第壱頁 天智天皇………正史に書かれていない、沓を残しての行方不明

行方不明者其の壱
氏名天智天皇(てんじてんのう)
生没年推古天皇三四(626)年〜天智天皇一〇(672)年一二月三日
身分第三八代天皇
死因公式には病死
遺体の眠る場所公式には山科陵(やましなのみささぎ)



略歴 舒明天皇と皇極(斉明)天皇の皇子として推古天皇三四(626)年に生まれた。初名は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)。
 中大兄皇子が生まれたのは蘇我馬子が死去したのと同年で、この時点で朝廷内では馬子の子である蝦夷(えみし)と孫の入鹿(いるか)が絶大な権力を有していた。

 蘇我氏の専横を快く思わない中臣鎌足は蘇我氏打倒を目論んで中大兄皇子に接近。両者は共謀して皇極天皇四(645)年六月一二日に入鹿を暗殺。これを機に蘇我氏打倒の機運が朝廷内で一気に高まり、父の蝦夷は屋敷に火を放って自害した(乙巳の変)。
 これによって皇太子の地位と強大な権限を得た中大兄皇子は蝦夷自害の翌日に皇極天皇の同母弟を孝徳天皇として即位させ、自身は皇太子となると様々な改革を行った(大化の改新)。一方で、古人大兄皇子(異母弟)や有間皇子(従弟。孝徳天皇の子)を謀略で死に追いやったりもした。

 斉明天皇六(660)年、朝鮮半島では百済が新羅によって滅ぼされ、百済の皇子・扶余豊璋が人質として滞日していたこともあって、大和朝廷は百済復興軍に味方して朝鮮半島に派兵し、中大兄皇子も斉明天皇と共に筑紫に滞在したが、斉明天皇七(661)年七月二四日に斉明天皇が同地で崩御。皇太子のまま政務をとり続けた中大兄皇子だったが、渡海した日本軍は天智天皇二(663)年八月二八日に唐・新羅連合軍に惨敗した(白村江の戦い)。
 これを受けて海外よりも国内の固めが先決と考えた中大兄皇子はようやく天智天皇七(668)年一月三日にようやく即位し、水城建設、防人設置、壬申戸籍制定を行う一方で、遣唐使を派遣して唐との和睦に務めた。

 天智天皇八(671)年一〇月一五日、天智天皇が片腕と頼み、様々な謀略を担い、時には仲が険悪化した皇太弟・大海人皇子との仲裁もしてくれた中臣鎌足が臨終の時を迎え、長年の功に報いて内大臣の位と藤原の姓を与えた。中臣改め藤原鎌足は翌日に息を引き取り、これに気を落としたものか、翌天智天皇九(672)年九月には天智天皇も病に倒れた。
 一〇月には重体となり、大海人皇子を呼び出すと自らの死後天皇となるよう勧めたが、大海人皇子はこれを断り、出家するとして吉野に隠棲。皇位は息子の大友皇子が継ぐこととなり、天智天皇一〇(672)年一二月三日に近江大津宮にて崩御した。宝算四七歳。



死の状況 上記の略歴だけを見れば、天智天皇の死はフツーに病死である。周知のように、天智天皇崩御後、息子の大友皇子が即位(弘文天皇)するも、挙兵した大海人皇子によって自害に追いやられ、大海人皇子は天武天皇となった(壬申の乱)。
 以後、皇位は称徳天皇の崩御まで天武系に握られたが、すべては天智天皇崩御後の話で、くどいが天智天皇の崩御は病死である。

 だが、天智天皇の死を病死としない書が存在する。『扶桑略記』である。

 同書によると、天智天皇は沓(くつ)だけを残して山中で行方不明となったとある。
 何とも奇妙な話である。一国の帝王がある日突然行方不明となったとあるだけで、それからどのように捜索したのか?何をもって行方不明のまま次の天皇即位を決定したのか?全く不明なのである。
 こうなると記述の曖昧さからも『扶桑略記』が信用出来る史料なのか?との疑問が湧くのだが、正史に照らしても、正史の性質上、天智天皇には謎が多い。

 まず正史となると、『古事記』『日本書紀』が挙げられるが、前者は天武天皇が編纂を命じ、語り部・稗田阿礼(ひえだのあれい)が記憶していた歴史を太安万侶(おおのやすまろ)が書にしたものである。一応、それ以前にも聖徳太子によって編纂された『天皇記』『国記』といった史書はあったのだが、蘇我蝦夷自害時に焼失した為、編纂が命じられたとされている。
 これに対して後者の『日本書紀』は、成立過程がはっきりしないが、天武天皇が川島皇子に編纂を命じたのが始まりとされている。
 つまり、双方とも天武天皇の息が掛かっており、天武天皇によるプロパガンダ史書であることに留意しなくてはならない。何せ、天武天皇は天智天皇の後に天皇に即位した弘文天皇を倒して即位している。普通に考えるなら、天皇弑逆と云う大逆無道をしでかしている。

 ただ、これはもう文字通り「勝てば官軍」だろう。
 天武天皇側では弘文天皇弑逆を正当防衛としている。そもそも天智天皇即位時に、大海人皇子は皇太弟とされたが、天智天皇は息子可愛さから大友皇子を史上初の太政大臣に任じた。
 この後、すぐに大海人皇子は皇太弟の地位を降り、大友皇子が皇太子となったが、これは身の危険を感じての事と見られている。上述した様に、臨終に際して天智天皇は大海人皇子に皇位継承を勧め、大海人皇子はこれを断ったが、この皇位継承持ち掛けは天智天皇が大海人皇子の真意を量る為のもので、皇位継承に応じれば潜ませていた武者に大海人皇子を殺させるつもりだったのを、大海人皇子が天智天皇の真意を察して上手く躱したとされている。
 そして天智天皇崩御後、出家して吉野に隠棲していたにもかかわらず、弘文天皇は大海人皇子追討を目論んだため、みすみす殺されて堪るかとばかりに挙兵したところ、多くの者が大海人皇子に味方し、反撃を受けた弘文天皇は自害した…………………となっているが、一連の流れは結果的に弘文天皇を死に追いやった天武天皇が自らを善玉に、甥を悪玉にした可能性は充分にある。
 くどいが、普通に考えるなら正式に即位した弘文天皇を大海人皇子が倒したのは、正当防衛を考慮に入れても本来なら主殺しと云う大罪を犯しているのであり、この罪科を隠蔽するとなると、弘文天皇は勿論、天智天皇すら悪玉となる必要がある。
 いずれにせよ、天智天皇の後を継いだ大友皇子が「弘文天皇」と諡されたのは明治三(1870)年のことで、それまでは即位自体が否定されたり、歴代天皇にカウントされなかったり、多くの書で単に「大友皇子」としか呼ばれなかったことも多かった。

 詰まる所、『古事記』であれ、『日本書紀』であれ、所謂正史では天武天皇が美化されている可能性を考慮する必要がある。その点、『扶桑略記』は寛治八(1094)年に比叡山の僧・皇円が編纂したもの(注:異説あり)で、藤原道兼の玄孫であることから、藤原家への忖度は考慮に入れなければならないが、天武系への遠慮は無いと見て良いだろう。
 つまり、『三河物語』『愚管抄』の様に、主筋に忖度したプロパガンダ史書には書けないことを書いてくれることを『扶桑略記』には期待出来る。

 『扶桑略記』における山中で行方を絶った話以外にも、天智天皇の死には四国の山中での死去説もあれば、大海人皇子による暗殺説もある。そして天智天皇の死から、僅か半年で壬申の乱が起き、弘文天皇は死に追いやられている。この僅かな時間に大海人皇子が何らかの悪行を為していたとして、それが隠蔽されたことは充分考えられる(作家の井沢元彦氏は『逆説の日本史』にて天智天皇は暗殺されたと断定している)。
 というか、正史の編纂自体が悪事の隠蔽を見る向きもあろう。何せ、天武天皇は天智天皇の皇女(つまり自分の姪)を四人も娶っている。この時代、母親が異なれば同じ父から生まれた兄妹でも婚姻することがあったから、叔父と姪の婚姻など珍しくないが、それでも四人姉妹が同じ叔父に嫁ぐのは少し異常である。また天智天皇の同母弟とされている天武天皇だが、天智天皇より年上との説もあり、そうなると彼の血縁上の立ち位置すら不詳となる。
 かように、天武天皇には謎が多い。正当防衛の度合いはどうあれ、弘文天皇だけではなく、天智天皇までその手に掛けていてもおかしくはない。乙巳の変以降、様々な謀略を駆使した天智天皇故、あちこちの恨みを買っており、命を狙う者も多かったと思われるが、天武天皇関係者以外が弑逆したのなら、天武天皇は堂々とそれを討って即位出来る訳だから、もし天智天皇の死が自然死でないのなら、下手人は天武天皇関係者とみるべきだろう。



遺体は何処に? 宮内庁が述べるところによると、天智天皇の陵墓は山科陵(やましなのみささぎ)である。史書通りなら、病の為に近江大津宮で崩御し、山科陵に葬られたことになる。
 一方、『扶桑略記』の記述が正しいなら、天智天皇の遺体は見つからず終いである。

 上述した様に、一国の帝王が行方不明となり、遺体すら見つからないままとはかなり異常である。まず普通に考えて、最高権力者には常に護衛が付いており、行方不明になるなら、護衛として同行していた者も捕らえられるなり、殺されるなりして人目から消え失せることになる。
 そして、最高権力者が行方不明となれば、その行方は必死になって捜索されることになるし、その過程で行方がいつの時点まではっきりしているかが突き止められ、そこからどこに行った可能性があるかが検証され、それを元に行った先が追われる筈である。
 勿論、最高権力者の行方不明という異常事態ともなると、行方が分からないと云う状況は事件解決まで伏せられるだろう。見つからないからと云ってすぐに諦めたりはしないだろうけれど、いつまで経っても見つからないとなるといい加減隠し通せなくなり、どこかで捜索が打ち切られ、次の天皇を即位させなくてはならなくなる。

 だが、『扶桑略記』は山中で沓を残して行方不明になったことだけしかかかれていない。朝廷高官達がこの異常事態を伏せに伏せ、事件にかかわる重要情報を外部に漏らさなかったとしても、記載が少な過ぎて不気味ですらある。ある意味、『吾妻鏡』における源頼朝の死に関する記述の少なさよりもひどい。

 結局のところ、天智天皇の死自体が謎なので、『扶桑略記』に書かれた行方不明が虚偽や間違いなら、只の病死で、遺体は山科陵に眠っていることになるし、『扶桑略記』が正しいなら正しいで、天智天皇の死に様と遺体は全くの不明となる。
 一体、皇円はこんな中途半端な書き方で、何を世に訴えたかったのだろうか?


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令和五(2023)年二月二四日 最終更新