第捌頁 辻政信………謎が謎を呼ぶ二度目の失踪

行方不明者其の捌
氏名辻政信(つじまさのぶ)
生没年明治三五(1902)年一〇月一一日〜?(東京家庭裁判所による死亡宣告は昭和四三(1968)年七月二〇日付)
身分陸軍・作家・参議院議員
死因不明
遺体の眠る場所不明



略歴 自分で選んでおいて、何だが様々な意味で厄介な奴を選んだなあ………(苦笑)。  「厄介な奴」とした理由は幾つかある。
 一つは、只でさえ「最期」に謎の多い人物をピックアップしたのが本作な中で、この辻政信には薩摩守の研究不足もあって謎が多い。
 もう一つは、の毀誉褒貶が両極端過ぎて、長所も短所もどこまで正確に綴れるか不詳なこと。
 そして、の子孫を初めとする身内の方々が今現在でも財界等にて御活躍中で、下手なことを書き辛い(苦笑)とうのがある。
 故に、(本作に限った話ではないが)この辻政信に関しては、薩摩守が好意を抱いていないことを予め白状しつつ、必ずしも史実に性格であると限らないことを述べつつ、「クレームのメールは良いけど、訴えないでね。」という保険を打っておきたい(苦笑)。
 まあ、こんな個人的弱小サイトが裁判沙汰になったことなど、開設以来二二年間一度も無かったが(苦笑)。


 前置き(?)はさておき、辻政信は大日本帝国陸軍軍人であり、政治家であり、作家でもあった。
 明治三五(1902)年一〇月一一日に炭焼き職人・辻亀吉の三男として石川県江沼郡東谷奥村今立(現・石川県加賀市山中温泉)生まれた。
 集落にあって比較的裕福な家庭で育ったは、大正七(1918)年に名古屋陸軍地方幼年学校に入学したのを皮切りに、、陸軍士官学校、陸軍大学校と陸軍軍人のエリートコースを進み、幼年学校と士官学校は首席で、大学校は三位の席次で卒業し、恩賜の軍刀を拝受する程だった。

 軍属としては地元金沢の歩兵第七連隊をホームとして所属していて、昭和七(1932)年一月二八日、中華民国上海にて第一次上海事変が発生すると歩兵第七連隊も動員され、は第二中隊長として上海に出征した。翌年五月に停戦が成立して日本に帰還したは、師団を代表して実戦の様子を偕行社で演説し、新聞でもの名が報じられた。
 この辺りからパフォーマーとしての能力も発揮する様になり、同年九月には参謀本部付となり、編成班で勤務した。

 参謀本部付となったことで参謀としての役割が色濃くなったようで、は昭和八(1933)年に大尉、同年末に参謀本部部員となり、翌年に当時士官学校の幹事(副校長)だった東條英機の誘いを受けて陸士本科の生徒隊中隊長に任命されたが、昭和九(1934)年に、陸軍士官学校を舞台としたクーデター未遂事件、所謂陸軍士官学校事件が発生するとはその解決尽力したものの、多くの関係者が逮捕され、重大な処分が下され、も重禁錮三〇日の処分が下され、その後、水戸の歩兵第二連隊付となった。

 昭和一一(1936)年四月、片倉衷の斡旋で関東軍参謀部付となったは、兵站を担当する第三課に配属され、満州事変の経過や戦術を詳細に解析。満州国協和会の基本理念を固めるために上京した際には、当時参謀本部で戦争指導課長を務めていた石原莞爾と面会、満蒙についての理念を石原から教示された。これによりは生涯を通じて石原を崇拝する様になり、石原のことを「導師」と呼ぶ程だった。
 そして昭和一二(1937)年七月七日の盧溝橋事件をきっかけとして日中戦争が始まるとは関東軍の参謀長・東條英機、高級参謀・片倉衷等に同調して戦線拡大を主張した。

 その後の軍歴や軍人としての行動を詳細に書くとかなりの分量になるので極力ダイジェスト的に記載するが、日中戦争においては自ら爆撃機に乗って中国軍を爆撃すると申し出て上司を慌てさせたり、階級に関係なく不良軍人狩りを実施し、綱紀粛正に努めつつ、親日傀儡の汪兆銘政権への秘密工作を実行したりした。
 は部下や後輩への面倒見が良い一方で、自分が正しいと思えば相手が上司であっても歯に衣着せず物申す性格で、買う人間が多い一方で、忌避・敬遠する人間も多かった。
 結果、昭和一二(1937)年一一月に関東軍作戦参謀に転任した。

 翌昭和一三(1938)年三月に少佐に昇進したは翌昭和一四(1939)年四月に「満ソ国境紛争処理要綱」を起案し、関東軍司令官・植田謙吉(大将)がこれを通達した。
 この要綱は簡単に言えば、満蒙の国境線を認定し、それを防衛することを説いたもので、一応は「侵さず侵しめざることを満州防衛の根本とする」とされていたが、後には「万一侵されたら機を失せず膺懲する」とした部分を拡大解釈し、利用することになった。
 そしてそれを待っていたかのように五月一一日、外蒙古と満州国が共に領有を主張していたハルハ河東岸において、外蒙古軍と満州国警備隊との小規模な衝突が発生した。所謂ノモンハン事件である。
 名目上は満蒙の国境紛争だったが、実際には日ソの代理戦争に等しく、関東軍司令部では紛争の拡大を決定し、外蒙古のタムスク航空基地の空爆を計画した。
 これに対して東京の参謀本部は電報で中止を指令したが、は「カンジュル廟とハロンアルシャン付近を相手空軍が越境爆撃している以上、外蒙古のタムスク航空基地爆撃を行うことは認められる。」としてこの電報を握り潰し、作戦続行を知らせる返電を行った(この電報の決裁書では、自分の印を押し、課長、参謀長の代理とサイン。代理の規定が存在しない中、この行為は陸軍刑法第三七条の擅権の罪に該当するものだった)。
 結局この紛争はソ連軍優位に進み、八月三一日の日本軍撤退後、、九月一六日に日ソ間で停戦協定が成立。つまりは日本側の大敗を辛うじて和睦の形で納めた形となった。
 尚、当時を初めとする幕僚は誰一人ノモンハンの地名も知らず、事が起きてから地名を探したことを戦後に著した『ノモンハン』に記したことでは紛争に深く関わった者としての無責任さが強い批判の対象となった。

 ノモンハン事件の和平交渉は一二月七日から二五日までソ連のチタで、続いて翌昭和一五(1940)年一月七日から三〇日迄はハルビンで行われた。だが、署名直前になってソ連・モンゴル代表団は合意を覆して一月三〇日に帰国。満州国代表団に補佐官として加わっていた北川四郎は、「ロシア人は全く信用が出来ぬ!」と憤慨したが、その原因はが白系ロシア人を使って、会議が合意した場合、ソ連代表ボグダーノフと外蒙古代表ヂャムサロンを殺害すると脅したためだったことが戦後になって判明した。この恫喝に関する真偽は軽々しく断言出来ないが、は著書に「戦争は負けたと感じたものが、負けたのである。」、「外交もまた、負けたと思うものが、負けるのである。」と記している。

 そんな「勝てば官軍」を地で行くは敵だけではなく味方にも容赦なく、ノモンハン事件後、第二三師団捜索隊長井置栄一(中佐)や歩兵第七二連隊長酒井美喜雄(大佐)に自害を強要。捕虜交換によって戻ってきた将校達にも同様に自害を強要した
 だが、かかる結果を受けての責任が問われない筈もなく、事後には関東軍作戦課を取り仕切っていた主任参謀・服部卓四郎(中佐)と共に左遷され、は第一一軍(漢口)司令部付となった。

 その後もは軍紀引き締めや作戦立案者としての能力を買われる形で八月に中佐に昇進し、一二月二五日には台湾軍司令部内に新設された研究部第一課(第八二部隊企画課)に配属され、作戦に必要な戦闘方法等の研究や資料の収集・調査を指導した。
 そんなを、昭和一六(1941)年六月頃に参謀本部作戦部に呼び戻そうとする動きが起こり、これに反対した参謀本部作戦課長・土居明夫と参謀本部作戦部長・田中新一とが対立。七月一日付で土居が転出し、作戦班長だった服部卓四郎が作戦課長に就任すると台湾軍研究部は閉鎖され、は同月一〇日に参謀本部作戦課の兵站班長に補任された。

 そして同年一二月八日の真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発。この頃には北信論者から南進論者になっていて、石原莞爾と犬猿だった東条英機に接近していたマレー作戦で第五師団の先頭に立って直接作戦指導を行い、敵軍戦車を奪取して敵軍陣地突入を行った。
 ここでもは数々の身分を意に介さない独断専行を展開。軍司令部に戻って増兵を要求し、それが容れられないと怒って、参謀を辞めると云って引っ込んでしまう有様だった。ただ人間的に多くの軍人仲間に敬遠されたが、有能性は本物で、マレー戦の成功により、「作戦の神様」とまで讃えられた。
 一方で、シンガポール戦においては、シンガポール華僑粛清事件を推し進め。数々の蛮行をが主導したとの証言も存在する(それ故に戦後、は逃げまくったとも。同様に虐殺を主導したと見られた山下奉文は戦犯として処刑された)。

 マレー作戦終了後の昭和一七(1942)年三月、は参謀本部作戦課に呼び戻され作戦班長となり、フィリピン、ポートモレスビーと転戦。フィリピンにて起きた悪名高いバターン死の行進ではにも少なからぬ責任があると見られている。またポートモレスビーでは第一七軍に命令を交付するためミンダナオ島ダバオに到着したは、直ちに作戦を実施するよう指導。田中作戦部長はこのの独断専行を疑問視したが、作戦課長の服部は現地にいるを信頼し、これを追認した。
 だが、この侵攻作戦は完全な失敗に終わり、は駆逐艦朝凪に便乗してブナ視察に向かい、到着直前に空襲を受けても頭部を戦傷する有様だった。

 その後ガダルカナル島の戦いにも関与。そこでも実情を無視した攻撃を強行したのはの責任であるとする説があり、それによると、ガダルカナル島での作戦の過程では現地指揮官の川口清健(少将)と対立し、参謀本部作戦参謀の立場を利用して川口を罷免させようとしたと云う。
 が攻撃を主張した場所は、既に川口が一度総攻撃を行った場所であって、再度の総攻撃でも失敗する確率は極めて高いと思われた。しかも、総攻撃の日時は、海軍の都合で夜間に艦隊が島の周辺海域に突入出来る月齢と一致させる為に、戦闘準備には無理が生じ、ジャングルの中を通る険しい道路によって大砲なども殆んど輸送出来ず、結局小銃での攻撃に頼るのみであった。
 こんな有様では作戦失敗も必然で、川口は、ラバウルから偵察機が米軍の上空を撮影した航空写真の分析から、米軍の防衛が以前より遥かに強化されていることを知り、正面よりも東側からの攻撃をに具申したが、はこの重要情報を無視して、川口は攻撃部隊長から罷免さた。結果、同島の戦いは死傷率四〇%の大敗となった(戦後、は自著『ガダルカナル』で「K少将」との表記で作戦失敗の責任を川口に着せた)。

 そしてガダルカナル戦にては重度のマラリアに罹り、駆逐艦陽炎に便乗して一一月八日もガダルカナル島を撤退した。一方ではかなりガ島にこだわり、同月二五日に大本営でガ島戦の体験談を語って増援を主張。だが、大本営はガ島からの撤退を考え始めていた。
 これに対するの主張は「大丈夫やれる。」と云うだけで、具体策はなく、最終的には自身もガ島撤退に同意した。

 昭和一八(1943)年、陸軍大学校教官に異動して直後に大佐に昇進すると支那派遣軍第三課長として中国に赴任。この時、戦局が不利になり始めた事により対蒋介石率いる国民党との講和を東條に進言し、自らによる重慶に乗り込んで直接講和交渉をしようとしたが、東條を始め陸軍首脳に反対され失敗した。この事もあって東條に嫌われたは昭和一九(1944)年七月、第三三軍参謀としてビルマに赴任した。

 ビルマにては作戦指揮中、ビルマ軍の襲撃を受けて負傷。その後一時的に戦場を離脱して搬送されたタイのバンコクでは終戦を迎えた。終戦前日である八月一四日に方面軍司令官・中村明人(中将)に「国家百年の為」として潜伏することを願い出て、これを許可された。
 このの行動には方面軍幕僚内でも不満を持つ者もいたが、中村はを擁護し、戦後を追うイギリスの問い合わせに対しても「は敗戦の責任を感じ自殺するため離脱した。山中において一人命を断ったと見られる。」と虚偽の説明を行った。

 実際には、は数名の青年将校とともに青木憲信と名乗って日本人僧侶に変装しタイ国内に潜伏。元軍人が僧侶に変装しているとの情報を得たイギリスが捜索を強化すると、はバンコクにおける中華民国代表部に赴いて「日中平和の為働きたい。」と大見得を切り、この助けにより同年一一月に仏印ヴェンチャン、ユエ経由でハノイに渡り、更にここから飛行機で重慶へと向かった。

 は中国では国民党政権に匿われ、しかも国民党政権の国防部勤務という肩書きを与えられた。これはが過去に蒋介石の特務機関である軍事委員会調査統計局の戴笠の家族を助けたことがあったことから、国民党政権がへかなりの親近感をもっていたためだと云われている。また、蒋介石自身も、彼の母が病死した際の慰霊祭をが行ってくれたことからに非常な好意を持っていた。

 だが、中国における国共内戦が共産党優勢に転じ、中国に留まるのを危険と見たは昭和二三(1948)年に上海経由で日本に帰国。当時の日本ではまだ戦犯が裁かれている最中だったので、戦犯訴追を避けんとしたは国でも潜伏を続けた。
 戦友、寺院、右翼団体に匿われたり、偽名で炭鉱労働者をしたりと国内を転々とし、作家の吉川英治から資金援助を受けたことがあるとも云われている。ただ、これらは後のの著書や様々な風説から出たもので、何処まで真実かは怪しく、そもそも捜索の手から逃げ続けていた訳だから、すべてが明らかになるのは半永久的にないと薩摩守は見ている。

 そして昭和二五(1950)年、戦犯指定から逃れたは再び世に姿を現し、逃走潜伏中の記録『潜行三千里』を発表して同年度のベストセラーとなり、他にも数々の著書を出版し、ベストセラー作家としての知名度を確立した。
 印税などで財力も得たはGHQやCIAなどの情報機関から疎まれるようになっていたが、占領政策も終盤で、具体的な対応は取られず、公職追放が解除された後の昭和二七(1952)年に旧石川一区から衆議院議員選挙に出馬し、当選。自由党を経て自由民主党鳩山派、石橋派に所属した。

 政治家になったは衆議院議員三期目の途中だった昭和三〇(1955)年ソビエト連邦に視察旅行に出かけた。ノモンハン事件で対決したジューコフと極秘に会談したりもした。
 一方で、政治家となったの下に、軍人時代の責任を問う声がいくつも寄せられ、アジア各国で起きた残虐な事件(シンガポール華僑粛清事件バターン死の行進など)はが計画したとして、軍の元上官から告発された。
 それがどの程度影響していたかは不詳だが、やがてが二度目の行方を絶つ日がやって来るのだった。



死の状況 昭和三六(1961)年、当時参議院議員だった辻政信は院に対して東南アジアの視察を目的として四〇日間の休暇を申請し、四月四日に公用旅券で日本を出発した。

 だが、所定の四〇日を過ぎた五月半ばになってもは帰国しなかったため、家族の依頼により外務省は現地公館に対して調査を指令。その結果、はラオス入りを支援した旧日本軍兵士・現地軍将校によって四月二一日に目撃されたのを最後に、消息を絶っていた。
 その後の調査で、仏教僧に扮してラオス北部のジャール平原へ単身向かったことが令和五(2023)年三月一七日現在確実に判明している最終情報である。


 辻政信失踪のその後を巡っては、様々な説が主張された。箇条書きにすると、以下のものが唱えられている。

・虎か毒蛇に襲われ死亡した。
・アジアの政治に介入するのを恐れたCIAが暗殺した。
・ベトナムで反共義勇軍として戦った。
・キューバで首相フィデル・カストロの支援工作をしている。
・ジャール平原からハノイに向かう旧ソ連の飛行機に乗ったが墜落した。
・エジプト大統領ナセルの軍事顧問となった。

 勿論、の行方が判明していない故に、上記の事柄はどれもが全面肯定も全面否定も出来ない。  ともあれ、が消息を絶った九年後の昭和四五(1970)年四月一三日付の『朝日新聞』に従軍カメラマンの楊光宇による証言が掲載された。
 その証言によると、昭和三六(1961)年四月にはラオスの共産主義革命勢力であったパテト・ラオに捕らえられ、「中国語なら少し分かる。」と申し出たことで中立派軍からカンカイの司令部にいた従軍カメラマン楊が通訳にかり出された。
 六月頃に楊は、から「脱走し、ビエンチャンへ向かうのに協力して欲しい。」と持ちかけられたが、楊はほどなく軍の命令により北京へ写真の研修に向かい、翌昭和三七(1962)年三月にラオスへ戻ったときにはの姿はなかった。
 パテト・ラオの司令官や兵士等は「逃げた」と証言し、これに対して楊は「変装したということが、スパイ容疑を決定的にしたようです。密かに処刑されたのだ、と思います。」と述べている。
 ラオスで現地調査を行った三木公平は、は僧衣をつけていたことや軍歴・経歴からスパイと疑われ、フランス軍将校の関与により処刑されたという証言を得ている。

 またCIA文書によると、は昭和三七(1962)年八月八日時点で存命であり、ハノイからビエンチャンに戻った後に中国共産党に拉致され中国雲南省に抑留されていたと見ている。
 同文書では、中国共産党がを「東南亜戦略委員会設計部長」に任命して協力させる計画を立てており、に何らかの宣言をさせて日米関係や日本の東南アジアにおける地位に打撃を与えることを画策していること、中国共産党右派がを釈放して、日本政府から支援を得ようとしていること、が生存していることを証明するために、中国共産党は日本政府からの人員がラオスから雲南省に入り、と面会することを承諾していることが書かれている。

 結局いずれも確証はなく、国内にては参議院議員としての議席が任期である昭和四〇(1965)年六月で切れ、家族が失踪宣告請求を行い、昭和四四(1969)年六月二八日に東京家庭裁判所は昭和四三(1968)年七月二〇日付での死亡宣告を行った。
 この日を命日とするなら、辻政信の享年は六六歳となる。ちなみにこの文章を綴っている令和五(2023)年三月段階で生きているとすれば御年一二一歳…………………さすがにもう生きちゃあいないだろうな。



遺体は何処に? 令和五(2023)年三月現在、人間の寿命的に辻政信が存命だとは思えない。では彼は何処でこの世を去り、その遺体は何処にあるのか?

 結論から言えば不明である。

 如何なる最期を遂げたにせよ、遺体が何処に眠っているかが判明していれば、の家族が遺骨だけでも引き取ろうとしていることだろうし、ここまでセンセーショナルな人物なれば、最後の様子が判明したり、遺体の眠る場所が分かったりすればそれが世を騒がせない筈はない。

 ここから先は薩摩守の完全な個人的推測になる。
 恐らくは行方を絶った直後ぐらいに落命したと見ている。何も個人的にが好きじゃないからそう推測しているのではない。程行動力のある人間であれば、何らかの行動が世に出ない筈はないだろうし、命の危機を案じての逃走・潜伏ならいずれは帰国し、政治家や作家としての世の中に対する主張を為していた筈と見れば、である。

 実際、の有能性と実行力は認めない訳にはいかない。
 相手の階級を意に介さず、云いたいことを云う性格故に多くの敵を作り、何度も左遷されながら、部下の指導や作戦立案への能力は常に高く買われていた。正しいと思うことは良く云えば誰に対しても堂々と申し述べ、悪く云えば周囲の意見を無視してでも我意を通した。
 それゆえ、好かれるときは好かれ、陸軍や士官学校における部下や教え子の評判は良く、戦時中に数々の虐殺行為に加担したことを非難されながら、戦後民主主義社会における普通選挙で当選しているのだから、人望もあったのだろう。実際、終戦直後の国外・国内での潜伏にも多くの者が協力していた。
 発言力があり、ベストセラー作家になってもいたから、表現力も卓越していたのだろう。

 いずれにせよ、好かれるのも嫌われるのも両極端だったと見られる。
 ラオスで行方を絶ち、それに前後して命を落としたとなると、戦時中のの行動に敵愾心を抱いていた者の手に掛かった可能性が高い(それゆえ死体が処分された場も秘匿されたのだろう)。
 上述した様にはシンガポールとフィリピンで捕虜虐殺に加担した疑いがあり、戦場では国内からの不拡大方針を無視してまで戦い続けた経緯から戦時中に現地人の恨みを買った可能性は低くない。
 また、当時世界は冷戦真っ只中で、ソ連と戦い、蒋介石と懇意だった上、戦後に属した党も反共的だったことからは共産主義勢力を敵に回していた可能性が高い。アジア各地に共産主義政権があり、自由主義陣営国でも共産主義ゲリラが幾つも存在した。
 ただ、曲がりなりにも公用旅券を持ってやってきた日本国の正式な政治家を殺めたとなると国際問題である。が何処で死に、何処に眠るか判然としないのもその辺りの兼ね合いにあるのではなかろうか。


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令和五(2023)年三月一七日 最終更新