最終頁 完全消失の恐怖
考察壱 深刻で残酷な「行方不明」
様々なケースの相違はあるが、日本史上における、行方を絶ったまま遺体すら見つかっていない人物(と云い切るには語弊のある者も含まれるが)を採り上げ、考察した。
勿論、戦場や暗殺・謀殺の中に命を落としたり、逃亡したりしたことで行方が分からなくなってしまった者は日本史のみならず、世界史上にもごまんと存在する。採り上げだすとキリがないので薩摩守が個人的に心を痛めている例を参考までに一人だけ採り上げたい。
それはラウル・ワレンバーグである。
ワレンバーグとは、スウェーデンの外交官で、第二次世界大戦末期のハンガリーにて、ナチス・ドイツに迫害されていたユダヤ人の救出に尽力した人物である。
昭和一九(1943)年三月、ナチスの占領下におかれたハンガリーでは国内のユダヤ人をドイツに移送し始め、大勢のユダヤ人に命の危機が迫っていた。そんな中、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはナチスを批判する為にユダヤ人救出政策に乗り出し、戦時亡命者委員会を組織しており、ハンガリー国内のユダヤ人を助ける人物としてワレンバーグが選ばれ、派遣された。
ワレンバーグは外交官特権を付与してくれることに委員会の要請を受諾し、七月にブダペストに赴くとスウェーデン名義の保護証書を発行して多くのユダヤ人をスウェーデン政府の保護下に置いて、10万人に及び人々の命を救った。
ちなみにこの証書は国際法的には全く効力の無いものだったが、権威に弱く、杓子定規に仕事に取り組むことを美徳としたナチスには極めて有効だった(笑)。
ワレンバーグは武器を手にしたナチ兵を前にしても全く怯まず、時には列車に連れ去られそうになったユダヤ人達を見つけるや、走る列車に飛び乗って保護証書を渡して助けると云う荒業まで為しており、多くの人々を救う為に全く我が身を顧みなかった。
やがて独ソ戦争でナチスが敗走に転じると昭和二〇(1945)一月、ブダペストにソビエト連邦軍が進駐してきた。ナチスが去ったことにほっとしたワレンバーグはユダヤ人保護のあり方についてソ連軍指導部と会見すべく、周囲の仲間が止めるのも聞かずに司令部に向かったが、その直後ワレンバーグの姿は歴史から消えたのだった………………。
すべての人が納得する真相はいまだ不詳だが、濃厚な説として、司令部に赴いた際に、ソ連秘密警察から「アメリカのスパイ」との容疑を掛けられ、逮捕され、強制収容所に送られ、獄死したか、闇に葬られたと云うものである……………。
このワレンバーグの悲劇に、彼によって命を救われたユダヤ人達を中心に国際ワレンバーグ協会が設立され、その行方を求めた探索が現在も続いているが、今もワレンバーグの身柄も遺体も発見されていない。
ワレンバーグが最後に接触したと思われるソビエト連邦の外務次官・グロムイコ(←国連で拒否権を発動しまくり、「ミスター・ニェート」の通称で有名。※「ニェート」はロシア語の「No」)が昭和三二(1957)年に発表したところによると、ワレンバーグはソ連国家保安委員会の刑務所で心筋梗塞のために死亡したとスウェーデン大使に通知されたが、如何なる証拠も提示されなかった。
昭和六一(1986)年にゴルバチョフによってグラスノスチ(情報公開)が進んだことで、ワレンバーグは昭和二二(1947)年七月に病死したとする資料が発見され、三年後にソ連はワレンバーグの遺族をモスクワに招待し、遺品が返還された。ただ、昭和二二年以降にもワレンバーグを見たとの情報があり、この発表も完全ではない(とされている)。
ともあれ、様々な協議や検証を経て、平成二八(2016)一〇月三一日、スウェーデン政府はワレンバーグの死亡を正式に認定し、その命日は昭和二二(1947)年七月三一日とされた。実に行方を絶ってから七一年もの歳月が経過した上、遺体は今も遺族の元に還っていない………。
正直、根拠はないが、ワレンバーグを一方的にスパイ扱いして、死に追いやったのはスターリンの猜疑心によるものと思っている。証拠はないが、ナチスと敵対した当時のソビエト連邦にワレンバーグを害する理由は全くなく、ユダヤ人の保護を求めて交渉に来た第三国の人物をスパイと疑うような奴となるとスターリンしか考えられない。まあ、それほど薩摩守(及びロングヘア―・フルシチョフ)はスターリンの猜疑心並みにスターリンを猜疑の目で見ている。
ワレンバーグの名を『知ってるつもり?』という人物史番組で初めて知った時の道場主は、ヨシフ・スターリンの猜疑心を知り、近代史上最も憎むべき人物と見始めていた頃だったので、スターリンがワレンバーグに猜疑の目を向け、死に至らしめた可能性が高いと認識した瞬間、TV画面に向かって、「また貴様か!」と叫んだものだった………。
話を戻すが、多くのユダヤ人を救う為にかかる尽力をしたワレンバーグが尊敬・感謝されない筈がなく、詳細は割愛するが、多くの顕彰が為され、今も生前及び死に関する真相を求めて多くの人々が尽力している。
国家の独立や、多くの人々の命を守る為に尽力した英雄であっても、「敵」と見做した組織はその命を奪うことを躊躇わないどころか、死後の安寧梁眠りや、遺族による供養すらも妨げる………………いっそ、理不尽な死を強要されても、遺骸が遺族の元に返された方がまだマシに映る気すらする。勿論、両名の遺体が見つからない時間が長ければ長い程、両名を殺めた者・組織の悪名も長く喧伝されることとなろう。
かように「行方不明」とは、目立たないようでも長く、暗い悲劇をもたらし続けるのである。
善悪問わず、すべての人々の為に一日も早く遺骸が遺族の元に還り、ねんごろな弔いが為されて欲しいと願われてならない。
考察弐 「行方不明」と「生死不明」
ここで少し敢えてフィクションの話を交えさせてもらう。歴史と関係ないように思われるかも知れないが、人間心理の描写への参考としてしばしお付き合い願いたい。
そのフィクションは柿崎普美氏の『吸血樹』という漫画で、柿崎氏の漫画はホラーが多く、作中にてかなり多くの犠牲者が出て、主要メンバーが命を落とすことも少なくない。その例に漏れず同漫画でも多くの犠牲が出るのだが、その中に主人公・杏(あん)の姉もいた。
少林寺拳法の達人だった姉はその人間としての強さが仇となり、吸血樹に巧みに屋外に誘き出され、捕食された。吸血樹の恐ろしさは格闘技の達人でも抗し得ない強さだけではなく、捕食対象である人間を完全に食らい尽くすことにもあった。
杏の姉は、杏を奇襲しようとした際に姉の顔の皮を利用したが、これは人一倍鋭敏な感を持つ杏に見破られた。ばれた次の瞬間、姉の皮の顔が剥がれ落ち、この時点で姉の体は顔の皮と指先しか残っていなかったが、それもやがて消え失せた………。
翌日、杏は姉が殺害された庭先で必死になって姉の遺体が欠片だけでも残っていないか探し求めていた(髪の毛一本見つからなかったのだが……)。というのも、既に杏は警察に被害を申し出ていたのだが、当然の様に警察はモンスターの存在など認めず、遺体が無いことで杏の訴えは全く説得力を持てなかった。
姉の髪の毛一本見当たらないことに、杏は姉が怪物の犠牲になった事実を事実として世間に認知させることも出来ず、海外出張中の両親に姉の訃報をどう伝えば良いのか?と苦悩し、葬式さえ出せないと吐露して泣き崩れた。
遺体が残されないと云うことは、死の瞬間を見た者以外にはその死を公式に認知させられないのである。それは、科学的根拠がないと万人を納得させることが出来ないと云う客観的な問題もあれば、愛する人の死を信じたくない人情も関連する。実際、行方不明事件において失踪状況から失踪者の中には命を失っている可能性の高い者も少なくない訳だが、失踪者の身内は頑なにその死を認めようとしないケースは珍しくないし、気持ちは良く分かる。
同時に、遺体が見つからないことで、生死が分からないと云うことは、殺害の事実が認定されないことにも繋がる。殺人事件で逮捕され、死刑判決が確定した死刑囚の中には(虚実はともかく)冤罪を訴える者もいる。その中には、遺体が見つかっていないことで決定的な証拠が無いことを頼りに犯行事実を認めない者もいよう。
上述の『吸血樹』で、遺体が見つからなかったことで警察はモンスターの存在は勿論、杏の姉が殺害された事実も(それを認識できない故に)無視した。『仮面ライダー』の初期では、ショッカー怪人による犠牲者も、仮面ライダーに倒されたショッカー怪人も死の直後に溶解して消え失せる者が大半だった。恐らくこれは組織の存在を徹底的に隠蔽するショッカーの方針が関係していると思われるが、このこともあって、昭和の仮面ライダーシリーズでは警察が事件に関与することは殆んどなかった。
作中語られる訳ではなかったが、ショッカーなど悪の組織の手に掛った犠牲者の多くは公式には行方不明者・失踪者とされているのだろう。実際に高名な科学者が数多く組織に拉致されて協力を強要されて生きていたから、膨大な数の行方不明者・失踪者がいたと思われる。
遺体が見つからないことで生死が分からないということは、状況の分からなさから殺害の有無はおろか、事件の有無すら分からない事態すらもたらす。
失踪者の家族はただただ無事を祈りつつ、蛇の生殺し様な日々を余儀なくされるのである……・………。逆に血縁意識が希薄だったり、人情に冷淡な者だったりする方が苦しまないと云うのが何とも遣り切れない。
考察参 平和の世にも存在する「行方不明」の恐怖
人が行方を絶ち、その生死や遺体が不明となるのは戦時に限った話ではない。
その状況は千差万別で、チンギス・ハーンの様に、墳墓の盗掘を恐れて埋葬場所を完全に秘匿されたケースもあるが、生前に行方を絶ち、生物学的に生存不可能な時間を流れて尚見つからない状況は間違いなく不幸である。
そして、戦後八〇年近くを経た(一応は)平和なの世に在って、年間何千人もの人が行方を絶ち、現代日本で行方の分からない人々は数十万人に達すると云われている……………。
勿論行方を絶つ要因は様々だ。
対人関係に倦み疲れ、自ら行方を絶つ者もいる。
事故や事件に巻き込まれ、命を失った挙句、遺体が捜索不可能な場に追いやられたり、加害者によって隠蔽されたりした者もいる。
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に拉致されて、(死亡したことを含め)帰国の叶わない者もいる。
様々ケースを採り上げだしたり、検証し出したりすればキリがないが、個人的に激しい怒りを覚える例を三つ上げたい。ただ、内容が遺体を辱める残虐行為に触れるものなので、閲覧される際には予め御覚悟頂くか、その手の内容が苦手な方は閲覧されないことをお勧めする。
一つは、昭和中期に連続婦女暴行殺害死体遺棄の犯人で、今も凶悪な性犯罪の代表格にカウントされる大久保清についてである。大久保に関しては犯罪の全貌は既に明らかにされ、死刑も執行済みだが、余りに凄惨な罪を犯しまくった故、今でも凶悪犯罪を採り上げた特番やサイトで採り上げられるので、婦女暴行と殺人についてはここでは触れない。注目するのは大久保が徹底的に遺体隠匿にこだわったことだ。
二〇年程前にある番組で見たうろ覚えだが、その番組ではナレーションが、「この大久保ほど遺体を隠すことにこだわった男も珍しい。」としており、警察への逆恨みから遺体の場所を白状しないと決めていた大久保は「自分が自白しなければ遺体の場所は絶対に分からない。」と自負していた(同時に、それによって罪を惚け続けられるとも)。
真似する大馬鹿野郎が現れて欲しくないから、余り書きたくないのだが、大久保は遺体を見つからないようにするため、巨大な建造物が建てられる予定の工事現場等に埋め(←建物が建てば、掘り起しは極めて困難となる)、掘削が中断されることを狙って、遺体の周りを多くの岩で覆い(←スコップ等が岩に当たれば、その下は岩盤と誤認されることを狙った)、金属探知機に反応されないように、被害者の貴金属は勿論、金歯・銀歯も剥いだ………………鬼畜の所業としか云い様がない………………。
結局、今薩摩守がこれを書いていると云うことは、数々の隠蔽工作も永続しなかったことを意味し、取り調べによる自供を経て八〇日の時間を掛けてすべての遺体は発見された。大久保は被害者に対する一片の罪悪感も示さなかったと云われているが、取り調べ中に警察が彼の提示した条件(その多くは身勝手なもの)を受け入れれば遺体の隠し場所を自供すると話し、ある詩を聞いた際に態度を軟化させて、条件を緩めたと云われている。
そして、死刑執行の際、大久保はこれに怯え、失禁し、腰を抜かしたまま刑務官によって刑場に引き摺って行かれたと云う。大久保のやったことは死して尚決して許されないが、自分の犯した罪とそれに対する処断に対する恐怖は持っていたと思いたいところである。
二つ目の例は北九州一家虐待殺害遺体遺棄事件である。
この事件はその凄惨性・残虐性から、報道時にかなり小規模なものに留められ、七人もの犠牲者が出た事件としては異例なほど知名度は低く、その詳細も広くは伝えられていない。ただ、封じることが禁じられている訳でもないし、数々の書籍やサイトに詳細が載せられているので、調べようと思えば調べられるがすべてを閲覧するには相当な覚悟を必要とする………。
これまた概要だけ触れるが、犯人である松永太(令和五(2023)年三月一七日時点で死刑未執行)は内縁の妻である緒方純子(無期懲役確定、服役中)一家の弱みを巧みに握り、一家をマインドコントール下に置き、財産を奪い、筆舌に示し難い虐待を行い、肉体的苦痛・精神的苦痛・劣悪な食事の中で一家の人々は次々と多臓器不全などで命を落としたのだが、松永は家族の者に遺体の徹底的な解体と遺棄を命じた。
犠牲者達の遺体は、切り刻まれ、大釜やミキサーにてドロドロにされ、トイレや海に遺棄された……………………(←長年、多くの文章を綴って来たが、これほど書いていて辛いものはない)。
事件は一人の少女が逃げ出し、祖父の元に駆け込んだことで発覚し、松永も緒方も逮捕され、幸いにして様々な事情が考慮されて少女は罪を問われることは無かった。しかし、骨の髄まで凶悪な松永は一切の関与を否定し、殺人も遺体遺棄も緒方一家が勝手にやったことと訴え続けた(←たとえそうだとしても、その場に居合わせて何もしなかったのは常人の取る在り様ではない!)。
そして事件全容解明の為に警察は遺体の行方を懸命になって追った(←緒方家の配管を切り取って、その中まで調べたらしい)が、当然上述した様にして処分された遺体は一片として見つかることは無かった。
結局証言のみを証拠として無罪主張を続ける松永の死刑は確定した(平成二三(2011)年一二月一二日)。松永の死刑確定以来、死刑執行のニュースが流れ、どの死刑囚の死刑が執行されたのかを確認し、松永でなかったのを見る度に法倫房リトルボギーは、「何で今回も松永は処刑されなかったんだよ!!」と声を荒げている。
松永は今も自分の罪を認めず、面会に来た息子に「無罪の証拠を集めてくれ!」と命じ、息子から事件への反省や謝罪を求められた際には、「そんなことを云うなら帰ってくれ!」と不貞腐れる有様である(←再審請求をしていないのが物凄く意外なのだが)。
本当に、遺体がここまで徹底的に隠蔽されていなければ、松永をもっと責めようがあったのでは?と悔やまれるし、今後の犯罪において事件発覚を恐れる極悪人が松永と同じことをしないかが懸念される…………。
三つ目は北朝鮮による日本人拉致である。
この事件が如何に理不尽で、許し難く、初めはすっ呆け、認めた後に五名の帰国をもって、「解決済み」と云い張る態度が今尚両国間の国交正常化を妨げているかについては余人の言を待たないところであろう。
薩摩守が本作でこの事件に対して注目するのは、「北朝鮮に拉致被害者」との疑いが持たれている方々の中に、北朝鮮国内での目撃情報が上がることで拉致被害者であることが確実視されている方もいれば、本当に北朝鮮によって拉致されたのかどうかも分からない方もいる、ということである。
外務省のホームページによると、「北朝鮮に拉致された」と認定されている方は一七名で、内五名が帰国し、残る一二名に対して北朝鮮は、内八名を「既に死亡」とし、四名は「入朝の事実がない。」と答えている。
他方、「拉致された疑いが排除出来ない」とされる方々の数は八七三名に及ぶ。ただ、これほどの人数で、拉致事件が起きた時からの時間を考えると、さすがに全員が拉致被害者と考えるのは無理がある(実際、令和四(2022)年には一名の国内での生存が確認された)。また、北朝鮮側の回答に関する虚実がどうあれ、残念ながら既に亡くなっている方もいると思われる。
ここまで来ると、北朝鮮側が拉致事件の全容を白状したとしても、「まだ生きているのでは?」、「嘘だろ?拉致されたんだろ?」と目される人を零には出来ないだろう。勿論、何の罪もない他国の人間を拉致するなんて馬鹿な真似をしたから半永久的に疑いと非難の目を向けられるのである。
国家的にどんな戦略があったにせよ、糞たわけを仕出かしたとしか云い様がない。同時に、誰かの行方を絶ってしまうと云うことは、隠し事に隠し事を重ね被害者と加害者の間に半永久的に埋めることの出来ない溝を生む愚行となることを、現在以降に生きるすべての地球人が認識しなくてはいけないと思うのである。
最終考察 いつか見つかることを願って
物騒なことを書くが、殺人事件が発覚する要因として最も多いのが遺体発見と云われている。身勝手に人を殺す様な輩はまず捕まりたくないと考えるので、遺体を隠そうとするのだが、殆んどはこれに失敗する。
体格の大きさや時間帯や状況によるが、人一人(場合によっては複数)の肉体を運ぶには、車両を使わない限り目立つ。仮に車両を上手く利用したり、人目を避けて運び出したりすることに成功したとしても、遺棄場所の選定は難しい。
普通に遺棄したのでは遺体の腐敗から耐え難い腐臭が漂い出し、周囲の人々に気付かれる。焼いたとしても、骨や遺灰が残り、これらを残らず処分するのは並大抵ではない(←勿論、やったことないので詳細は分からないが)。
遺体を完全に解体し、追いようのない遺棄をする方法を書籍やサイトで見たことはあるが、様々な意味(方法に対する嫌悪感や、真似する大馬鹿野郎が出て来ることへの懸念等)でここに書きたくない。
そしてどんなに上手に隠しても、官憲によって犯人であることが突き止められ、その追及を受ければ黙り通すのは容易ではない(上述した様に、遺体隠蔽を徹底した大久保清も最後には白状している)。
かくして、多くの場合は、殺人事件による遺体は何らかの形で発見される。だが、すべてでではない。中には徹底した解体が為され、工事現場の地下、樹海、遠洋といった場所が選ばれ、犯罪の事実自体が発覚していないことで、いまだに家族にとって生死すら不明のまま未発見遺体として眠っている犯罪被害者がいないとは云い切れない。
家出や犯罪後の逃亡で意図的に行方を絶ち、何らかの方法で全くの別人として生きているものや、海外に高飛びしたことで行方不明となっている者もいよう。
勿論、自然災害の前に行方が分からない人もいる。阪神大震災では三名の方が行方不明となっているが、大津波に見舞われた東日本大震災では二五二三名が行方不明である。ただ、こんな書き方は行方不明者を持つ身内の方々に失礼かも知れないが、行方不明者は津波と関係ない地域でも出ており、土砂崩れやとんでもない火災に巻き込まれていないのであれば、震災を好機として自ら行方を絶った人がいてもおかしくない。
同じ行方不明でも、居なくなった場所が都市部や山中なら、「まだどこかで生きているかも…………。」との期待を抱ける状況も多いが、海難事故の場合、ほぼ「行方不明=死」となる。しかし、遺体が見つからない限り、身内としては諦めたくないのが人情である。
道場主は昭和六〇(1985)年八月一二日に起きた日航ジャンボ機墜落事故で義理の叔父を亡くした。後で分かったことだが、叔父が乗っていたのはエンジンの真横で助かり様の無い場所だった。それでも事故直後に奇跡の生存者四名が発見されたこともあって、約一週間後に叔母と母が叔父の遺体を確認したとの報がもたらされるまで叔父の生還を祈り続けたし、損傷の激しかった叔父の遺体が現地で荼毘に付されて、対面出来なかったことで約一年間叔父の死を受け入れられなかった。
山梨県のキャンプ場で小学生の女児が行方不明になった事件では約一年後に遺体が発見された際に、女児のお母さんは最後の最後まで娘が死んだことを信じようとしなかった。
悲惨な例を二つほど挙げたが、遺体が見つからない時間が長いと遺体が見つかっても容易に受け入れられなくなる。まして、全くの行方不明・生死不明だと希望を捨て切れないだけに精神的な痛みは想像を絶することだろう。
さすがに、遺体が見つからないからと云って、織田信長や明智光秀が今も生きていると云うつもりはないが、それでも遺体が見つからないことでその時代を生きた人々に様々な想いや影響を与えたことは充分認識出来た。
行方不明・生死不明・遺体未発見が如何に恐ろしいことであるかを認識するとともに、最後に、無駄とは思いつつも、以下の二つの事を世の中に呼び掛けたい。
家族や社会から逃げて失踪した人よ、せめて、生きているならその事実だけでも家族に伝えなさい。
人を殺して、その遺体を遺棄してのうのうと生きている犯罪者よ、自首出来ないにしても、一片の良心があるなら、遺体の隠し場所だけでも、官憲や遺族に通報しなさい。
第二次世界大戦が終わって八〇年近く立っても発見される遺体はあることから、戦争であれ、事故であれ、事件であれ、行方を絶ったすべての遺体がいつかは遺族の元に還ると信じたいが、その日は一日でも早くあって欲しいと願う次第である。
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令和五(2023)年三月一七日 最終更新