第壱頁 『平治の乱』と長田忠致………丸腰を狙った悪質さ

裏切り発生事件 平治の乱
裏切った場所 尾張
裏切り年月日 平治二(1560)年一月三日
裏切り者指名 長田忠致(?〜建久元(1190)年)
裏切り対象 源義朝、鎌田政清
裏切り要因 一族生き残り、立身出世狙い
悪質度
因果応報 降伏して活躍したにもかかわらず報復処刑
裏切り者の略歴 生年は不詳。桓武平氏良兼流の血筋で、尾張国野間(現・愛知県知多郡美浜町)を本拠地としていた。娘婿の鎌田政清源義朝の乳兄弟だった縁で平治の乱が起こった頃には源氏に味方していた。
 平治元(1159)年一二月、平治の乱に敗れた源義朝は、源氏の勢力の強い東国へ落ち延びようとしていたところ、尾張に辿り着いたところで、行動を共にしていた鎌田政清の勧めで、その舅である長田忠致のもとに身を寄せた。
 だが忠致は息子・景致(かげむね)と図って義朝鎌田を騙し討ちにし、その首を平清盛の元に差し出した。

 この功績で忠致は清盛より壱岐守に任ぜられたが、これにあからさまな不満を示した。だがこれにより清盛の不興を買い、却って処罰されそうになったため、慌てて不平を撤回した。

 治承三(1179)年、義朝の遺児・源頼朝が以仁王(もちひとおう。後白河法皇の第二皇子)の令旨を受けて打倒平氏の兵を挙げると忠致はこれに降伏した。
 この降伏は一つの賭けで、最悪自分と嫡男・景致の命は奪われても一族郎党の命だけでも救われればと考えてのものだったが、頼朝は親の仇である忠致に対し、「懸命に働いたならば美濃尾張をやる。」と告げた。
 この言を受けて、忠致は義経軍に従軍し、周囲も驚くほどの奮戦をした。

 寿永四(1185)年、壇ノ浦の戦いで平氏が滅びると、忠致は約束の褒美をやると云われ、呼び戻されたが、与えられたのは美濃尾張」ならぬ「身の終わりというひどい駄洒落で殺された(諸説あり)。


裏切りとその背景 一言で云うなら小豪族の苦悩と云えようか?
 長田忠致に限らず、源平合戦当時の武士・豪族は時の権力と如何に迎合し、如何に敵対するかで四苦八苦した。戦乱の時代、付くべき相手を間違えれば自分自身は勿論、一族郎党の全滅に繋がりかねない。それゆえ、保元の乱における源氏・平氏、戦国時代の真田家、九鬼家、奥平家の様に敢えて一族が敵味方に分かれて、最悪でも血筋を残すと云う苦肉の策が史上において枚挙に暇なく取られた。

 同情的に見るなら、忠致が娘婿である鎌田政清と、その主君である義朝を討ったのも、「一族を生き残らせたい。」と云う一心だろう。
 三年前の保元の乱で同じ功労者でも明らかに義朝よりも平清盛の方が優遇された。義朝平治の乱に及んだのも源平の形勢逆転を狙ってのものだったであろうことは想像に難くないが、源平のいずれが大権力者になるか?それを見誤らず、いずれに味方するか?を多くの小豪族が固唾を飲んで見守っていたのも想像に難くない。

 そして忠致の立場に立てば、平治の乱義朝が敗れるまで義朝を応援しただろう。義朝が出世すれば鎌田も出世し、岳父である自分がおこぼれに預かれる可能性は高い。だが、義朝は敗れ、鎌田の縁で自分の下に転がり込んで来た。

 忠致は迷ったことだろう。

 縁や立場を重んじ、義朝主従を匿い、彼等が再起に成功して最終勝者になれば自分の功績は絶大である。しかしながら自分の元を去った後に何者かの手に掛かって敗者となれば、一族の命運は平家によって断たれる可能性は極めて高い。
 どれだけの時間、どの程度迷ったかは推測のしようがないが、結果として忠致は源氏の棟梁である源義朝の首を持参することで一番手柄に預かり、平氏の天下における高位を獲得することに期待したのだろう。

 ただ、誤算だったのは期待したほどの高位には就けず、平氏の天下は二〇年程しか持たず、義朝の遺児・頼朝の挙兵に前後して全国の源氏が立ち上がった。
 前述した様に忠致は自分と嫡男の命は奪われても、一族郎党は生かしたい一心で頼朝に降伏した。頼朝の赦免が上辺だけのものだったのも前述通りだが、忠致が何より重んじた一族生き残りがどうなったかは不詳である(武田家や徳川家の家臣に子孫と見られる家系があり、子孫と名乗る方からメールを頂いたことがあるので、族滅は無い)。


裏切りの報い 長田忠致による源義朝鎌田政清主従への裏切りは、殺害方法が騙し討ちだったこともあって、数ある裏切りの中でも評判の悪いものとなった。
 騙し討ちに及んだのは義朝が膂力に優れていたからで、充分に隙を突かないと返り討ちに遭う可能性が高かった。それ故忠致義朝が入浴しているところを襲い、景致は鎌田が酔い潰れたところを襲撃して首を挙げた。
 死の間際、義朝は「せめて木太刀(木刀)の一本でもあれば(返り討ちに出来たのに)………。」と云う無念の言葉を遺したと云われている。
 ともあれ、鎌田の妻だった忠致の娘は父の背信を苦にして川に身を投げた。

 まあ、この時代一族全体の事を考えなければならない状況下では、娘一人の悲しみだけに向き合う訳にはいかなかった忠致の立場に多少の同情を感じないでもないが、「一族の生き残り」を考慮に入れてもこの後の忠致は浅はかだったと云わざるを得ない。
 義朝の首級を献じてきたことは、確かに平家にとって大手柄とするところだが、忠義も姻戚も顧みず主君の首を持って来る様な輩を後々信用出来るか?となると微妙なところだろう。
 まして、忠致が一族生き残りの為に泣く泣く義朝主従を討ったとして罪悪感を滲ませつつ平家に忠誠を誓うならともかく、与えられた壱岐守の官位に不服を示し、どや顔で義朝の官職だった左馬頭を求めて来たのだから、平家にしてみれば「主君を討った裏切者が何を云いやがる………。」と映ったことだろう。

 これも前述したが、忠致のこの態度に平清盛は褒章を取り消して処罰を与えんとしたため、忠致は慌てて態度を改めて壱岐守任官を受けたのだから、対応を誤ったとはいえ、時の権力の心象は最悪だったことだろう。

 結局、忠致義朝主従を裏切ったことを「止む得ぬ仕儀」と見たとしても、それならそれで平家に対して絶対の忠誠を貫き、西国に移り、一族を各地に散らせるのが取り得る最善(正確には最悪回避)ではなかっただろうか?
 ま、同じ時代に薩摩守が生きて、忠致と同じ立場に置かれたらどういう選択をしたか何とも云えないところではあるが。

 最後に余談だが、猜疑心を抜きにしても頼朝にとって、父に対する裏切りは大きな怒りと恨みを残しとのは誰の目にも明らかな訳だが、後年、奥州藤原氏を討伐した際に、河田次郎が藤原泰衡を裏切ってその首を持参したのを処刑したのも、父の一件が尾を引いていた気がする。


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令和三(2021)年七月一日 最終更新