第捌頁 何故に愛され、嫌われるのか?
人間である以上、すべての人に好かれるのは難しい。特に個性が強いと、波長や気脈の合う人間には好かれる一方で、どうしてもそのものを嫌う者は出てくる。稀に誰にも嫌われない者もいるにはいるが、その者は毒にも薬にもならない影の薄い人物か、八方美人化するのに物凄く優れた人物か、非の打ち所の無い人格者だろう。
そのことを差っ引いても石田三成に対する毀誉褒貶は激しい。本作では三成に好意的に付き合った人物をピックアップしたが、様々な角度から三成とその友人を見て、一貫して変わらなかったのは「好かれるのも嫌われるのも極端な奴だ。」との印象だった。
上述した様な例外を除けば、誰だって誰かに嫌われ、誰かに愛される。人格や能力や立場によってその度合いに違いはあっても、「全くの〇」、「全くの一〇〇」は極めて稀である。三成の場合、度合いはどうあれ、愛されるのも嫌われるのも極端だったが、もう少し正確に云えば、嫌われた事績も、好かれた事績も歴史上にて人一倍目立っていると云えよう。
周知の様に、三成は天下分け目の戦い・関ヶ原の戦いに敗れ、豊臣家中の内紛を引き起こした大罪人として処刑されて生涯を終えた。つまり(事実上の最高権力者が誰であれ)豊臣家が統べる世に在って、三成は「悪人」とされた。家康の指揮下で東軍として戦った諸大名は「秀頼公の名をかたる君側の奸」として三成に刃を向けた。戦後、秀頼も淀殿も三成を罪人として見做さざるを得なかった。
そしてその三年後に徳川家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開くことで豊臣家の風上に立った。その二年後に息子・秀忠に将軍職を譲ることで徳川の天下が世襲されることを世に示した。多くの大名は現実路線を踏まえて家康・秀忠に従ったが、豊臣家はこれを主家からの政権奪取と見た。
当然徳川側でもそんな声が上がったり、徳川家に面従腹背している輩が豊臣家を推戴して反逆したりすることへの懸念はあり、後々徳川の世が固まれば固まる程、徳川家に敵対した者はその名を貶められた。「その筆頭は石田三成」とするのは些か暴論だが、経歴的に「徳川の敵」と位置づけ、それを倒すことで徳川の世の正当化を図るには格好の相手だった。
単純に「嫌う者」と「好く者」の双方がいるという意味においては三成も普通の人間だったが、その極端性や目立ち方は歴史、引いては人間というものを考察するのに格好の研究対象である。
三成が歴史的敗者となってしまったのは動かし難い史実だが、好悪が極端になり易い人物だけに、今一度この最終頁で三成の愛され振り、嫌われ振りを考察し、歴史と人間を正しく見ることへの一助となれれば幸いと考える次第である。
嫌われる石田三成
本作では「好かれた石田三成」を採り上げたが、歴史漫画やドラマを見れば多くの人々に嫌われる三成の例が枚挙に暇なく出てくる。特に「三成を嫌った者」の代表選手と云えば、福島正則を上げる人が多いのではないだろうか?
何せ豊臣家中の分断を抑えていた前田利家が亡くなった途端に七将襲撃事件が起きたことから、「三成って、相当武断派に嫌われていたんだなあ。」と思ったり、「朝鮮出兵時の軍監振りってそんなにひどかったのか?」と思ったりした方々も多いことだろう。なまじ、豊臣秀吉の寵愛が深かっただけに、妬みが嵩じて、「君側の奸」と見做された側面も多いことだろう。
個人的には秀吉は三成を寵愛はしたが、普通の話だと思っている。当然だが、三成だけが秀吉に寵愛された訳ではなく(何せ秀吉は人たらし、多くの人々を寵愛することで忠誠を得た)、何かと気が利き、職務熱心で、忠誠心も熱い臣下とあれば普通に可愛がられるだろう。「隣の薔薇は赤い」じゃないが、主君から寵愛されていても、別の寵愛されている仲間を妬むのは現代のサラリーマンの世界でも普通に存在する話である。
ともあれ、三成が嫌われた要因をチョット箇条書きにして見たい。
・主君との距離の近さ
・生真面目過ぎて融通が利かない
・槍働きが少ない
・異例のスピード出世
・職務上の嫌われやすさ
まず、「主君との距離の近さ」だが、小姓、取次、奉行といった職務柄、三成が誰かを秀吉に讒言するのは容易である。三成でなくても、彼ほど秀吉に近侍した者を相手に、讒言を恐れてその顔色を窺う者は少なくないだろう。
冒頭で示した『伊達政宗』に登場した三成は何かにつけて秀吉に対して政宗を悪し様に云っていた。そこへ指して、イラストまであんなこましゃくれた面相に掛かれればイメージは悪化の一途を辿ることだろう。勿論これは原作の山岡荘八、漫画担当の横山光輝を悪く云いたいのではない。すくなくともあの漫画では三成は完全に嫌われ者に描かれており、ストーリーとイラストレーションがそれを完璧にしているのである。
「石田三成を『伊達政宗』で初めて知った。」という人であれば、かなり悪い第一印象を抱くことだろう。
次いで、「生真面目過ぎて融通が利かない」だが、これが最大の欠点だろう。こんなエピソードがある。ある日、毛利輝元が領内で収穫された巨大な桃を秀吉に献上したことがあったが、それに対応した際に三成が、「御厚意には感謝いたしますが、季節外れの物を大量に食されて関白殿下のお体を崩されるようなことがあってはなりませぬ故にお持ち帰り下され。」といって、突き返してしまったのである。
さすがにこれはアウトだろう。秀吉の健康を気遣うのは全然悪くないが、何もその場で突き返さずとも、受け取っておいて毒見役が食してから秀吉に献上させることだって出来ただろうし、最悪、受け取っておいて密かに処分することだって出来ただろう。もしかすると三成には「季節外れの、関白殿下のお体を害しかねないものを献上させないようにする。」ということを目的とした前例作りの意図があったかも知れないが、輝元の面目は丸潰れ、とまでは云わずとも、好意に対する礼儀としては最悪である。三成の云い分や秀吉に対する心遣いを全否定するつもりは全くないが、それを優先し過ぎて、周囲のことを考えなさ過ぎと云われては反論出来ないだろう。
まあ、本人的には「例え嫌われても関白殿下のお体が大切。」となるのかも知れないが。
そして、「槍働きが少ない」や「異例のスピード出世」や「職務上の嫌われやすさ」だが、これは何も三成に限った話ではない。秀吉の日本史上稀有な出世物語の陰に隠れがちだが、秀吉の子飼い(例・加藤清正、福島正則)、長浜時代の新規召し抱え(大谷吉継、片桐且元)はその出自を考えれば日本史上かなりの異例出世、スピード出世を遂げている。
その中で、戦場で命を張って勲功を上げ続けてきた者が、銃後での文筆活動で出世した者を快く思わないのは古今東西ごまんとある話である。加えて、三成が従事した太閤検地や、朝鮮出兵時の軍監は、税が絡むことやお目付け役的な役割から何かと人に嫌われやすい職務である。
殊に朝鮮出兵においては、明との講和を進める為に、秀吉と明皇帝双方の顔を立てる為に秀吉にも伏せなければならないことが多く、このことで、「命がけの軍功を正確に報告されなかった!」として激昂した諸将も少なくなかった。
勿論、これらの職務は三成一人でやった訳ではなく、秀吉の天下統一事業の中で小西行長・増田長盛・長束正家・黒田官兵衛・大谷吉継等も従事した職務でもある。それでも三成一人が目立ち、悪し様に云われるのも、多分に、江戸時代以降に「神君家康公の前に立ちはだかった者」と見られたことの影響が大きいと考えるべきだろう。
愛される石田三成
一方で、本作で採り上げた様に石田三成と親しくした者は決して少なくない。勿論職務上仲良くしたり、秀吉に対する臣従過程でご機嫌取りをしたりする必要から表面上親しくした者もいたと思われるが、義務的な付き合いから本当に親しくなった者も採り上げている。
殊に数々の友情エピソードを持つ大谷吉継は云うに及ばず、七将襲撃事件から三成を救った佐竹義宣、徳川の天下に在って三成の遺児を匿い、面倒を見続けた直江兼続、津軽為信等は損得勘定を越えた友情を為していたと云い切って良いだろう。
また、本作では友情をテーマに考察したが、主君の秀吉に寵愛され、佐和山の領民に慕われ、関ヶ原にて島左近を初めとする部下が最後まで奮戦した。秀頼に忠誠を尽くす三成に対して養子とはいえ、秀吉遺児の立場にあった宇喜多秀家、結城秀康も三成を嫌ってはいなかった。
秀家は関ヶ原に立て副将として獅子奮迅の激闘を展開し、秀康は七将襲撃事件後に隠居を命じられた三成を佐和山まで警護して送って行ったことがある。
各頁にて検証済みな気もするが、三成の愛される要因も箇条書きにして見たい。
・取次役としての頼り甲斐
・生真面目で身分・経歴で人を重視・軽視しない
・妥協なき忠誠心
・私心私欲の無さ
まず「取次役としての頼り甲斐」だが、豊臣秀吉に臣従、特に降伏に近い臣従を申し出るのに、第一印象は極めて重要で、それを取次役の三成が上手く取り成してくれるか否かは自身のみならず、家中の運命も左右した。
秀吉でされ、「成り上がり者」と見られていたのに対し、その家来に頭を下げなければならないのは大名にとって相当な屈辱である。もし三成が「虎の威を借る狐」の如き態度を取っていたら、取次成功に感謝はしても、その後親しくすることはなかっただろう。つまりは、後世に、面子を潰すことなく取り次いでくれた故に、佐竹義宣、直江兼続、島津義久、津軽為信はその後も三成と親しくしたのは明白である。
次いで、「生真面目で身分・経歴で人を重視・軽視しない」という点だが、これは三成も、彼の主君であった秀吉も「成り上がり者め!」と罵倒されたり、陰口を叩かれたりしてきた経験が少なからずあった故、自らの出世の為にも公平公正に人を見る目は養われていただろう。兼続などはその辺りが三成と意気投合する要因として大きかった。
名家の生まれの者にとっては「成り上がり者の陪臣」に頭を下げることに業腹な者も多かったと思われるが、逆に軽輩の出身者にとっては良き理解者だった事だろう。出自だけで云えば戦国末期など、先祖における身分の貴賎など玉石混合だった事だろう。
そして「妥協なき忠誠心」、「私心私欲の無さ」についてだが、あり得ない程の生真面目さに裏打ちされており、それ故に嫌われた面もあるが、やはりこれは三成の長所としての側面の方が大きいだろう。
関ヶ原の戦い後、伊吹山中で捕らえられた三成は大津城の城門前に敗残の身を晒されたが、これを揶揄する福島正則に一歩も退かず、土壇場で裏切った小早川秀秋はまともに顔を追わせられず、その態度に黒田長政は自らの陣羽織をは追わせて敗残の身を慰めた。
そしてその三成の居城・佐和山城が落とされた時、城内に財宝の類が見当たらないことに寄せての諸将は驚いたが、常日頃三成は、「主君から頂いた禄はすべて主君のために使うべきで、私するべきではない。だが、それで足りずに借金するのは馬鹿のやること。」と云っていた。本当に公平無私だったのである。出来過ぎとも云えるこの公平無私さはいつの時代の忠義観と照らし合わせても恥じるところは無いだろう。
他ならぬ徳川家康自身、関ヶ原の戦いのおける大義名分の為に「君側の奸」とした程には三成を嫌っておらず、彼の遺児を殺めず、最後の最後まで諦めずに自害しなかったことに対して「恥ずべきことではない。」と明言しているのである。
何故に両極端なのか?
結論から云えば、「長所は短所」であり、「想いが強過ぎた。」ということだろう。愛情も過ぎれば嫌悪感を与えてしまうことがあるが、石田三成は特に生真面目で、そこに妥協が無さ過ぎたから嫌われる時はとことん嫌われ、好かれる時はとことん好かれた。そして彼の長所は周囲から尊敬され、重宝される一方で、裏目に出れば物凄く嫌われる要因となった。
加えて、少し上述した様に、程なく到来した徳川家の世に在って、「神君家康公の前に立ちはだかった者」とされ、悪玉役が振られたことが悪名度を大幅にアップさせてしまった。
豊臣秀吉死後に遺児・秀頼を託されながら、事の善悪はどうあれその遺児を滅ぼした家康・秀忠にはそれを「止むを得なかった。」とする歴史背景が求められた。こういう場合、敵対した者が悪し様に描かれるのは世の常、プロパガンダ史書の常だが、それでも三代将軍・徳川家光と血の繋がった秀頼(実の従兄)、淀殿(実の伯母)にはまだ手心が加えられた可能性がある。
となると、関ヶ原の戦いで石田三成が、大坂の陣では大野治長辺りが悪役を振られた(そうすることで秀頼と淀殿には翻弄された被害者としての側面を振り易い)。いずれも歴史上の大事件で「悪の首魁」とされては(と云い切るには語弊があるが)、悪し様に罵られ易いし、これを見直そうとする者からは反動の大きさもあってかなり称揚されやすくなる。
石田三成に限らず、誰かに対する好き嫌いは人それぞれである。そして好きな人間にも嫌いな面はあり、嫌いな人間にも認めるべき点・尊敬すべき点があるのは普通のことで、歴史を見るにおいては長所も短所も公平公正に見なければならないだろう。
薩摩守自身、自分の源頼朝嫌いは些か異常だと思っているので(苦笑)、自分自身の公正公平なものの見方を失わず、何より閲覧者の方々に公平に見て頂く為にも、自分の頼朝嫌い、信長嫌い、後醍醐天皇嫌いは明言し、悪し様な表現を差っ引いて見て頂くことを呼び掛けている(苦笑)。
想いの強さと、大事件への立ち合いから、良きにつけ悪しきにつけ実態以上に大袈裟に見られがちな男・石田三成。この人物に学ぶことは多々あるが、それ以上に、「人を正しく見る。」と云うことに関してもこの人物学ぶことは多いだろう。
ただ、個人的には悪し様に云われて来たことが多く、長かったことから、石田三成という人物、少しばかり持ち上げても罰は当たらないと思のである(笑)。
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令和八(2026)年一〇月七日 最終更新