第弐頁 織田信長………宣言通り、髪の毛一本残さず

行方不明者其の弐
氏名織田信長(おだのぶなが)
生没年天文三(1534)年五月一二日〜天正一〇(1582)年六月二日
身分尾張守護、弾正忠、右大臣
死因本能寺の変における自害
遺体の眠る場所阿弥陀寺? 墓所は本能寺、総見院、他多数存在



略歴 例によって、超有名人物なので「略」(笑)。



死の状況 余りにも有名な話だが、織田信長のXデーは天正一〇(1582)年六月二日で、中国征伐に従軍している羽柴秀吉(豊臣秀吉)の後詰準備中に京都本能寺にて宿泊していたところ、未明に先遣させた筈の重臣・明智(惟任)光秀の謀叛に遭い、奮戦した挙句に光秀に自分の首を渡すまい、として自害して果て、寺には火が放たれた。

 小学生の頃、読んだ信長の伝記によると、光秀謀叛を知った信長は得意の弓術で押し寄せる明智兵を次々射殺し、弓弦が切れると槍を持って戦い、一〇人ばかりを突き伏せたが、その間に背中に矢を、腕に鉄砲玉を受け、森蘭丸に自害する旨を告げると、自分の首を火中に投じる様に命じた、とあった。
 誰もが死を恐れる故、必死になって戦う戦場にあって、圧倒的不利な情勢下で自ら槍を取って一〇人も倒した信長の槍術に驚嘆したが、それから数年して、一つの疑問が脳裏を過った。「誰一人逃げられない状況下で、誰が信長の最期を会話の一つ一つまで詳細に確認したんだ?」と。
 信長の死の状況が作り話だとはまでは思わずとも、ここまで詳細に残っていることには疑問を感じた。ただこの疑問はその後十数年の時を経て解消された。答えを云えば、本能寺から逃れた侍女達の証言である。

 信長は、寄せ手が光秀と知って、有名な「是非に及ばず!」の言葉を吐くと同時に、自らの最期を悟った。光秀が本能寺を包囲したのであれば、万に一つも自分が寺外に逃れる術はないだろう、と。その一方で、侍女達には「光秀は女子供を殺す様な奴ではない。」と告げて、早く逃げる様に促し、信長最後の優しさに涙しながら本能寺を後にした侍女達は後に太田牛一に信長の最期を伝え、『信長公記』に記された。

 信長が光秀の裏切りに驚きつつも、如何に光秀の有能さや素の性格を買っていたかが伺えるエピソードだが、信長と同様に、信長の嫡男信忠も光秀の包囲からは逃げられない、と断じて脱出を諦め、二条城にて自害した。だが、一方で同じ状況下にあった信長の弟長益(有楽斎)は逃げおおせた。
 変後、山崎の戦いを前にして羽柴秀吉は光秀追討軍を集める為に信長が生きていると一時的に偽ったこともあったが、結局信長生存は伝説にすら語られることもなく、本能寺に果てたことは確実視され、秀吉が信長横死を知るきっかけとなった光秀から毛利輝元に宛てらえた密書には「信長父子を討ち取った」と記されてあった。

 本能寺の変では信長以外にも、その供回りを務めた森蘭丸・坊丸・力丸兄弟、伴太郎左衛門、伴正林、金森長則(金森長親の長男)等が討ち死に・自害している。一方で前述した様に明智勢に敵と見做されなかった侍女達が脱出しており、同様に本能寺に宿泊していた誠仁親王(正親町天皇嫡男)と供の公家衆も見逃された。
 一方で、二条城から逃れた長益はその後長く京童達の嘲笑の的とされており、それだけ武士が脱出したのは稀有だった(同様にして逃げた前田玄以は信忠嫡男三法師を守ったこともあって、それほど悪く云われなかった)。

 これらを鑑みても、信長が本能寺から生きて出た可能性は皆無と断じられるし、何より生きて本能寺を脱出していたとすれば、その後信長が歴史の表舞台に現れないことは考えられないだろう。



遺体は何処に? 結局、織田信長の遺体は発見されていないのだが、科学的に物申すなら、信長の遺体は、彼が望んだように焼き尽くされてこの世から完全に消え失せたことになる。
 ただ、遺体を火葬しても遺骨が残るように、相当な火力で焼かないと一片の骨すら残らないことは考え難い。まあ、戦国自体はDNA鑑定も無いし、骨だけが見つかっても、余程体格に特徴が無いと誰の骨か断定することは不可能だし、体が焼け残っていても黒焦げなら人物特定は叶わないだろう。
 まして、本能寺内では信長とその側近が数十人命を落とし、炎に巻かれている。遺体・遺骨・遺灰が同じ場所に何十体とあればもう「誰が誰やら」状態であったであろうことは想像に難くない。

 一説によると、本能寺内には大量の火薬があり、これに引火し、遺体が爆散したとも云われている。
 そもそも信長が本能寺に宿泊したのは本能寺と縁があったからで、日蓮宗の寺である本能寺は鉄砲伝来で有名な種子島氏と縁があり、戦国武将の中でも最も種子島銃を重視した信長は、火薬の原料で唯一輸入に頼らなければならない硝石を確保することからも本能寺と昵懇だったと云うのである。
 まあ、大量の火薬が爆発するようなことが有れば攻め手である明智勢にも多大な犠牲が出ていた筈だから、大爆発が起きたとは考えにくいが、通常より規模の大きい火力が働いた可能性はあるだろう。

 遺体が如何にしてこの世から消えたかの考察はともかく、結果的に明智勢は信長の遺体を回収出来なかった(信忠、森蘭丸等の遺体も同様である)。光秀は血眼になって信長の遺体を探させたが、見つからず、当然後から京に駆け付けた羽柴秀吉を初めとする織田家重臣達も、信長の遺族も信長の遺体を回収することは能わなかった。
 結局、秀吉が天正一〇(1582)年一〇月一〇日に臨済宗大徳寺派の寺院である総見院にて信長の百箇日法要を行った際に、秀吉は香木で信長の木像を二体作らせ、一体を棺に納め、一体を荼毘に付した。
 信長坐像を本尊とする総見院(信長の贈り名は総見公)は、信長の菩提寺とされ、昭和三六 (1961)年には同所にて信長の三八〇回忌法要が営まれた。

 一方で、信長の遺灰を回収し、祀っているとされる寺院が別に存在する。現況都市上京区にある浄土宗の寺院・阿弥陀寺である。当時の阿弥陀寺の住職・玉誉清玉は徳の高い人物で、正親町天皇も彼に帰依し、その人徳を認めた信長とも昵懇だったと云われている。
 本能寺の変勃発を知った清玉は信長を救わんとして弟子達を引き連れて急ぎ本能寺に向かったが、当茶事には既に本能寺は明智勢の重囲の中にあり、どう足掻いても信長救出は不可能な状態だった。
 ただ、当時僧侶は俗世を離れた存在で、戦にあっては中立な存在だったため、明智勢が清玉達に危害を加えることは無く、戦闘が終結するや清玉達は即座に寺内に入り、明智勢もこれを邪魔しなかった。
 そして寺内で信長の遺体を発見した清玉は明智勢に見つかる前にその場で信長の遺体を火葬し、遺灰を自らの寺に持ち帰り、葬ったと云われている。
 阿弥陀寺には信長・信忠父子、そして信長と運命を共にした森蘭丸以下、家臣達、そして名も無い兵達の、約一二〇の墓がある。

 最後に薩摩守の私見をば。
 玉清上人には悪いが、一二〇名もの遺骸を明智勢に知られることなく持ち帰れたとは考えにくい。まあ、信長一人分くらいの遺灰なら所持品の何処かに隠せたことも考えられるから、「信長公の形見の品を持ち帰らせて欲しい。」として、一二〇名全員では無くても、遺体(の一部)とともに関連した品々を持ち帰り、「信長公一人では可哀想。」と考えて考えられる限りの墓を建てたとすれば、全くあり得ない話ではないだろう。
 ただ、本当に信長の遺灰が埋葬されたのであれば、遺族や重臣達が黙っていない。

 実際、信長の百箇日法要を主催することで信長後継者であることをアピールせんとした羽柴秀吉(一応、名目上は養子で、信長四男でもあった羽柴秀勝を主催者としていた)は清玉に遺体を渡すよう迫ったが、「既に法要は行いました。二度も行う必要はありません。」として、遺灰引き渡しを拒否したことで後に阿弥陀寺は秀吉から所領を減らされたと云われている。

 その後、阿弥陀寺は困窮したが、森蘭丸の遺族が法要を依頼したことで持ち直したと云われているが、森家は後に改易となり、阿弥陀寺も火災で信長の遺品とする品々も多くが焼失したと云われている。
 ともあれ、大正時代に至って宮内庁より信長廟所であることが認められた同寺は(あるとすればだが)信長の遺体が眠る場所と目されている。


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令和五(2023)年二月二四日 最終更新