第弐頁 源頼朝挙兵……初戦でそれ?

夜襲の行われた戦い山木館襲撃
夜襲日時治承四(1180)年八月一七日
夜戦場伊豆山木館
攻撃方加藤景廉・佐々木盛綱
守備方山木兼隆
勝敗夜襲側の大勝利
卑怯度


背景 事の始まりは後白河法皇の第二皇子・以仁王(もちひとおう)が平家打倒の令旨を発したことだった。既に後白河法皇と平清盛の蜜月状態は終わりを告げており、互いに政敵とも云える間柄と化していた。まして平家と血縁の無い以仁王は平家打倒に積極的で中央にて唯一生き残っていた源氏である源頼政を抱き込み、全国に散った源氏に平家打倒の令旨を発した。

 一口に「源氏」と云っても、村上源氏、清和源氏、嵯峨源氏、と様々な賜姓源氏がいる中、その急先鋒は何と云っても伊豆の源頼朝だった。
 彼が父と共に参戦した平治の乱に敗れ、辛うじて一命を助けられたことで伊豆に流されたのは有名だが、二〇年に及ぶ流人生活は清和源氏の御曹司が送る日々としては過酷で、平家への怨みを募らせるには充分だった。
 監視があったものの、行動自体は比較的自由で、地元の豪族も御曹司である頼朝にそれなりの敬意を払っていたので、後世八丈島に流された宇喜多秀家のように生活に困ることは無かったと思われるが、基本的に周囲は敵だらけだった。後に姻戚となる北条氏を初め、多くの豪族は平家の連なる者達だった。
 そんな中、頼朝は伊東祐親の娘と恋仲になり、子供までできたが、京から戻ってこのことを知った祐親は平家から睨まれることを恐れて、生まれた子供(つまり自分の実の孫)を殺してしまった………。
これに対してその時点での頼朝は祐親の追手から逃げるのに精一杯で何も出来なかったから、相当な無念だったのは想像に難くない。後に頼朝は祐親を許したが、祐親の方で恥じて自害したというから、傍目から見ても相当酷い話だったのだろう。

 そんな頼朝はこの後、北条時政の娘・政子と恋仲になり、これが執権北条得宗家誕生の端緒となった訳だが、当初はやはり時政も本家である平家の顔色を恐れた。時政は政子が頼朝と正式な夫婦になったり、子供が出来たりする前に伊豆の代官・山木兼隆(氏は平家)に娶せ、政子を山木の元に送ったが、政子の頼朝への想いは固く、すぐに山木の元を脱し、時政も娘と頼朝の仲を認めざるを得なかった。

 掛かる経緯もあって、平家打倒の思いを胸に秘める頼朝にとって、まずは自らの周囲を固めることが大切だった。後に鎌倉幕府の重鎮となった有力御家人も平家所縁のものが多く、義経と再会(と云っても殆ど初対面だったが)した後の頼朝が東国の地固めに専心したのも、それまでの経緯と無関係では無かっただろう。
 そしてそんな頼朝にとって、挙兵し、伊豆を押さえるのであれば、まずは代官にしてあわや自分の女を奪うところだった山木はいの一番の標的だった。しかも山木は保元の乱においても平家方として戦い、罪を得て流刑同然に伊豆に来たものの、平時忠(清盛の義兄)と懇意にしていたことで目代に任じられいた経緯があり、氏素性だけでなく、交流の上でも憎き平家一門に近しい人物で、これを血祭りに上げることは復讐の第一歩としても相応しいものだった。

 もっとも、山木が伊豆に来た時期や、頼朝と政子の長女・大姫が生まれた時期から、時政が政子を山木に娶せようとしたのは史実ではないとの説が有力だが、政子を巡る恋の鞘当てを抜きにしても、山木頼朝にとって位の一番に打ちたい相手に映ったのは自然な話と云えよう。


襲撃 源頼朝が挙兵を完全に決意したのは、叔父・行家の来訪だった。
 山伏姿の行家が以仁王の令旨を持って伊豆にやってくるシーンは歴史漫画や歴史小説でも定番だが、これによって頼朝は挙兵の大義名分を得た。
 占いにより、頼朝は治承四(1180)年八月一七日(三島大社、大祭の日)を挙兵の日とし、工藤茂光土肥実平岡崎義実天野遠景佐々木盛綱加藤景廉等を一人ずつ私室に呼んで、その者一人を頼りとしている、と告げた。要するに「お前だけ。」という色目を皆に使った訳だが(笑)、彼等を奮起させることに成功したのだから、これは頼朝の能力と云えよう。
 だが、予定日前日、盛綱とその兄弟達が到着せず、頼朝盛綱に計画を漏らしたことを悔いた(←やっぱり元々猜疑心が強かったと見える)。だが、洪水によって遅れたものの、彼等は何とか間に合い、頼朝は涙を流して労った。

 とはいえ、佐々木兄弟の到着は午後で、当初の予定が大幅に遅れたが、頼朝はここで日延べせず、その晩に山木館を襲撃すべしと命じ、「山木と雌雄を決して生涯の吉凶を図らん」と決意を述べた。
 余程ゲンを担ぎたく、それ以上に緒戦の在り様をしっかりしたものにしたかったようで、北条時政が大祭の人出の多さから襲撃を気取られることを懸念し、間道を通っての進軍を進言した折も、「余も最初はそう思ったが、挙兵の草創であり、間道は用いるべきではない。また、蛭島通では騎馬が難渋する。大道を通るべし」と命じたと云う。
 もっとも、これだけの決意を示しながら、頼朝自らは動かなかった。後々の平家追討でも弟達を動かした訳だが、挙兵でいきなり自分がこけるリスクを避けんとしたかは定かではない。
 ともあれ、頼朝の命を受けた軍勢は深夜に進発。途中の肥田原で時政佐々木定綱に別動隊を率いて山木の後見役の堤信遠を討つよう命じた。佐々木兄弟は子の刻にの館に矢を放ち、兄弟の一人・経高が堤信遠を組み打ち、経高は矢を受けて倒れたが、定綱高綱が加わり、遂にを討ち取った。
 一方時政等の本隊は山木館の前に到着すると矢を放った。頼朝方の読み通り、山木の郎党の多くが三島神社の参詣に出払い、黄瀬川の宿で酒宴を行っていた。  だが、館に残っていた兵は激しく抵抗。を討った佐々木兄弟も加わり、激戦となるが容易に勝敗は決しなかった。

 居館で山木館の方角を遠望していた頼朝は、襲撃成功を示す火の手は上がらないことに苛立ち、自身の警護に残っていた景廉盛綱堀親家を山木館へ向かわせた。
頼朝景廉に長刀を与え、その刀で山木の首を取り持参せよと命じた。この加勢を得て、頼朝方は遂に勝利し、頼朝の期待通り景廉山木を討ち取り、館には成功を示す火が放たれた。


夜襲の効果 まず、夜襲が行われたことについてだが、薩摩守は別段卑怯とも思っていない。
 源頼朝が挙兵せんとしていた頃には既に源頼政・以仁王が宇治川の戦いに敗れ、挙兵半月前には大庭景親等が頼朝を討たんと相模に戻りつつあった。頼朝山木兼隆を討った僅か一週間後にこの景親に石橋山の戦いで大敗したのだが、これは完全に「多勢に無勢」であった(『吾妻鏡』によると頼朝勢三〇〇騎に対し、大庭勢は三〇〇〇騎)。
 つまり、挙兵時点での頼朝の手駒は少なく、即断即決で山木を討ち、華々しい初戦デビューを飾ることで向背定かとは云い難い相模豪族を早々に味方につける必要があった。
 また、襲撃は夜襲という時間帯より、三島大社の祭りの日の雑踏に紛れて不意を討たんとしたもので、数が少なく、即行の勝利を得るには奇襲に頼らざるを得なかった面も大きかったことだろう。実際、端から夜襲を考えていた訳では無く、佐々木兄弟の遅参を受けて尚、挙兵日を変えたくない頼朝の想いから即日挙兵となったため、自然と夜襲になった。

 その夜襲にせよ、祭日を狙った奇襲にせよ、効果としては半々だったと薩摩守は見ている。
 上述した様に、山木の配下達は三島神社の参詣に出払い、黄瀬川の宿で酒宴を行っていたのだから、油断を突くことには成功している。だが、それでもなかなか山木の首が取れず、援軍を送ったことでようやく山木の首が取れたのだから、「奇襲で即座に首を取る。」という主旨から云えば、充分な効果を挙げたとは云い難い。

 取り上げておいてなんだが、この夜襲、戦略的意味合いよりも、頼朝の日取りへのこだわりから自然発生した面の方が強い様である。間道を通るべしとした北条時政の進言を退けたことからも、頼朝は然程奇襲にはこだわってなかったのかも知れない。
 まあ、それならそれで源氏御曹司としてのデビュー戦を夜襲でも奇襲でもなく、正々堂々とした正面突破で為すべきだったのでは?と投げ掛けたくなる。
 えっ?嫌いな頼朝を揶揄したくて卑怯な夜襲の一つにカウントしたんじゃないかって?はははははははは、そんなこと有る訳有るじゃないですか、ははははははは(苦笑)。


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令和七(2025)年一月三日 最終更新