第拾壱頁 嬉しい「裏切り」と嬉しくない「裏切り者」

 長田忠致三浦義村赤松満祐陶晴賢三好義継朝倉景鏡穴山梅雪木曾義昌小山田信茂明智光秀松田憲秀小早川秀秋赤座直保小川祐忠朽木元網脇坂安治、と都合一六人の裏切り者を考察した。
 人選は例によって薩摩守の独断と偏見である。中には敢えて取り上げなかった者もいる。例えば、上杉謙信を裏切って武田信玄に仕えた大熊朝秀は取り上げていない。彼が謙信を裏切った経緯が詳らかではないこともあるが、武田家が滅亡に際して御親類衆・股肱の重臣・国人衆が次々と武田勝頼から離反する中、大熊は最後まで勝頼に従い、天目山の露と消えた。故に薩摩守は彼を「裏切り者」のイメージで見れなかった。

 また、閲覧者の方々の中には本作の人選に反対意見の方もいるだろうし、「何故松永久秀を取り上げない?」と云う方々もいられるだろう。
 正直、本作を作り始めた段階では三好義継の頁に松永も加える予定だった。ただ、永禄の変において松永は現場に居なかった。息子が義輝襲撃に加わっていたので松永が裏で糸引いていた可能性はなくも無いのだが、その後の三好三人衆と松永との三好家内紛からも元から謎の多い松永の実像が掴み難く、義輝弑逆に関してその正確な関わり具合が把握出来なかったことを白状しておきたい(苦笑)。

 そしてそれ以上に最後に主張しておきたいのは、薩摩守は彼等を決して好き好んで裏切りに及んだ卑劣漢と見ている訳ではないと云う事である。
 勿論裏切られた側から見れば裏切られた事実は消しようなく、八つ裂きにしても飽き足りないことだろう。だが、単純に「裏切った」と云っても、切羽詰まったもの、なし崩し的なもの、一族郎党の立身出世(または滅亡回避)を睨んだもの、日和見を「裏切り」と断じられたもの、周囲に巻き込まれたものと様々である。
 極論で語れば、豊臣家からすれば江戸時代に大名として存続した者は(将軍家を含め)全員「裏切り者」である(苦笑)。

 ともあれ、「裏切り」は間違いなく世に悪名を残す。例え、裏切って着いた相手が天下を取ったとしても、だ。それゆえ本作で採り上げた者達が好き好んで「裏切り」というリスクを冒し、「裏切り者」との汚名を被ったとは思わないし、タイミングの違いで「裏切り」の汚名を回避しただけで、彼等と同じ穴の狢だったものも多いだろう。
 最後に、歴史が現代に残す教訓であることに鑑み、「裏切り」を総括したい。
考察壱 結局、裏切り者は信用されない
 表題にも書いたが、「敵を裏切って我に味方する」と云う行為は嬉しくても、「簡単に主君を裏切った様な奴」を身近に置きたくないのが人情である。関ヶ原の戦い後の論功行賞を見れば分かり易いだろう。
 第拾頁でも触れたが、土壇場で西軍を裏切った赤座直保小川祐忠朽木元網は戦勝に貢献し、直後の佐和山城攻めで功を立てたにもかかわらず減封・改易の憂き目を見た。唯一人事前に誼を通じていた脇坂安治だけが所領を安堵されたが、それでも東軍参加諸将の多くが大幅加増を受けたことを考えれば、報われたとは云い難い。東軍大勝利に貢献しても、「裏切り者」は賞したくないことが見て取れる。

 また、関ヶ原の戦いで大幅加増を受けた者とて家康は内心歓迎していた訳ではない。この戦いでは福島正則、加藤嘉明、黒田長政、細川忠興といった豊臣恩顧の諸大将が数多く家康に味方し、彼等は二〇万石以上の大大名への出世を果たした。
 だが、大きい石高を得たとはいえ、彼等が配置されたのは九州、四国、中国地方で、江戸屋大坂からは遠い位置に置かれた。つまり石高上は「出世」でも、配置上は「左遷」だったのである。
 時代は異なるが、石田三成が三〇万石大名への出征を蹴って秀吉の側近くに仕えることを望んだり、会津に二〇万石を与えられた蒲生氏郷が「例え五万石でも畿内にいたかった…。」とこぼしたり、と云った例を鑑みると、家康が豊臣恩顧の大名を厚遇したように見せて遠くに置いたのは明らかである。
 そして豊臣恩顧の大名達の多くは家康から秀忠の時代に改易や小大名への減封に追いやられている…………。

 詰まる所、「裏切った」と云う「前科」を持つ者は、「また裏切りかねない……。」との偏見を持たれ、その視線に苦しまねばならないのである。その視線が妥当か不当かは別として。

 そう云えば、うちの道場主がかつて彼氏持ちの女性に横恋慕した際にも、「彼氏を裏切って俺のものになって欲しいが、簡単に男を捨てる女でも困るなあ………。」上手くいく可能性なんて皆無に等しいのに零していたことが………ぐええええええええぇぇぇぇっっっ……(←道場主の楢山バックブリーカーを食らって悶絶している)。



考察弐 単純比較してはならない「忠義観」
 「武士の忠義」と云うものを見るときに気をつけなくてはならないのが、現代人である我々はともすれば江戸時代に成立した武士道を通してその忠義を見る傾向が強いと云う事である。
 誤解を恐れずに物申せば、江戸時代に成立した武士道は泰平の世で徳川家への忠誠を浸透させる為に学問的に作られたもので、生き馬の目をくりぬく様にして生きねばならなかった平安末期から戦国時代にはそんな綺麗事が通じない時代でもあった。

 また、「主君に対する忠義」と「御家に対する忠義」は必ずしも両立しない。陶晴賢の頁を見て頂ければその辺りが詳らかになると思われるが、泰平の世で忠義観が確立した江戸時代でさえ、主君の言動が「幕府に睨まれて改易を招きかねない。」と見れば家臣は主君を座敷牢に押し込め、幕府に対して主君の「病気による隠居」を願い出ることもあった。
 つまり、主家や藩の為なら主君を裏切ることを辞さなかった訳だが、誰がこれを間違いと云えるだろうか?
 勿論本当に病気に陥った主君を強引に隠居させて藩の実権を私せんとした奸臣も実在したから、この辺りは本当に難しい。

 まあ、こんなことを云い出せば「裏切り者」の百人が百人とも自らの言い分をまくしたてるだろう。そしてそれは忠義に限った話ではなく、国家間でも企業でも様々な約定を反故にする際には「盗人にも三分の理」が展開される。
 ただ、その云い分が正しくても「裏切られた」と見做した側が「云い訳すんな!」といって聞く耳持たなければ冷静な話し合いが通用しなくなるから厄介である。
 ただ、後世の立場から冷静に分析出来る現代の我々は歴史上の「裏切り」を冷静に見て例えその「裏切り」を非難するにしても様々な視点から見るべきものを見て、同情すべきを同情して、教訓としたいものである。



考察参 信じたくはある、「良心の呵責」
 前述した様に、「裏切り者」とて好き好んで裏切ったり、「裏切り者」の汚名を着たりした訳ではないと薩摩守は思っている。と、同時に裏切りに対する「罪悪感」、「良心の呵責」は持っていたと信じたい。
 現代でも死刑に処される、死刑を求刑されるような凶悪犯の中には自らの反抗に一片の罪悪感も抱かない輩がいるから、そういう良心の呵責を持ち合わせていない者もいるにはいただろうけれど、一族郎党を抱えた彼等の身の上がそんな軽いものだとは思わない。

 例えば、長田忠致は源頼朝に、小山田信茂は織田信忠に降伏した直後に嫡男を連れて出頭している。これは嫡男を人質に差し出すことで今度こそ裏切らないことを意思表示しているともとれるし、自分と嫡男は殺されても一族郎党は助けて欲しいとの意思表示をしているともとれる。
 つまりはそれだけ「裏切り」は後ろめたさがあり、「二度とはしたくない」と云う想いもあったのだろう。まあ結局、長田小山田も殺されたのだが………。

 本作では取り上げなかったが、前述した大熊朝秀が武田勝頼に殉じたのも、一度上杉謙信を裏切った自分が世間からの「裏切り者」との視線を振り払うために「二度と裏切れない。」とも想いもあっただろうし、謙信への裏切りへの後ろめたさや罪悪感もあったかもしれない。

 また主君を弑逆した陶晴賢三好義継も自分が大将になった訳ではなく、自らが手に掛けた主君の身内を新たな主君として立てている。例えそれが世間体を気にしたポーズ的なものだったとしても、裏切りが卑劣で、その悪名が生半可なことでは払拭し得ないことを承知していればこそだろう。

 まあ、単純に考えれば主君に対する謀反に対する罰は基本死罪である。
 武士の世ではない現代でも企業や社長を裏切れば基本は懲戒解雇で、下手をすれば背任罪で訴えられる。これは企業戦士への死刑に等しい(他社に再就職する際にも、「会社を裏切りかねない奴」と見なさればまず採用されない)。
 また私事だが、道場主は中学生時代に大切な物をクラスメートに隠され、物凄く困ったことがあった。それまで友と見ていた者からの仕打ちを「俺は裏切られた気分だ!」と詰ったが、詰られた相手は、軽いいたずら程度にしか考えていなかったか、喧嘩に弱い道場主が怒っても怖くないと見たものか、怒りを嘲笑で受け流しやがった。道場主はこ奴等が今後何かを頼って来ても絶対に助けないことにしている。

 かように「裏切り」とはそれまでの信頼が大きければ大きい程激しい怒りを呼び、重大な禍根を残す。中にはその怒りを意に介さない者もいるだろうけれど、多くの者はそうだとは思わないし、人としてそうは思いたくない。
 話をフィクションにまで広げれば仮面ライダーやデビルマンだって裏切り者だが、多くの者は彼等を悪く云わないだろう(笑)。また『三国志』で二人の様子を殺した呂布が「裏切り者の」の代名詞のように云われつつも、然程悪く見られず「最強武将」として憧れられる面の方が強いのも、呂布の裏切りが「第三者の入れ知恵」によるものだったこともあり、裏切りが必ずしも個人の不忠だけで為される訳でもない。

 ただ、本作を閲覧頂いた方々には、「裏切り」が如何に悪いイメージが伴うかということと、その悪行に潜む諸事情とを理解する目を持つことで、「裏切り」の無い、または「裏切り」が少しでも少なくなる世を為す一助になればこれにすぐる喜びはないと思う次第である。


前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和三(2021)年一〇月一日 最終更新