皇………騙しに近い道連れ出家
第肆頁 三条天皇………文字通り、同病相憐れむ?
第伍頁 崇徳天皇………退位強要連発の果てに
第陸頁 後深草天皇………両統迭立の始まり
第漆頁 後水尾天皇………当てつけ退位
第捌頁 何故起きる?「退位強要」
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令和六(2024)年一〇月二一日 最終更新