第壱頁 保元の乱……卑怯か否か
夜襲File 壱
夜襲の行われた戦い 保元の乱 夜襲日時 保元元(1156)年七月一一日 夜戦場 白河北殿 攻撃方 平清盛・源義朝 守備方 源為義・為朝、平忠正 勝敗 夜襲側の大勝利 卑怯度 五
背景 保元の乱は崇徳上皇と後白河天皇の兄弟相克による政権争いである。
戦の遠因を為したのは兄弟の祖父である鳥羽法皇だった。祖父・白河法皇によって幼くして天皇に即位させられた鳥羽天皇は、その白河法皇によって若い身空で嫡男・崇徳天皇への譲位を余儀なくされた。
程なく、院政を欲しい侭にした白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇は報復とばかりに崇徳天皇に辛く当たった。というのも、鳥羽上皇は寵姫が産んだ崇徳天皇を自分の子と思っていなかった。崇徳天皇を「祖父・白河法皇が自分の妻に手を付けて産ませた子」と見ていて、陰で「あの叔父御(祖父・白河法皇の子なら、自分にとっての叔父であるという意味)」と呼んでいた。
だが、叔父と思いつつも、権勢上父として接していた鳥羽法皇は崇徳天皇に異母弟・近衛天皇への譲位を強要した。父に嫌われた崇徳上皇のただ一つの望みは息子・重仁親王が即位することでいつの日か自分が院政を執ることだったが、近衛天皇が若くして崩御すると鳥羽法皇は崇徳上皇の同母弟・後白河天皇を即位させた。
これに崇徳上皇は愕然とした。
というのも、後白河天皇は近衛天皇よりも一二歳も年上で、即位するなら近衛天皇よりも先に即位していた筈だった。にもかかわらず近衛天皇が先んじて即位したのも、皇子時代の後白河天皇は芸能三昧で、たわけ者と見られていた故で、崇徳上皇もそんな同母弟が即位するとは夢にも思っていなかった。
しかも、その即位は形式上、後白河天皇の皇子・守仁親王(後の二条天皇。このとき鳥羽法皇の養子でもあった)を皇位継承者とするも、未だ幼い(当時一四歳)故に、その父・後白河天皇を中継ぎとしたものだった。つまりこれにより、崇徳上皇は息子が皇位を継承し、その父として院政を執る望みを完全に打ち砕かれたのである。
自身を退位させたのみならず、治天の君となる道まで断った父に対して崇徳上皇は激しい怒りを抱くも、父には逆らえない。だがここで歴史の皮肉が働いた。
鳥羽法皇がその後も存命し、後白河天皇―二条天皇に続く皇位継承を後見する院政を執り続けていれば、崇徳上皇も諦めがついたかも知れなかった。だが、鳥羽法皇は後白河天皇即位から一年も経たない保元元(1156)年七月二日に崩御した。
鳥羽法皇が重体に陥ったのは同年五月二二日のことだったが、周囲はこの時から動き始めていた。鳥羽法皇自身、実子と思っていない崇徳上皇及びその血統が政権・皇位を握ることを阻止せんとして二人の弟に皇位を移していたので、自分の死後、崇徳上皇が政権奪取の実力行使に出ることを懸念していた。九日後の六月一日に法皇は源義朝に院の守護を命じる院宣を出していた。
そしてこの皇室内の醜い争いに摂関家が便乗していた。白河院政時代、摂関家の栄耀栄華を奪われていた藤原氏は鳥羽院戦時代に至ってようやく摂関家の権威を取り戻していたが、その摂関家で藤原忠通・頼長兄弟が対立していた。
忠通は父・忠実が異母弟・頼長を寵愛したことで氏長者の座を奪われていた。それでも弟は弟で、実子に恵まれていなかった頃は頼長を養子に迎えていた時期もあったが、四七歳で一六年振りに実子となる基実を設けると何としても氏長者の地位を取り戻したくなり、結果、兄弟相克となり、忠通は鳥羽法皇・後白河天皇を頼りとし、頼長は崇徳上皇方についた。
だが、いくら相手を疎ましく思っていても、皇室及び摂関家には自前の武力が無かった。何せ薬子の変以来、平安京の皇族及び摂関家は武力・厳罰から縁遠くなり、流血を伴う軍事や死刑を徹底して嫌った。
さすがに警察機構が無い訳にはいかないので検非違使という令外官が新設されたが、頼りとする割には彼等を見下した。刑罰も流血を嫌う余り、死刑がなくなった(厳密には制度として存続していたが、「御主上の恩情により死を一等減じ……。」の決まり文句で流刑に留められることが定常化した)。
そんな皇室・摂関家に現実問題として必要とされる武力で頼られ、近侍する様になったのが源氏であり、平家であった。そしてこの両家でも身内争いがあり、源為義は長男・義朝と共に崇徳上皇につかんとしたが、為義と仲の悪かった義朝(自身の嫡男・義平に弟で、為義次男である義賢を殺させたこともあった)は後白河天皇方についた。
止む無く為義は四男・頼賢、五男・頼仲、六男・為宗、七男・為成乱暴者であったが武勇に優れた八男・為朝、九男・為仲等と共に崇徳上皇の元にはせ参じた。
他方平家でも、鳥羽法皇を通じて後白河天皇及びその側近・と懇意だった平清盛が天皇方につき、藤原頼長に仕えていて、清盛の父・忠盛以来不仲だった忠正(忠盛弟・清盛叔父)が崇徳上皇方についた。
皇室・摂関家・源氏・平家がものの見事に敵味方に分かれた訳だが、これにはいずれか一方が滅びても、もう片方が確実に生き残るとした、一族の命脈を確実に保つためによく行われた悲しい選択とも云われている(実際、保元の乱に敗れた為義は義朝を、忠正は清盛を頼って降伏し、彼等による刑罰の減免に期待した)。
ともあれ、崇徳上皇と後白河天皇の対立は、兄弟の父・鳥羽法皇の遺体が冷え切らないとも云える短さで、血で血を洗う武力抗争に発展した。
襲撃 鳥羽法皇が崩御して三日後の保元(1156)元年七月五日、「上皇・左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞が流れた。
上皇は崇徳上皇で、左府とは左大臣・藤原頼長のことだった。
これを受けて後白河天皇は勅命を発し、検非違使・平基盛(清盛次男)・平維繁・源義康等を召集し、洛中の武士の動きを停止する措置が取られ、翌六日には頼長の命で京に潜伏していた容疑で、大和源氏の源親治が基盛に捕らえられた。
同月八日、頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書が諸国に下され、同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が頼長の邸宅・東三条殿に乱入して没官(謀反人に対する財産没収)するに至った。
謂わば、頼長に謀反の罪がかけられた訳だが、藤原の氏長者が謀反人とされるのは前代未聞で、こんなとんでもないことが鳥羽法皇の初七日に起きたのである。
この一連の措置である後白河天皇の勅命・綸旨を裏で糸引いたのは側近ので、この前後に頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河天皇陣営があからさまに挑発を開始したと云われている考えられる。こうなると追い詰められた頼長は事を起こす他なかった。
翌九日の夜中、崇徳上皇は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入った。既に世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行した。
その翌一〇日の夜、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入った。謀反人の烙印を押された頼長には、崇徳上皇を担いで正当性を主張するしかなかった。そしてそこに頼長と懇意だった平忠正を初めとする武士達が集い、源氏からは源為義が頼賢・為朝・その他の息子達と共に参じた。
早速軍議が開かれ、為義は高松殿への夜襲を献策したが、頼長はこれを「卑怯」として一蹴し、興福寺の悪僧集団など大和からの援軍を待つことに決した。
その頃、後白河天皇陣営でも崇徳上皇・頼長による謀叛の風聞に対処する名目で武士が集められていた。高松殿を警備していた源義朝、平清盛父子が続々と召集され、忠通・基実父子も駆け付けた。
こちらでも軍議が開かれ、清盛と義朝は後白河天皇の御前に呼び出され、作戦を奏上した。その場で義朝が先制攻撃を兼ねた夜襲を進言し、がこれを容れ、清盛に先陣、義朝に第二陣を命じた。
このとき、忠通は弟同様、「夜襲は卑怯ではないか?」と疑問を呈したが、が「戦は勝たねばなりません。」として、本職に委ねるべしとして忠通の苦言を退けた。
皮肉にも兄弟揃って同じことを考えながら、相手がそれを受け入れたか否かで文字通り明暗が分かれたのだった。
翌七月一一日未明、清盛率いる三〇〇余騎が二条大路を、義朝率いる二〇〇余騎が大炊御門大路を東に向かい、寅の刻(午前四時頃)に上皇方との戦闘の火蓋が切られた。
完全に油断していた上皇方は源為朝が得意の強弓で獅子奮迅の活躍を見せ、清盛軍の藤原忠直・山田是行を射殺し、その勢いに清盛は尚も突進しようとする長子・重盛を押し留めた程だった。
義朝軍も五〇名を超える死傷者を出して撤退を余儀なくされた。その中には源氏の有力御家人・大庭景義も含まれていた。
攻めあぐねた天皇方は新手の軍勢として、後白河天皇の警護についていた源頼政等を投入し、義朝の指揮で白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火が放たれ、白河北殿に燃え移ったことで上皇方は総崩れとなった。
崇徳上皇・頼長は御所を脱出して行方を眩ました。
勝利を確信した後白河天皇はその日の内に藤原忠通を藤原家氏長者とする宣旨を下し、戦功のあった武士に恩賞を与えた。
清盛は播磨守、義朝は右馬権頭に叙された。共に大出世だったが、義朝は戦場での功績に比して清盛より恩賞が小さいことに不満を抱き、忠通も本来摂関家の家長が保持していた氏長者決定権を朝廷に奪われた形になり、「吉日に受ける。」と称して、その場での氏長者就任を辞退した。このことが三年後の平治の乱の遠因となった訳だが、それはまた別の話である。
かかる展開を受けて上皇方はすべてを諦めざるを得ず、二日後の一三日、逃亡していた崇徳上皇が仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼した。しかし覚性はこれを拒絶。崇徳上皇は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。
藤原頼長は合戦中、首に矢が刺さる重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって南都まで逃げ延び、父・忠実を頼ったが、自分が生き残る為には無関係であるとの立場を堅持した父に対面を拒絶され、母方の叔父である千覚の房に担ぎ込まれたが、矢傷は深く、一四日に落命した。
崇徳上皇出頭の報を受け、上皇方の貴族・武士は続々と投降した。
上述した様に、為義父子は義朝を、忠正父子は清盛を頼り、身内故に助命は請うてくれると期待した。だが、処分は苛斂誅求を極めた。
二三日、崇徳上皇は讃岐に配流が決定。これは恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、およそ四〇〇年振りのことだった。流された崇徳上皇が京の地を踏むことは遂になかった。
四日後の二七日、「太上天皇ならびに前左大臣に同意し、国家を危め奉らんと欲す」として、頼長の子息(兼長・師長・隆長・範長)や藤原教長らの貴族、源為義・平忠正等の武士に罪名の宣旨が下った。
忠通・頼長兄弟の父で、頼長を寵愛していた忠実は謀叛人と見做されたが、高齢と忠通の奔走もあって罪名宣下を免れた(その代わりに洛北知足院に幽閉の身となった)。
だが、武士はそうはいかなかった。恐らく、義朝も清盛も身内の助命を請うたとは思われるが、は為義・忠正の斬首を命じた。上述した様に、中央政府における死罪は薬子の変以来、三〇〇年振りのことだった。
しかも清盛に忠正を、義朝に為義を斬らせるという酷薄極まりないもので、ただでさえ三〇〇年振りの死刑復活には疑問の声も多い中、かかる酷刑を命じたのだから、平治の乱におけるの落命が殆んど同情されなかったのもむべなるかな、である。
貴族は流罪となり、八月三日にそれぞれの配流先へ下り、ただ一人逃亡していた為朝も、八月二六日、近江にて捕らえられ、武勇を惜しまれたことで助命(←個人的には「本当かよ?」と思っている)され、伊豆大島に配流された。
夜襲の効果 戦術的には「効果大」で、戦闘的には「効果小」だったと思っている。但し、無意味とは思っていない。
夜襲を是とするか、非とするかでは上皇方と天皇方で正反対の判断が下され、夜襲を敢行した側が大勝利を収めたのは周知の通りである。ただ、夜襲の要諦は敵方が就寝中・或いは疲労していることで休息している最中の虚を突く、油断に付け入ることにある。特に相手を混乱状況の陥れることが出来れば、相手方は闇夜の中で同士討ちを起こす可能性すら出て来る。
実際、夜襲を「卑怯」として却下した上皇方の多くは油断し切っていた。「自分が行わないことを相手も行わないだろう。」という甘い思い込みという他ない。だが、油断していなかった男が一人いた。源為朝である。
上述した様に、為朝は自慢の強弓を何度も引き絞り、何人もの敵を射殺し、源義朝軍・平清盛軍を一時退却に追いやった。つまり、為朝以外の武士が活躍らしい活躍をしていないことを鑑みれば、上皇方の全力抵抗を阻止出来ていた訳だから、夜襲の狙いは図に当たったと云える。
しかしながら、虚を突いたにもかかわらず為朝にはしっかり抵抗され、退却に追い込まれたのだから、為朝には通じていなかった。結局、戦の勝敗を決定付けたのは義朝の火攻めだった。まあ、火攻め自体昼間戦と夜襲とでは後者の方が効果は高いので、夜襲を活かした戦術には間違いなかった。
まとめると、上皇方の組織的抵抗が難しいタイミングを狙うという「戦術」では、天皇方の夜襲は図に当ったが、現場での「戦闘」においては夜襲の影響を受けなかった為朝に正面切っての戦いで優位に立てなかったので効果は薄かった、しかしながら夜襲中のおける火攻めが勝敗を決したことから、夜襲は夜襲でしっかり生かされ、意味があったと捉えている次第である。
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令和六(2024)年一二月一三日 最終更新