We love 三成

 「石田三成?誰それ?」等という歴史マニアは一人もいないと信じる。日本史に然して興味の無い人でも、戦国時代を通して学んだり、豊臣秀吉か徳川家康の伝記を通して見たり、すれば嫌でも石田三成の名は出て来る。
 近代以前、主君か親でもなければ人の名前を実名で呼ぶのは非礼であった史実に照らして、大河ドラマなどで、「石田治部」との呼ばれるの見たことのある方も多いだろう(殊に関ヶ原の戦いを舞台にしたストーリーでは徳川家康も「内府(内大臣)」と呼ばれることが多い)。

 石田治部少輔三成の名を知ってから令和八年(2026)年七月一五日現在で四〇年以上の月日が流れているが、この人物程、様々なイメージを抱かされた者もそうはいない。
 道場主が三成の名を知った頃は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の、所謂、三英傑のメインとした史観が強く、家康が最終勝者となったことで、秀吉死後に家康と敵対した者は三成に限らず敗者・愚者・悪玉としてのカラーが強かった。
 殊に天下人としての家康の地位をほぼほぼ確立させた(というと若干語弊があるが)関ヶ原の戦いにおいて敵軍を主導した三成は「徳川の天敵」に近い扱いを受け、人望が厚くなかったことから、「秀吉に媚を売って出世した成り上がり者」との強いイメージで描かれることが多かった。まあ、「成り上がり者」なんて云い出したら、秀吉を初め、秀吉によって大名の取り立てられた者はほぼ全員そうなるのだが(苦笑)。

 かかるイメージが強過ぎたためか、家康を初めとする三成と敵対した者・不仲だった者が主人公となる歴史漫画ではかなり腰巾着カラーの強い、生意気を(文字通り)絵に描いたような描かれ振りだった。
 中でも、個人的に『伊達政宗』(原作:山岡荘八、漫画:横山光輝)で描かれた三成は特にひどいと思う。


 秀吉の命で、伊達政宗をからかう準備を命じられた際の三成

 七将襲撃事件で匿ってくれた家康に日頃の落ち度を指摘されてぐうの音の出ない三成

 秀次事件で豊臣秀次の妻子が次々と斬首されるのを冷厳に見守る三成
(©原作:山岡荘八、漫画:横山光輝。※本来拙房では自作の画像か、自分で撮影した画像しか使用しないのを原則としていますが、今回はイラストによるイメージを云うものを見て頂きたくて、他者の策を転載しました)

 さすがにこれは酷いと思ったものか、果てまた情報社会の発展による価値観の多様化によるものか、三成の実像を見定め、擁護する声はそれなりに増えた。勿論三成以外にも悪し様に書かれて来た人物が見直されたり、逆に英雄視・聖人視されていた人物の欠点が注目されたりするようになったのだが、そのことを考慮に入れても、この石田三成ほど毀誉褒貶が激しく、書き手の好き嫌いで良い様に書かれる時・悪し様に書かれれる時の落差の激しい者は珍しい。
 三成本人には甚だ失礼だが、豊臣秀吉・秀頼政権下にあって、彼の地位や石高は決して高い方ではなかった。勿論低い方でもなかったが、地位は五奉行の第四位で、石高は近江佐和山一九万石であった。
 関ヶ原の戦いを「徳川家康VS石田三成」と見る向きも多いが、単純に両者を比較すれば、三成の治部少輔(従五位下)・一九万石・五奉行四位に対し、家康は内大臣(正二位)・二五〇万石・五大老筆頭である。
 警察で云えば巡査長が警視長に、資産家で云えば年商一九〇〇万円が年商二億五〇〇〇万円に、企業で云えば係長が専務に喧嘩を売る様なものである。大谷吉継ならずとも、「勝負にならない、辞めておけ。」ということだろう。
 勿論、三成は戦を呼び掛けた発起人で、主導した者ではあったが、総大将ではなかった。吉継の助言がなくとも自分を嫌う者が多く、総大将の器ではないことを自覚しており、総大将には家康と同じ五大老の毛利輝元、副将にやはり五大老の宇喜多秀家を立て、これまた五大老の上杉景勝とも通じていた。
ただ、総大将であった筈の輝元が余りにも腰砕けだったために、未だに「三成が事実上の大将」と見る向きは強い。

 個人として、大名として、石高・地位・人望・家中の陣容のいずれを取ってもとても家康の抗し得た人物とは云えなかった石田三成。ある意味、「敵ではなかった。」と云えた彼が何故に日本史上にこれ程の知名度を残しているのか?それは取りも直さず、彼が好かれる時は物凄く好かれ、嫌われる時は徹底的に嫌われたからだろう。
 相手がいる以上、好かれるのも嫌われるのもその要因は様々で、一概にその是非は語れない。ただ、三成ほど両極端なのも珍しい。単純に語れば、「秀吉から寵愛され、家康に敵対したから。」ということになるだろう。つまり置かれた立場が良くも悪くも彼のイメージを強めたと云えよう。

 単純な者の見方をすると石田三成という漢、主君や直臣や領民には好かれた。
 豊臣秀吉から如何に寵愛されたかは今更云うに及ばずだし、加藤清正や福島正則と不仲だったことも、清正や正則の主君の寵愛を巡る嫉妬が全く無かったとは云えまい。
 また彼が治めた佐和山での統治における評判は今でも人気が高い。関ヶ原の戦い直後、東軍はそのまま駒を佐和山に進め、同城を陥落せしめたが、その際に接収した城内の金銀が少ないことに東軍は一様に驚いた。
 生前三成は「主君から頂戴した費用はすべて主君の為に使うべきであり、自らの懐に入れるべきではない。但し、全部使うからと云って、足りずに借金するのは馬鹿のやること。」と云っていた。現代の政治家に聞かせてやりたい台詞である。
 つまり三成は、秀吉・秀頼から預かった佐和山からの税収をすべて(と云うと語弊があるが)佐和山の為に使ったのである。三成統治時代の佐和山の住民は間違いなく幸福だったことだろう。
 そして、頑固でも上に忠実、配下に優しい主君である三成に島左近を初めとする家臣達も必死になって随身した。

 故に本作では、石田三成と友好関係を築いた人物を、彼と同じ立場だった豊臣政権下の大名達に絞り込んで列記することで人が如何にして愛し愛されるかを考察し、戦国の世における人望及び、人間に対する毀誉褒貶の激しさに注目したい。


第壱頁 小西行長………ともに刑場の露消えて
第弐頁 真田信之………誰しもが知っていた昵懇交友(工事中)
第参頁 島津義久………意外な仲介者(工事中)
第肆頁 佐竹義宜………襲撃から救ってくれた恩人(工事中)
第伍頁 直江兼続………似た者同士の「成り上がり者」(工事中)
第陸頁 大谷吉継………説明不要な程の友情(工事中)
第漆頁 津軽為信………恩義に報いて遺児を引き受け(工事中)
第捌頁 何故に愛され、嫌われるのか?(工事中)


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令和八(2026)年七月一七日 最終更新