第壱頁 小西行長………ともに刑場の露消えて

友情DATA壱
名前小西行長(こにしゆきなが)
生没年永禄元(1558)年〜慶長五(1600)年一〇月一日
身分肥後南半国領主・宇土城主
石田三成との交流期間天正六(1578)年頃〜慶長五(1600)年
友好要因同僚


概略 永禄元(1558)年に泉州堺の商人・小西隆佐の息子に生まれた。
 商用で各地を行き来する中、備前の宇喜多直家に見込まれ、その家臣となり、中国征伐の為に三木城にやって来た羽柴秀吉の元に使者として訪れたことでやがて秀吉の家臣となった。

 商人の出であったことから最初は舟奉行として秀吉に仕え、海戦などに活躍し、天正一三(1585)年に小豆島一万石を与えられたところから羽柴(豊臣)政権下の大名としての人生が始まり、天正一五(1587)年に秀吉が九州を平定し、翌天正一六(1588)年に肥後の国人一揆を鎮圧した功で肥後南半国二〇万石の大名となった(北半分は犬猿の仲だった加藤清正に与えられた)。

 宇土城を本拠とし、自身熱心なクリスチャンだったことから、国人領主の勢力が強くなかなか従わない天草地方の一揆鎮定に手を焼きつつも、教会を保護し、キリスト教文化を積極的に取り入れた。ちなみに北半国を治めた清正は熱心な日蓮宗の信者で、肥後は北半分に仏教徒が、南半分にクリスチャンが集中した。分かり易いな(笑)。

 程なく、秀吉が朝鮮出兵を始めると行長は清正と共に先鋒となって渡海。娘婿で対馬領主だった宗義智を副将に進撃し、平安道方面(現在・朝鮮民主主義人民共和国の首都・平壌がある)を進軍した。
 周知の通り、文禄の役では日本軍は当初連戦連勝の快進撃を続けていたが、娘婿や宣教師達を通じてある程度は海外情勢を知っていた行長は明の制服を無謀と考えており、早期から密かに朝鮮側との交渉による和睦を模索していた。
 そのため、一時は漢城(ハンソン。李氏朝鮮の王都)にまで退いたが、やがて腹心の内藤如安を明に使わし、明使・沈惟敬との交渉で和睦交渉の段取りを付けたが、その内容は双方の最高権力者を誤魔化すものだった。
 要するに、明皇帝には、日本を統一した豊臣秀吉が日本国王として冊封されるのを望んでいると吹き込み、秀吉に対しても明が降伏してきたと吹き込んだ。
 名護屋城で明からの使者を上機嫌で迎えた秀吉の前で、臨済宗の高僧・西笑承兌が冊封状を読み上げた。行長は事前に内容を偽って読むよう承兌に頼んだのだが、承兌は馬鹿正直にそのまま読み上げてしまった(苦笑)。
 勿論、これに対して秀吉は明皇帝と行長の両者に激怒。主君を欺かんとした罪で行長も斬られるところだったが、前田利家、淀殿、三成、そして他ならぬ承兌が助命嘆願し、引き続き慶長の役への出兵を命じられた(ちなみに同様に皇帝を欺いたことがバレた沈惟敬は処刑された)。

 程なく、慶長三(1598)年八月一八日に秀吉が薨去したことで朝鮮出兵は終結。李舜臣の妨害に苦戦した行長だったが、一二月に帰国する事が出来た。
 秀吉薨去後、遺言により家康が政務を担うと、寺沢広高と共に行長は家康への取次役を立場的に決して家康と敵対してた訳ではなかったが、慶長五(1600)年に家康が会津の上杉景勝討伐に向かった際には上方での留守居を命じられた。
 結果、三成が家康と同じ五大老の毛利輝元を総大将に、宇喜多秀家を副将に「内府ちがいの条々」を大義名分として家康打倒の挙兵を行うと行長はこれに呼応し、六〇〇〇の兵を率いて関ヶ原の戦いに臨んだ。

 関ヶ原では笹尾山に陣取る三成隊の南方で主に東軍の田中吉政、筒井定次隊と交戦したが、これまた周知の通り、松尾山に陣取っていた小早川秀秋の寝返りを契機に西軍は次々に崩れ、行長隊も総崩れとなり、戦線離脱した。
 美濃の菩提山中に逃れた行長は自分を匿ってくれた関ヶ原の庄屋・林蔵主に自分を捕縛して褒美を貰うように勧めたが、林はこれを受けなかった。クリスチャンとして自害問選択肢を持たない行長は、林に累が及ばぬよう、関ヶ原の領主・竹中重門の家臣に投降し、捕縛された。


三成との日々 石田三成小西行長は共に関ヶ原の戦いに敗れて軽視したことから何かとセットで語られるイメージがある。両者とも一面で武将であったことは間違いなく、戦場での槍働きも確かに存在する。
 だが、両者を結び付ける者はやはり九州征伐朝鮮出兵が大きいだろう。

 後世、「太閤の大早計」とも揶揄された朝鮮出兵だったが、結果はどうあれ、これを企画した豊臣秀吉が馬鹿である筈はなく、自身取っても諸体験で、日本史的にも征服を目的とした戦争を海外に吹っ掛けるのは極めて稀な話ゆえ、秀吉は秀吉で万全を期した。
 肥前名護屋に国内では最前線となる基地として名護屋城を築き、加藤・黒田・島津・立花・小早川といった西日本、取り分け九州の大名をメインに動員した訳だが、上述した様に、元商人として交易経験があり、朝鮮半島への玄関口である対馬の領主・宗義智を娘婿とする行長を秀吉が最重要キーパーソンと見ていたのに疑いはないだろう。
 そしてその戦いに主に軍監として従軍したのが三成だった。後々三成が豊臣家中に武断派をメインに多くの敵を作っていた要因として、彼の性格もあるが、この朝鮮出兵における軍監としての立場も大きなものがあった。簡単に云えば、いつの世も御目付け役は嫌われると云ったところだろうか。
 殊に、三成行長九州征伐の直後から、三成は降伏・臣従を申し出る九州諸大名・国人衆の秀吉への取り成しを担い、行長は「難治の国」と呼ばれた肥後の統治に尽力し、前々から同僚で主に政務面で協力し合っていた二人は更に補完し合った。
 また、「無謀」の二文字がちらつく遠征にあって、三成行長文禄の役序盤の快進撃中から慎重に事を進めており、軍事的勝利を有利な材料として、有利な講和を模索し続けていた(後世、世界の超大国を相手とした日露戦争太平洋戦争も早期の対象を基にした有利な講和での終結を目論んで開戦に踏み切った。ただ後者はそれに失敗し、退くに退けない泥沼の中で犠牲者を増やし続けた)。

 ただ、そんな二人にとって邪魔者が存在した。加藤清正である。
 恐らく秀吉は、共に肥後半国の領主で、犬猿の仲である行長と清正を良い意味で手柄争いさせることで戦局を有利に運ばんとしたのだろう。行長は半島西北部の平安道を、清正は半島東北部の咸境道を明国境近くまで進軍した訳だが、清正は朝鮮に二王子を捕虜にし、退くことを知らなかった。
 一方で、清正自身も講和の道を探っていた。その詳細は不詳だが、三成行長と清正とでは明に対する認識も好戦度も大きく異なり、それでなくても講和を持ち掛ける者が二人いては相手国も戸惑うだろう。
 結果、三成は「清正が勝手に「豊臣清正」と名乗って、明と交渉した。」と秀吉に報告。激怒した秀吉は清正に帰国と謹慎を命じ、清正は三成行長を大いに恨んだ。このことが(程度はどうあれ)秀吉・前田利家死後の武断派と文治派の対立激化に繋がったのは想像に難くない。
 三成行長が強固なパートナーシップを戦場と講和で発揮したことが、清正を筆頭とする武断派諸将との対立まで強固なものにしたのは何とも皮肉な話であった。


友好の終焉 早い話、同年同月同時刻に石田三成小西行長が共に処刑されたことで終わった。
 慶長五(1600)年一〇月一日、京都六条河原にて三成行長は同じく捕らえられていた安国寺恵瓊と共に斬首され、前日に切腹した長束正家の首とともに晒された。
 斬首に際し、僧侶による十念と呼ばれる極楽往生を祈り最後の念仏を授けると云う儀礼があるのだが、三成行長はこれを拒んだ。ただ、その理由は各々異なった。
 有名な話だが、捕縛・連行される際、護衛の兵に白湯を求めた三成は「無いから、代わりに。」と出された干し柿を「痰の毒」と云って拒んだ。周囲の兵は程なく死ぬ運命の三成が食べ物を気遣う様に失笑したが、三成自身は大志を持つ者は最後の最後まで望みを捨てず、好機に備えて体を大切にすると述べた。恐らく十念を拒んだのも、ぎりぎりまで死を避けんとしてのものだろう(と云っても命乞いした訳ではないのだが)。
 一方で行長が十念を断ったのは単に信仰の問題である。クリスチャンとして仏教式を受け入れなかっただけで、ポルトガル王妃から贈られたキリストとマリアのイコンを掲げて三度頭上に戴いた後に斬首されたと伝わっている。

 行長死後、三成の領地・佐和山が徳川家康の重臣・井伊直政に与えられた様に、行長の領地・肥後南半国は北半国を領有していた加藤清正に加増という形で与えられた。
 当然小西家は改易となり、家臣達はちりぢりとなったが、行長の影響を受けてか、クリスチャンが多く、彼等の多くが大坂の陣で浪人衆として大坂城に入り、信仰の為に打倒徳川の戦いに身を投じ、島原の乱で一揆軍の中核を担った者もいたと云われている。


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令和八(2026)年七月一三日 最終更新