第拾壱頁 『関ヶ原の戦い』其の弐と赤座直保・小川祐忠・朽木元網・脇坂安治………備えの筈が裏切り加担

裏切り発生事件関ヶ原の戦い
裏切った場所美濃国関ヶ原
裏切り年月日慶長五(1600)年九月一五日
裏切り者指名赤座直保(?〜慶長一一(1606)年)
小川祐忠(?〜?)
朽木元網(天文一八(1549)年〜寛永九(1632)年八月二九日)
脇坂安治(天文二三(1554)年〜寛永三(1626)年八月六日)
裏切り対象 大谷吉継を初めとする西軍
裏切り要因 戦況不利を悟って
悪質度
因果応報徳川幕府治世下での冷遇
裏切り者略歴 人数が多いから本当に「略歴」にしないとな………それにしてもこいつらを取り上げるのはこれが最初で最後だろうな(苦笑)。

 五十音順にまずは赤座直保。赤座家は朝倉氏の家臣で、赤座直則の子に生まれたが生年は不詳。歴史に初めてその名を出すのは天正元(1573)年八月の朝倉氏滅亡時で、織田信長に降伏し、本領を安堵された朝倉家臣の名を記した書状に直保の名が見られる。
 その後は最初朝倉義景の後釜として越前守護代となった桂田長俊の下で信長に仕え、九年後の本能寺の変で父・直則が討ち死にしたことで家督を継ぎ、羽柴秀吉に仕え、本領を安堵された。

 天正一八(1590)年の小田原征伐では石田三成の麾下として参戦し、武蔵にて岩槻城、忍城の攻略に参加た。戦後の論功行賞で従五位下備後守に任官、越前今庄二万石に加増され、大名となった。
 但し、地位的には小早川秀秋や堀尾吉晴の与力で、独立の大名ではなかった。

 やがて時は流れ、慶長五(1600)年に三成が徳川家康追討の兵をあげると直保大谷吉継の軍に属して関ヶ原の戦いに臨んだ。
 本当に「略歴」だな(苦笑)。


 続いて小川祐忠。生年は不詳で、近江の土豪・小川伯耆守入道の子として誕生した。通称は左平次孫一郎
 最初は浅井長政に仕えており、その配下として織田信長軍と戦ったが、元亀二(1571)年八月下旬に、織田方の武将・佐久間信盛、中川重政、柴田勝家、丹羽長秀率いる軍勢が押し寄せると敵わないと見て人質を差し出して降伏した。
 降伏のタイミングが良かったのか、信長から旗本に取り立てられ、土佐守の官位も賜り、息子も右馬允に任じられた。
 また天正七(1579)年の安土城築城時に瓦奉行を命じられ、この頃から信長より茶会を免許された。

 天正一〇(1582)年六月二日、本能寺の変で織田信長が横死すると、明智光秀の傘下に入り、山崎の戦いに敗れると羽柴秀吉に降伏して助命され、清洲会議にて北近江が柴田勝家の所領となること今度は勝家傘下となり、勝家の養子・柴田勝豊の家老となった。
 だが柴田家は翌年の賤ヶ岳の戦いに敗れ、勝豊が大谷吉継の調略を受けて秀吉に下ったため、今度は秀吉についた………………降ってばかりだな、コイツ(苦笑)。

 ただ、大局を読む目が有ったと云えなくもなく、秀吉直臣となってからは小牧・長久手の戦い小田原征伐に参戦し、率いた兵は多くなかったが、寡兵なりに活躍した様で、天下統一後秀吉から正式に従五位下土佐守に叙任された。

 その後も文禄の役では、名護屋留守陣の将の一人として肥前名護屋城に在陣。朝鮮へ渡海もし、伊達政宗や浅野長政を救援する功を立て、戦後朝鮮で討死した池田景雄の後を受けて伊予今治七万石を与えられ、国分城を居城とした。
 茶以外にも当代一流の画師と親交を持ち、政治面でも太閤検地に尽力した。

 ただ、小大名の域は出ないまま(それが悪い訳じゃないが)大谷吉継麾下として関ヶ原の戦いに挑んだ。


 続くは朽木元網である。
 天文一八(1549)年 、朽木晴綱を父に、飛鳥井雅綱の娘を母として室町幕府幕臣に生まれた。幼名は竹若丸、通称は弥五郎
 天文一九(1550)年、父の戦死を受けて二歳で家督を継承。朽木家は天文二二(1553)年には三好長慶に京都を追われた将軍・足利義輝に頼られてこれを匿う程将軍家から信頼されていたが勢力としては弱小で、幼少の元網に何かが出来た訳でもなかった。
 永禄九(1566)年に浅井長政が近江高島郡に侵攻してくると浅井家に従ったが、元亀元(1570)年に松永久秀の説得を受けて、長政に攻められて窮地に陥った織田信長の京都撤退(朽木越え)を助け、後に信長の陪臣となった。
 ただ信長には代官を罷免される等、厚遇されず、本能寺の変後羽柴秀吉に仕え、天下統一後にようやく朽木谷二万石の小大名とされ、豊臣姓を下賜されたと云うから、秀吉とはかなり馬が合ったのだろう。

 そして豊臣方の一小大名として石田三成の挙兵に参加し、大谷吉継麾下にて関ヶ原の戦いに参陣した。


 最後は脇坂安治である。
 天文二三(1554)年、近江国浅井郡脇坂庄(現・滋賀県長浜市小谷丁野町)で脇坂安明を父に、田付景治の妹を母に長男として 誕生。
 最初は浅井長政に仕えたが、天正元(1573)年に浅井家が滅亡したことで織田家に属し、明智光秀の与力として、後に長浜城主となった木下藤吉郎に自ら頼み込んで家臣となった。

 秀吉の配下としては播磨の三木城、神吉城攻め等にて従軍して功を挙げ、小禄ながらも昇進を重ねた。
 そして天正一一(1583)年、賤ヶ岳の戦いで活躍したことで、福島正則や加藤清正等と共に「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられ、知行も山城国に三〇〇〇石、と大幅な加増を受けた。
 その後も小牧・長久手の戦い九州征伐小田原征伐に活躍して着実に石高を増やした。殊に加藤嘉明・九鬼嘉隆等と共に水軍衆の指揮官を務めたことで、兵糧輸送や海上攻撃を担う貴重な人材の一人に数えられた。

 さすがに朝鮮出兵では李氏朝鮮の水軍名将李舜臣に大敗したが、輸送や陸上戦に活躍し、秀吉の戦術転換命令によって防戦を担ってからは李舜臣の攻撃を何度も阻んだ。
 慶長の役でも、讒言で一時解任されていた李舜臣を欠いていたとはいえ、朝鮮水軍を壊滅させ、朝鮮出兵自体が失敗に終わったにもかかわらず三〇〇〇石を加増され、三万三〇〇〇石の大名となった。

 そして秀吉が薨去すると石田三成が徳川家康を除かんと画策し出した。
 慶長五(1600)年、家康が豊臣恩顧の諸大名を率いて上杉景勝征伐に出ると安治は次男・安元を参陣させようとしたが、三成等に妨害され引き返させた。この際、安治は人を介して家康から安元を引き返させたことへの了解と戦いに向けて防備を固める指示を安元宛ての書状で受けた。
 安治自身は家康に与するつもりだったが、三成の監視が厳しうくやむなく約一〇〇〇名の兵を率いて西軍に付いた。

 かくして四将は石田三成が声を挙げ、総大将に就任した毛利輝元、副将に就任した宇喜多秀家に従う形で、大谷吉継麾下にて松尾山麓に赴いた。



裏切りの背景 前頁でも触れているが、関ヶ原の戦いにて赤座直保小川祐忠朽木元網脇坂安治大谷吉継の指揮下で松尾山に陣取る小早川秀秋が裏切った際の備えとしてその麓に配置された。

 開戦当初、直保祐忠は北国口で、元網安治もその付近で戦っていたが、各々小勢しか率いていないこともあってか、最前線での激戦には加わらず、遊撃部隊に近かった。

 そして昼過ぎ、小早川秀秋が東軍に寝返えるとある程度このことを予測していた吉継四将に小早川勢迎撃を命じ、一時はこれを押し返す程善戦した。
 だが、一万六〇〇〇の大軍にいつまでも抗し得ないと見たものか、直保祐忠元綱安治は次々に小早川勢に呼応して東軍に寝返り、大谷勢に攻めかかり、そこから西軍は壊滅に向かった。

 殊に安治は元々家康寄りで、藤堂高虎より工作を受けており、四将の中でも「賤ケ岳の七本槍」名高い安治の機を見た寝返りは西軍にとって大きな痛手で、平塚為広・戸田勝成の両隊が壊滅し、武運の尽きたことを悟った吉継は小早川秀秋を「人面獣心なり!」と罵り、ハンセン病で爛れた自分の首を敵の手に渡さぬよう側近の湯浅五助に命じて自害した。
 かくして一〇万以上の兵がぶつかり合い、数的にも互角だった故に当初は数日間に渡ると思われた関ヶ原の戦いは、西軍再度の裏切り連鎖によって僅か半日で惨敗した。



裏切りの報い 四将に対する世間の視線は冷たかった。
 寝返りの珍しくない時代で、四将が取り立てて性格・評判の悪い人物と云う訳でもなかったが、やはり裏切りのタイミングが卑劣なものと見られた。
 関ヶ原の戦いにおける最大の裏切りは小早川秀秋のそれなのは衆目の一致するところだが、その小早川勢に対する防波堤を務めていた筈の四将が形勢不利と見るやお追従の様に裏切った様がかなり姑息なものとして世人の目に映った。
 また、小早川秀秋並びに四将によって死に追いやられた大谷吉継の最期が名高いことが四将の裏切りを更に悪名高いものにしている。

 関ヶ原の戦いが終わり、参戦諸将を労う場にて徳川家康が次に石田三成の居城・佐和山城を落とすべしと説くと、四将は小早川秀秋同様、西軍からの裏切りを払拭するかのように佐和山攻めに名乗りを上げた。と云うか上げざるを得なかった。
 ちなみに大河ドラマ『葵−徳川三代』におけるこのシーンで、家康(津川雅彦)が四将の佐和山攻めを承認すると最初から東軍として戦っていた将の誰かが、「成程、豆を煮るには豆殻を燃やしべしですな。」と皮肉り、東軍諸将が一斉に嘲笑して四将が項垂れていた。
 そして必死にダークイメージ払拭に尽力したものの、彼等への処遇は彼等の苦悩の決断に報いているとは云い難いものだったの個々に見ていきたい。


 まず赤座直保だが、事前に味方することを明らかにしなかったため、土壇場での裏切りを卑劣な保身と見られ、戦後の論功行賞で徳川家康にその功を認められず、逆に所領を没収された。
 要するに改易になった訳だが、同年一〇月前田利長の家臣となり加賀へ赴き、松任城代として七〇〇〇石を拝領した。
 そして大名として返り咲くこともなく、前田家家臣として格別の活躍をするでもなく、慶長一一(1606)年(1606年)、越中大門川の氾濫を検分する為濁流を渡河していた際に川中に落馬して溺死した。正確な没月日も享年も不明で、ただ「関ヶ原で裏切りの尻馬に乗って裏切った。」との汚名だけが残った(一応、子孫は永原と改姓して前田家家臣として存続した)。

 続いて小川祐忠は、配下の小川甚助の郎党樫井正信が平塚為広を討ち取る戦功を挙げたにもかかわらず直保同様、事前に通じていなかったことで、領内悪政(詳細不明)、嫡男・祐滋が石田三成と昵懇だったことを理由に改易となり、京に隠棲するも程無く没したとされている。
 ただ、士分を失いつつも子孫は巧みに生き延びた、
 嫡男・祐滋は京にて萬屋の屋号で両替商となり成功を収め、寛文年間に二条陣屋を預けられるほどの豪商となった。
 そして祐滋とは別系の曾孫・俊広が名鷹匠として名を馳せ、二代後には小石川養生所の開祖として高名な小川笙船を輩出。笙船の血筋は幕末まで代々養生所肝煎を務めた。
 子孫の活躍を見るに、小川祐忠及びその血統は武士には向いていなかった、正確には文化人として生きる方が向いていたと云う事だろうか?

 そして朽木元網もやはり通款を明らかにしていななかったことで咎められた。ただ九五九〇石への減封に留まったため、まだマシな方だった。
 その後の元網はこれといった活躍も見せず、戦国の世が完全に終わった元和二(1616)年に剃髪して、牧斎と号し、寛永九(1632)年八月二九日に地元・朽木谷にて享年八四歳で天寿を全うした。
 詳細は不明だが、活躍はせずとも泰平の世まで長生きし、三代将軍家光の代に末子の稙綱が家光の信頼を受けて大名に返り咲いたので、それなりに悠々自適で安定した日々を送っていたのではなかろうか?

 そして四将の中で唯一の例外と云えたのが脇坂安治だった。
 同様に寝返った他の三将と異なって、戦前から家康に好意的だったことを明らかにしていた為、「裏切り者」ではなく「当初からの味方」と認められ、家康から所領を安堵された。
 かなり後だが、慶長一四(1614)年九月に伊予大洲藩五万三五〇〇石に加増・移封され、同年の大坂の陣には参戦しなかったが、安元が参戦し、戦功を挙げ翌年に安治は安元に家督を譲って隠居。その後は大洲を去って京都西洞院に住み、寛永三(1626)年八月六日に享年七三歳でこの世を去った。


 最後に少し四将を弁護しておきたい。
 確かに裏切りは卑劣だし、小早川秀秋の寝返りで戦局が決定的になった段階で尻馬に乗る様に裏切った様はとても感心出来ない。
 ただ、下記の二点は考慮する必要がある。それは四将に限った話ではないが、関ヶ原の戦いが、

 ・立身出世を狙う最後の好機だった。
 ・東軍への随身を鮮明にし辛い状況にあった。

 と、云う事である。

 まず前者だが、関ヶ原の戦いによって天下の実権は徳川家康に移り、周知の様に家康は三年後に征夷大将軍に任ぜられて江戸に幕府を開き、二年後に秀忠に将軍職を譲ることで徳川家の武家政権世襲が名実ともに天下に明らかにされた。
 そして関ヶ原の戦いから一四年間、戦らしい戦はなく、戦国最後の戦いとなった大坂の陣にしたところで豊臣家が謙虚に立ち回っていれば起こらなかった可能性があった(その確率はかなり低いと見ているが)。
 つまり、関ヶ原の戦いで天下が定まり、戦の無い世が到来すると出世する機会を永遠に失うことが有り得た。そうなると、二万〜七万石の小大名だった四将にとっては大谷吉継指揮下で万一の備え的な部署で大手柄を立てられる可能性も低いとあっては、改易のリスクを冒してでもイチかバチかに駆けるしかなかったのではなかろうか?
 また、四将は元々が越前・近江の土豪や地侍で、浅井・朝倉家が織田信長に滅ぼされるに及んで信長や秀吉に仕えるようになった。そんな中、秀吉は初めて城持ち大名となり、加藤清正や福島正則と云った子飼い以外の部下を持つこととなり、近江出身者が起用された。
 そしてその近江出身者には石田三成が、大谷吉継が、そして四将がいた。似たような出自、ほぼ同じタイミングで秀吉に仕え出した三成・吉継があからさまに秀吉に可愛がられ、中堅大名に、豊臣政権の重職に出世していくのに四将が嫉妬していた可能性は充分にある。
 殊に関ヶ原の戦いではその三成が主導し、その吉継麾下に配置されたのである。幼君が継いで間もない豊臣家を徳川家がひっくり返すならそこに味方して同僚(それも年下)から顎で使われる日々から脱したいと考えたとしても不思議ではない。

 続いて後者だが、四将や小早川秀秋以外にも、徳川についたものは決して少なくない。
 関ヶ原に参陣する前から東軍には福島正則、加藤嘉明、黒田長政といった秀吉に可愛がられて出世した大名が何人も参加し、三成が打倒家康の檄を飛ばしても応じなかった。  また吉川広家や小早川秀秋の様に事前に調略を受けていた者もいた。だが、一方で家康に味方したい気持ちを持ちつつも、それが出来ない状態に追い込まれたいた者も少なくなかった。

 大名達も馬鹿ではない(と云うか馬鹿では務まらない)。
 今現在大身のみでいても、天下の趨勢が転べば富貴の身が簡単に失われるのは歴史の常である。それゆえ、秀吉死後に徳川の世が来るであろうと見越して家康と親しくするのに務めた大名は多かった。
 藤堂高虎、黒田長政、細川忠興、山内一豊辺りはクールに時代の趨勢を睨んで早くから家康に味方していた。また豊臣恩顧の大名の中にも、家康の力なくして世は治まらないと見て、加藤清正・福島正則・前田利長の様に秀頼を守る為と信じて家康に味方した者も少なくなかった。

 だが、この動きを石田三成もまた先刻承知だった。自分に人望が無いことを吉継から諭されていた三成は家康と同じ五大老の毛利輝元を総大将に、宇喜多秀家を副将に立て、家康打倒を秀頼からの正式命令とするや、大坂屋敷にいる諸大名の妻子を人質に取った。
 この渦中で細川忠興の妻・ガラシャが命を落としたのは有名で、加藤清正の母の様にうまく逃げおおせた者もいたが、多くの大名妻子は人質とされ、掛かる状況下では下手に家康に味方出来なかったのは想像に難くない。

 実例を挙げると、薩摩の島津家は降伏して秀吉に従った経緯からも元々秀吉に好意的でなく、親徳川派だった。島津義弘は早くから家康と誼を通じ、会津征伐に向かった家康から京都の留守を託された伏見城の鳥居元忠に加勢を申し出たが、元忠の方で島津を信用せず鉄砲を撃ち掛けて追い払ってしまったのだから、島津が西軍に加わらざるを得なかったのも無理なかった(それゆえ関ヶ原の戦いでも最後の敵中突破迄島津はほとんど動かなかった)。
 まあ、薩摩守が元忠の立場でも島津勢を城内に入れなかったと思うから難しい話なのだが………。

 脇坂安治の例を見れば分かり易いが、前述した様に安治は元々息子を会津征伐に参加させる予定だったし、それが叶わず引き返した際にも家康にその旨を伝え、了解を得ていた。
 そして戦後四将の内三人が戦場での活躍を無視した様に改易・減封に遭った中、所領を安堵された。三将安治の違いは事前に誼を通じていたか否か、つまり「最初から味方する意志があった。」と見做されたか、「御都合的に裏切って味方した。」と見做されたかだったと云って良かろう。

 謂わば、タイミングが命だった訳だが、それが簡単に読めれば誰も苦労しないだろう。
 もっと単純に云えば、一〇〇〇〜二五〇〇程しか自前の兵を率いていなかった四将が一万六〇〇〇の大軍で松尾山山上から逆落としに襲ってくる小早川勢を前にして、玉砕を避ける為に寝返ったとしてもおかしくなかった。
 裏切りタイミングの悪さによる卑劣さと、小大名としての生き残りに苦悩した四将への同情とを、天秤に掛けた際にどちらに傾くは人それぞれだと思うが、単純でないことは確かである。


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令和三(2021)年一〇月一日 最終更新