第弐頁 『和田合戦』と三浦義村………因果は数十年後に

裏切り発生事件和田合戦
裏切った場所相模国由比ヶ浜
裏切り年月日 建暦三(1213)年五月二日
裏切り者氏名三浦義村(?〜延応元(1239)年一二月五日)
裏切り対象和田義盛・公暁
裏切り要因執権北条家への迎合と保身
悪質度
因果応報次代に迎合した北条家に滅ぼされる
裏切り者の略歴 三浦義澄を父に、伊東祐親の娘を母にその嫡男として誕生した(生まれた順では次男)。
 治承四(1180)年、父・義澄が源頼朝の挙兵に加わり、二年後の寿永元(1182)年に頼朝の妻・政子の安産祈願の祈祷のため、安房の條庤明神へ奉幣使として遣わされたのが歴史に登場した最初である。

 平家滅亡の五年後、建久元(1190)年に右兵衛尉に任官。正治元(1199)年に頼朝が逝去した直後、有力御家人による合議制に一三人の一人として参加。程なく浮いた梶原景時が反発した際には梶原一族を討つ中心的役割を果たした。

 元久二(1205)年、畠山重忠の乱でも討伐に参加して活躍する一方で、後に「無実の重忠を陥れた。」として稲毛重成、榛谷重朝を殺害した。
 建暦三(1213)年、三浦一族の支流で、従兄弟でもあった侍所別当・和田義盛が北条氏と対立。義村は身内として、盟友としてこれに合力すると約したが、直前で裏切って北条義時に義盛挙兵を密告した。
 北条義時は新任の三代将軍源実朝を要する等して政治力を持って巧みに大勢を味方につけ、それが為に和田義盛は敗死した(和田合戦)。そして義村はその後も北条氏との蜜月に努め、五年後の建保六(1218)年には裏切った和田義盛の後釜として侍所別当に就任した。

 建保七(1219)年一月二七日、実朝が甥の公暁(二代将軍源頼家の遺児)に殺された。
 公暁は実朝斬殺の首尾を乳母の夫である義村に伝える書状を使者に持たせて出し、義村は「お迎えの使者を差し上げます。」と偽り、実際には北条義時にこれを伝え、討手が差し向けられることとなった。
 公暁は返信の使者を待ち切れず、義村宅に行こうと塀を乗り越えようとした所で討手に殺害された。同年義村はこの功で駿河守に任官した。

 承久三(1221)年、承久の乱が勃発。
 義村は弟で、後鳥羽上皇の近臣だった胤義から決起を促す使者を送られたが、直ちにこれを義時に通報。幕府軍の大将の一人として東海道を登り、上皇方を破り、この戦いで胤義は敗死した。

 元仁元(1224)年、北条義時が病死。北条家では義時の後家・伊賀の方が実子である北条政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍に立てようとして伊賀氏の変が起こった。
 この変で義村は、政村の烏帽子親を務めた縁で伊賀の方・政村に加担しかけたが、北条政子が単身で義村邸を訪れての説得を受け、加担を思い止まった。

 嘉禄元(1225)年一二月、第三代執権・北条泰時によって新たな合議制の為に評定衆が設置されると義村は宿老としてこれに就任した。貞永元(1232)年、御成敗式目の制定にも署名。四代将軍・藤原頼経も三浦一族と親しくしたが、義村は北条家との蜜月状態を保ったまま延応元(1239)年一二月五日に逝去した。



裏切りとその背景 正直、二〇年を経ずして権力の座がころころ変わっていたこの時代、一族郎党を生き残らせる為、多少の裏切りは止むを得なかった面は確かにある。
 三浦氏は桓武平氏の血を引いていた訳だが、それは北条氏も和田氏も同様で、最終的には源頼朝に強く協力した北条時政も最初は伊豆流刑中だった頼朝の諌死を平家から命じられており、政子が頼朝と恋仲になった時は頑強に反対した。
 頼朝は政子以前に伊豆の豪族・伊東祐親の娘と恋仲になり、子供まで出来たが、祐親は一族郎党の為、平家の怒りを買うことを恐れて娘と頼朝の子(つまり自分の孫)を殺害している。それほど、一族郎党の命運をかけて誰に味方するか?という命題は難題だった訳だ(余談だが、三浦義村の母は伊東祐親の娘である)。

 かようにこの時代、氏族関係や血縁関係は複雑で、ある意味骨肉の争いは戦国時代以上にひどかった。それゆえ、義村が従兄弟である和田義盛を裏切ったことも、鎌倉幕府内における三浦氏の地位安定・一族郎党生き残りを重んじての決断だったと見るなら格別の非難には値しないかも知れない。
 ただ、事の是非とは別の視点で薩摩守が個人的に注目したのは三浦義村の過剰とも云える北条氏への「忠勤」振りである。

 初期に迷いがあったとはいえ、北条時政はいざ決断した後は徹底的に頼朝に随身し、頼朝死後は北条家が将軍の命運も左右出来る力を持ち、結果的に鎌倉幕府=北条氏政権と云える一時代が築かれた。
 それゆえ、時政・義時に徹底的に随身した義村には人や時流を見抜く目が有ったと云える。ただ、その事を考慮に入れても、梶原景時誅殺の中心人物的役割を果たし、和田義盛への合力を約束しながら土壇場で裏切り、公暁による源実朝暗殺には北条義時と並んで黒幕的な匂いがプンプンとしており、世渡り的に北条氏への随身を重んじたとしても、「何故そこまで?」との想いが拭えないのである。

 何せ、実質的に鎌倉幕府を支配したとはいえ、北条氏は他の有力御家人と本来は同格なのである。
 頼朝死後、若い二代将軍の源頼家が暴走するのを懸念して一三人の有力御家人による合議制を取ったのも、正しく機能するなら適切な処置で、「合議制」なら北条氏による独裁は否定されている。
 だが、程なく頼家が病に倒れていたとはいえ、時政達は頼家が頼りとした岳父・比企能員(一三人の有力御家人の一人でもあった)を攻め滅ぼし、そのどさくさに頼家の子・一幡まで殺される有様で、その事実にキレた頼家を返り討ち的に伊豆の修善寺に押し込め、やがては暗殺するほど、北条一族は好き勝手やる力を持っていた。

 確かに畠山重忠、梶原景時、比企能員、和田義盛、と北条氏と対立した氏族は族滅に追いやられている。だが、義村の合力が無ければ諸氏も簡単には滅ぼされなかった様にも思われる。
 北条時政が最終的には娘婿である源頼朝にすべてを賭けた様に、三浦義村もまた北条氏(特に義時)にすべてを賭けていたのなら、徹底した随身振りも「初志貫徹能力」と見れるのだが、この男に野心は無かったのだろうか?

 話はそう単純ではないと思う。
 義村は梶原景時を討つことで、侍所別当の地位を追われていた従兄弟の和田義盛を復位させることに成功していた。和田合戦において当初の約束通りに義盛に随身して北条氏を打倒し得ていれば、幕府内にてかなりの高位に就けていた可能性は大きい。
 実際には逆の選択をしたことで義時から厚く信頼され、この泰村の代には三浦氏は北条氏に次ぐ勢力となっていた。単純に賭けに勝てば高位を得られたが、賭けに敗れれば待っていたのは族滅である。

 その一方で、義村は妻が公暁の乳母を務めたり、弟が後鳥羽上皇に仕えていたり、義時・政子の異母弟政村の烏帽子親を務めたり、晩年には四代将軍藤原頼経に信頼されていたり、と義時以外の権威・勢力ともパイプを持っていた。
 義時・泰時に隙があれば、北条氏に取って代わろうとしていた可能性は充分にあったと思われる(実際に、伊賀氏の変においては政村方に味方しかけた)。結果的に義村が義時の懐刀に徹したのも、義時が有能で隙が無かったからと考えられる。

 三浦義村とは、あちこちにコネクションを持ちつつも、勝てない喧嘩はせずに、味方するときには徹底的に味方する男だったのかも知れない。
 単純な強者に阿り、諂うだけの男なら、義時・泰時はもとより、傀儡将軍にされていた藤原頼経から信頼されることも無かっただろうから。



裏切りの報い 三浦義村自身はあちこちにコネクションを作りながらも結果として最高権力一族となった北条得宗家と上手く付き合い、三浦氏を幕府内において北条氏に次ぐ勢力となる氏族としての地位を築いて生涯を終えたと云える。

 だが、結果として三浦氏は時代である泰村の代に宝治合戦に敗れ、族滅に追いやられた。泰村は北条泰時の娘を妻としており、時の執権北条時頼も北条氏に次ぐ勢力である三浦氏を危険視したものの、三浦泰村の穏便な引退で済ませたかったとされており、族滅の責任を義村に帰するのは何ぼ何でも無理があるとは思っている。
 結局、将軍の権威が脆弱過ぎた鎌倉幕府内にあって有力御家人間の対立・政争は宿痾の様なもので、北条家にしてから支族間の争いは日常茶飯事だった。ただ、北条氏の人々は内紛を繰り返しまくっても、一族以外の外敵に対しては見事に一致団結した。
 そんな北条家から見た三浦一族は、味方にしては頼もしいが、油断のならない一族と移ったのだろう。

 そんな猜疑の目を生んだのも、義村の過剰な北条氏への傾倒が招いたと云っては酷だろうか?
 様々な身内や権威を裏切っての協力は嬉しくても、それが自分にも向きかねないと思えば誰しもが猜疑の目を向けかねないのは古今東西共通かも知れない。

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令和三(2021)年七月一日 最終更新