第漆頁 津軽為信 恩義に報いて遺児を引き受け
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名前 津軽為信(つがるためのぶ) 生没年 天文一九(1550)年一月一日〜慶長一二(1607)年一二月五日 身分 従五位下・右京亮、四位下・右京大夫、初代弘前藩主 石田三成との交流期間 天正一三(1585)年〜慶長五(1600)年 友好要因 臣従仲介、独立支援への恩義
概略 拙房初登場となる、戦国大名としては些かマイナーな人物である(←道場主「青森県民の皆様、ごめんなさい。」)。だが、そんな人物が石田三成死後も縁が続いたのだから歴史は面白い。
津軽為信は、その姓が示す様に陸奥の地方国人だった。天文一九(1550)年一月一日に生まれた。幼名は扇。長じて弥四郎と名乗った。出自には諸説あり、実父が誰かもはっきりしない。
一般に陸奥の豪族・南部氏の支族であった久慈氏の出とも、大浦氏の出とも云われている(←津軽氏の史料と南部氏の史料で食い違いがあり、はっきりしない)。
ともあれ、史料上確実なところとしては、永禄一〇(1567)年に大浦為則の養子となり、大浦為信を名乗り、大浦城主となった。
本作を作る為に殆ど初めて注目したが、この為信、なかなかの奸雄である。そう云い切るには異論のある方多いとは思うが、少なくとも南部氏から見れば反逆者・簒奪者に等しい。
元亀二(1571)年五月五日、弱冠二二歳にして南部宗家である三戸南部家当主・南部晴政の叔父にあたる石川高信を自害に追い込んだ。
次いで天正五(1576)年、大光寺城の城代・滝本重行を攻め破り、翌天正六(1578)年七月、浪岡城を落城させ、浪岡御所・北畠顕村を追いやった。
ただ、室町幕府体制下でそこそこの名家であった北畠氏の支族である浪岡北畠氏を滅ぼしたため、安東氏との関係が悪化。安東・南部・浪岡氏勢力との戦いである六羽川合戦が起きた。
為信は、高信から津軽郡代を継いだ次男(石川信直の弟)の石川政信に重臣として仕え、その際に主君に取りいる為、妹・久を政信の愛妾に差し出したが、その後も同役を讒言で追放に追いやり、天正一八(1590)年三月には、妹夫婦を宴席にて毒殺し、津軽地方を強奪したとも云われている(←後々の小田原参陣とのタイミングから、南部氏における史料の誤りとする説もある)。
天正一三(1585)年三月、油川城を攻略し、外が浜一帯を制圧。更に田舎館城を落した。そしてこの頃、中央では羽柴秀吉が織田信長の事実上の後継者としての地位・立場を盤石化し、為信は早々に秀吉への接近を目論んだ。
三成との日々 天正一三(1585)年七月一一日、羽柴秀吉は元関白・近衛前久の猶子となったことを経て関白宣下を受け、豊臣秀吉となった。秀吉は関白の名の元に大名間の私闘を禁じる惣無事令を発することで全国の大名を関白である自分に臣従せしめんとした。
勿論すべての大名がすぐに従った訳ではなかったが、大浦為信は秀吉に関する情報を最上氏から得ており、早々にこれに近付くことが得策、と考えて上洛せんとしたが、天正一三(1585) 〜天正一六(1588)年に掛けてこれを試みたが、自然災害や外敵の謀略でいずれも失敗した。
天正一七(1589)年に秋田実季と和睦したことで家臣・八木橋備中を上洛させることに成功した。このとき、秀吉に名馬と鷹を献上し、津軽三郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)並びに合浦一円の所領を安堵されたが、これを仲介したのが石田三成だった。
天正一八(1590)年三月、小田原征伐に向かう秀吉の元に、家臣一八騎を連れて為信も出向き、駿河三枚橋城にて秀吉に謁見した。為信は三成から予め有益な情報を得ていた様で、秀吉、その甥・羽柴秀次、織田信雄が揃いも揃って鷹狩り好きだったことを知り、津軽特産の鷹を贈っていた。
その一ヶ月後、南部家当主・南部正直が前田利家を頼って、為信を惣無事令に違反する逆徒として喧伝し、秀吉に訴え。一時は征伐の対象にされかけた為信だったが、三成、秀次、信雄を介しての釈明が認められ、為信は独立した大名として認知されることに成功した。
秀吉・三成と気脈を通じた為信は秀吉の猶父となっていた近衛前久にも接近した。
祖父・大浦政信が前久の祖父・近衛尚通の落胤だという伝承を利用し、前もって金品や米などの贈物をした上で上洛時に前久を訪れ、上述の伝承を主張した。
為信から財政支援を受け、更に増額の約束を得た前久は為信も猶子とした。これを受けて為信は本姓を藤原として、姓を大浦から津軽に改め、同じ猶父を持つことで秀吉とも義兄弟となった。
その後、為信は九戸政実の乱の討伐、文禄・慶長の役、伏見城普請などに功績を挙げた。この間、詳細は薩摩守の研究不足で詳らかではないが、石田三成の交友を示す様々な書状から、為信と三成は昵懇だったとされている。そして三成の友好が、関ヶ原の戦いにおける三成の死をもって終わったのに対し、為信との関係は細々と続いた。
友好の終焉 慶長五(1600)年に勃発した関ヶ原の戦いに際して、諸大名は徳川家康率いる東軍につくか?毛利輝元を総大将、宇喜多秀家を副将、石田三成を発起人とする西軍につくか?で多かれ少なかれ頭を悩ました。
会津征伐に従軍し、元々三成に嫌悪感を抱いていた福島正則・加藤嘉明・黒田長政・細川忠興辺りは余り悩まなかった(←それでも上方で家族を一時人質に取られたり、命を落としたり、といった苦難があった)が、多くの者はその時の立ち位置(←領国の位置的なものもあれば、豊臣秀頼・家康・三成との義理的なもの含む)でなし崩し的に東西各々の軍につくケースが多かった。
津軽為信に関して云えば、領国の周囲がすべて東軍という状況で、否も応もなく、三男・信枚と共に、東軍として参加した。とはいえ、大活躍には程遠かった。
関ヶ原への出陣中に家臣が反乱するのを恐れた為信は、出陣前に一族である重臣の森岡信元を暗殺させたが、結局、合戦中に国許で反乱が起こって居城の堀越城を占拠された(幸い、西軍敗戦の報が伝わるや反乱方は戦意喪失し、すぐに追討された)。
更に、為信の嫡男・信建は豊臣秀頼の小姓衆として大坂城に在り、津軽氏もまた、真田氏や九鬼氏同様、一族を東西に分けることでどっちが勝っても血筋が残る様に図った、つまりは徳川家に対する忠誠も高くないと見られたためか、戦後の論功行賞では僅か二〇〇〇石の加増に留まった。
かくして為信は小康状態を保つ形で小大名としての立場を守れたが、盟友石田三成は捕らえられて一〇月一日に三条河原で斬首されて刑死した。それ以前に三成の居城・佐和山城も小早川秀秋等の猛攻を受けて落城し、三成の父・正継、兄・正澄、三成正室も自害して果てた。
だが、そんな中、意外にも三成の遺児達は助命された。三成の長男・重家、三男・佐吉は出家を条件に助命された。そして次男・重成を助けたのは信健だった。
信健と重成は小姓仲間だった。関ヶ原で西軍が大敗し、三成の居城である佐和山も落ちたことを知ると信健は重成を連れて若狭小浜に逃れ、そこから日本海経由で津軽に帰国した。
関ヶ原の戦い直後の徳川家康は、実力上はともかく、公式な立場では豊臣家の家老を務める内大臣に過ぎなかった。それ故、三成が処刑された名目は、家康への反逆ではなく、幼い秀頼を担ぎ上げて諸大名を内紛に追いやった罪に対するものだった。
つまり、この時点では家康も三成も為信も信健も重成も豊臣家臣で、信健と重成の津軽への逃亡は無断職務放棄に等しかった。まして勝利者で最高権力者となった家康の心証を悪くしかねない行為でもあった。つまり重罪とされてもおかしくなかった。
だが、これに対して家康が為信・信健を罰した話も、重成引き渡しを求めた話も聞かない。北の果ての小藩に幼い遺児が一人逃れても大した問題では無いと見られたか?或いは、重家・佐吉を助命した手前、為信・信健の友情に報いて黙認したか?史書に家康の意図は見えない。
いずれにせよ、慶長一五(1610)年に石田重成は早世したが、重成の血筋はその後も杉山姓を名乗って津軽藩家臣として続いた。為信と三成の絆は累代に渡って続いたのである。
その後、為信は初代弘前藩主として、弘前城を含む領国経営に専念し、慶長一二(1607)年一二月五日に京都津軽屋敷で病没した。津軽為信享年五八歳。その二ヶ月前の一〇月一三日に信健は若死にしており、二代藩主には三男・信枚が就任した。
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令和八(2026)年一〇月七日 最終更新