第弐頁 真田信之………誰しもが知っていた昵懇交友
友情DATA弐
名前 真田信之(さなだのぶゆき) 生没年 永禄九(1566)年〜万治元(1658)年一〇月一七日 身分 信濃上田藩初代藩主 石田三成との交流期間 天正一三 (1585)年頃〜慶長五(1600)年 友好要因 姻戚・近所付き合い
概略 初めに、真田信之は当初、真田家の通字である「幸」の字を用いた「信幸」と名乗っていましたが、関ヶ原の戦い後に徳川家への忠誠を誓う証として、「幸」の字を捨てて名を「信之」と改めました。
本作では石田三成との関係に重点を置く主旨から、時系列に合わせてその時点での名を重んじて「信幸」と「信之」を書き分けます。読んでいてややこしいかもしれませんが、悪しからずご了承願います。
信州上田の国人衆から武田信玄に仕えた真田幸隆の孫で、幸隆の三男・昌幸の嫡男として永禄九(1566)年に生まれた。幼名は源三郎。
源三郎誕生時、真田家の家督は伯父で祖父・幸隆の嫡男だった信綱が家督継承者に内定していて、父の昌幸は名跡の絶えていた武藤家を継いでいた。しかし、天正三(1575)年の長篠の戦いにて信綱と昌輝(幸隆次男)が共に討死したため、昌幸が真田姓に復し、信幸は信綱の娘(清音院)を娶り、父と共に真田家の嫡流を継ぐこととなった。
幼少時は弟の信繁(幸村)共々、武田家に対する人質として甲府に常駐したが、これは昌幸が人質でありながら信玄に可愛がられたのと同様、勝頼に対する客分に近く、天正七(1579)年に勝頼の子・信勝と共に元服した。
だが、天正一〇(1582)年三月一一日に武田家は滅亡。信幸は直前に勝頼が信濃に逃れた場合に備えて父や弟と共に信州上田に赴いたことで奇しくも滅亡の巻き添えから逃れられた。とはいえ、旧武田領は織田・徳川、上杉、北条の取り合う地となり、昌幸・信幸・信繁父子は周囲の大名勢力に対し、時に臣従し、時に離反し、必死になって生き残りを図った。
やがて豊臣秀吉が関白となると、大名同士の私闘を禁じる惣無事令を関白の名の下に発令し、命令に従わせることで全国の諸大名に臣従を要求し、真田家も上杉景勝を通じて秀吉に臣従することで天正一七(1599)年に徳川家の与力大名となった。
いざ徳川与力となると家康は信幸を気に入り、重臣・本多忠勝の娘・小松姫を養女として信幸に娶せ、親徳川色を強めた(このため、それまで正室だった清音院は側室に格下げとなり、真田家にあって影の薄い存在となった)。
慶長三(1598)年八月一八日に豊臣秀吉が薨去し、秀吉の遺言で五大老筆頭として政務を担っていた家康は慶長五(1600)年、上洛命令に従わない上杉景勝を謀叛人と見做し、会津討伐の兵を挙げ、真田父子もこれに従軍した。
会津討伐の進軍中、石田三成は毛利輝元、宇喜多秀家を担いで家康打倒の兵を挙げると、大坂城下に残っていた従軍諸将の家族を人質とした。これを知った家康は下野小山にて評定を開き、去就は自由であると宣言した。
この評定は黒田長政を介して家康の内意を受けていた福島正則が、妻子に後ろ髪引かれずに家康に味方して「君側の奸」として三成を討つべし、と叫ぶと他の諸将も次々に同意・呼応した(←道場主「日本人やなぁ…(苦笑)。」)。
だが、そんな中、真田父子だけは違った。昌幸は三成と家康のどっちが勝っても真田家が存続できるよう、家康と縁の深い信幸をそのまま東軍に残し、自身は大谷吉継の娘を娶っていた次男の信繁と共に会津征伐軍を離脱し、信州上田に戻った。
周知の通り、昌幸・信繁は関ヶ原の戦いに向かう徳川秀忠軍を上田で足止めして武名を上げるも、天下分け目の戦いは東軍の大勝利となり、信幸は恩賞を擲って岳父・本多忠勝と共に父・弟の助命を嘆願した。
辛うじて父と弟が高野山への配流で助命されるとは名前を信幸から「信之」と改めて、以後の人生は徳川への忠勤に務めた。
関ヶ原の戦いから一五年後、大坂の陣に信繁が豊臣方として大坂城に入城したが、この時は信之も弟の為に何かすることはなく、元和厭武の四三年後、信之は万治元(1658)年一〇月一七日に九三歳の長命を全うするまで真田家の安定に尽くし続けた。
三成との日々 まず、真田信幸に限らず、真田家そのものが石田三成と昵懇だった。
まず諸説あって断言出来ないのだが、昌幸の妻で、信幸・信繁の実母だった山手殿の出自が、宇多頼忠の娘で、三成の妻と姉妹だったとの説がある。これが史実なら昌幸と三成は義兄弟で、信幸にとっても三成は義理の叔父となる。
山手殿の出自に関する深堀りはここでは行わないが、この縁の有無がどうあれ、三成と真田家が昵懇だったのは疑いようがなかった。
天正一八(1590)年、豊臣秀吉が天下統一における最後の戦い・小田原征伐の兵を起こすと、真田家も従軍を命じられ、昌幸・信幸は三成の忍城(現・埼玉県行田市)攻めに加勢した。共に戦場に立ったのはこれが最初で最後となったが、両家の親密さはここから更に増していった。
北条家が滅び、天下統一が成ると、関白となった豊臣秀吉は主に聚楽第で政務を執ったため、諸大名は京都に屋敷を持ち、そこに詰めた。そして石田屋敷と真田屋敷は隣同士で、身内でもあったのだから、両者が親密にならない筈がなかった。
必然的に真田家からの申し次は三成が務め、三成と信幸の間で交わされた書状は現存するだけでも一四通確認されている。
この数が多いのか少ないのかは歴史学的には素人故に断じ難いのだが、関ヶ原の戦いで勝者となった徳川家にあって、「最も敵対した石田三成と仲が良かった」という証拠は好ましい存在ではないと思われる。かと云って、謀略をやり取りしたものならともかく時候の挨拶や冠婚葬祭に関する祝意やその返礼といった社交的な文書まで処分する必然性は感じない。
それ故に「一四通」が多いのか少ないのかは分からないが、数がカウントされていること自体、親密さとして認識されていればこそだろう。
そして運命の関ヶ原の戦いに際して、一般に三成と上杉景勝の間に密儀があったとされているが、これに絶対的な確証が確認されていない一方で、三成が昌幸に共に家康を撃つよう呼びかけた密書(の複製)が存在する。
慶長五(1600)年七月末日の日付で送られたもので、複製が名古屋市瑞穂区にある名古屋市秀吉清正記念館に所蔵されている。「複製じゃないか、証拠にならんよ。」と云われれば返す言葉はないので、密書の実在を断言はしないが、複製とはいえ、その様なものが現代に至るまで残されること自体、両家の親密さが当時から周知だったと云えよう。
友好の終焉 真田信幸が石田三成と袂を別ったのは、小山評定の直後である。
会津に発った真田父子はその後三成と顔を合わせることはなかった。
信幸は徳川秀忠軍に従軍し、昌幸・信繁は上田城に籠った。
そしてこの上田城での攻防故に、秀忠と信幸は九月一五日の関ヶ原の戦い本戦に遅参した。二一日に捕らえられた三成が大津城で家康と引見したのは二四日でその一週間前に三成の父・正継、兄・正澄、妻(つまり信幸の叔母)も佐和山城にて自害して果てていた。
秀忠が家康に合流したのが二〇日なので、もしかすると三成と信幸は大津城で顔を合わせているかもしれないが、三成が敗残の身を晒された城前で福島正則・小早川秀秋に悪態を突き、黒田長政から介抱を受けた話がある一方で、信幸と何か会話したという話は聞かない。
そして一〇月一日に三成は刑死し、戦後処理を受けて昌幸・信繁が上田城を出たのは一二月になってからだった。掛かる状況では変な勘繰りを受けないためにも、父や弟の助命の為にも、信幸が下手に三成と接触するのは好ましくなかったと見るべきだろう。
ともあれ、関ヶ原の戦い終結時をもって、信幸は三成の宿敵・徳川家康に随身する人生を邁進し、ある意味父や弟とも義絶し、戦後は名を「信之」と改めて新たな人生を歩み始めた。勿論そこに刑死した三成の姿はなかった。
ただ、これは立場上の話で、心情では間違いなく三成との断交は本意ではなかったことだろう。それは関ヶ原の戦い後の戦後処理における信之の父や弟に対する動きを見ても明らかだろう。
上述した様に、昌幸は東西どちらが勝っても確実に真田家が存続出来るように、身内で東西に分かれた。これは決して珍しい例ではなく、水軍で有名な九鬼氏でも、父・嘉陸は西軍につき、子・守隆は東軍についた。細かく見れば小大名程数多くの例がある。
そして信幸は岳父・本多忠勝との縁を重んじる形で、徳川方についた訳だが、このやり方は一面有効だが、確実に悲劇を内包する。
どっちが勝っても、勝った側に血筋を残せるということは、身内の中に確実に敗北者を出すことを意味する。勿論、身内のこと故、勝った側の身内は可能な限り敗者側の身内に寛大な処置が下るよう尽力する。
だが、話は甘くない。総大将にしてみれば、敵味方の別れた場合、敵対した者はある意味、「やむを得ず」ではなく、「覚悟の上」で敵対したのだから、戦後処置は過酷になり易い。
時代は異なるが、保元の乱において、崇徳上皇について大敗した源為義は、後白河天皇についた長男・義朝が「自らの恩賞を擲っても助命してくれる筈。」と期待して、天皇方に降伏したが、下された処分は、「義朝による打ち首」という過酷極まりないものだった。
実際、家康は昌幸と信繁を処刑せんとした。勿論これに対して指を咥えて見ている信幸ではない。信幸改め信之は、岳父・本多忠勝を通して、恩賞の辞退と徳川家への徹底した忠誠を誓って父と弟の助命嘆願を行った。
当初、これを受け付けまいとした家康だったが、これに対して忠勝が、「昌幸・信繁を処刑するなら自分と婿(信之)を討ち果たして欲しい。」と述べたことから、さしもの家康も死を一等減じて高野山への配流とした云われている。これを薩摩守は、「作り話」とは云わないが、「一種の出来レース」と思っている。
「真田に暗君なし。」と云われるように、真田家の人間は概ね有能で、敵に回せば恐ろしいが、味方に付ければ頼もしい。昌幸・信繁を処刑するのは簡単だが、そうなるといつかは徳川を裏切りかねない真田の人間を残すことになる。かといって通らない理由で処分を甘くすれば信賞必罰に不公平が生じ、新たな反逆の根を残すことになる。
余談だが、上述した九鬼家でも、守隆が信之同様、西軍についた父・嘉隆の助命を必死に嘆願し、許されたのだが、赦免の使者が到着する前に嘉隆は切腹して果ててしまっていた。
かように真田家・九鬼家以外にも、宇喜多家や島津家に対しても難渋を極めた戦後処置及び論功行賞だったが、結果、真田家は信之が中堅大名としての家格を保持し、昌幸・信繁に対しては、「死を一等減じる」として、高野山への配流で助命された。
ただ、高野山における配流生活は過酷だったらしく、昌幸は何度も信之に対して配流生活を赦免してくれるよう幕府への要請を懇願したが、遂に昌幸・信繁の配流は赦免されず、昌幸逝去時に信之がその葬儀を行いたいと申し出たことも却下された。
この間、豊臣家自体は徐々に権威と石高と頼りになる味方を削られ続けつつも、表向きは豊臣秀頼と千姫(家康孫娘、秀忠長女)と婚姻を結び、秀頼を右大臣に推挙するなど友好的に遇された。それが可能だったのも、関ヶ原の戦いが「石田三成の独断専行」とされたからで、かかる状況下では、信之も心情はともかく、表立って三成との友誼を露わにすることは出来なかったことだろう。
となると、状況によって伏せられた面が多いのも考えられ、石田三成と真田信幸の交流は現代目に見えている以上に昵懇だったことも考えられるのである。
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令和八(2026)年八月日 最終更新