最終頁 何故、「夜討ち」なのか?
いつものことだが、日本史上におけるすべての夜討ちを採り上げた訳では無い。例によって独断と偏見で印象に残っている夜討ちを取り上げ、検証した。
実は検証を終わって尚、一つの疑問が残っている。それは、「何でこの作品を作ろうと思ったのだろうか?」ということである(笑)。
「そんなこと、制作者の問題で、閲覧者の知ったことか。」と云われれば、返す言葉が無いのだが(苦笑)、漠然とした理由で話すと、「夜襲・夜討ちに関心が高かったから。」となる。
そこでこの最終頁では「夜討ち」というものの意義を見直し、戦人は何故に夜討ちを選択するのかを考察し直すことでその歴史的意義を述べて本作を閉めたい。
最終考察壱 再度考える、「夜襲は卑怯」か?
冒頭でも述べたが、夜討ちは時に卑怯とされ、時に勝敗を左右する有効戦術とされた訳だが、何と云っても戦である。「兵は詭道なり」と云う言葉も存在する様に、「戦争に卑怯もへったくれも無い。」と考えて戦場に臨んだ将帥は歴史上に何百人何千人と存在したことだろうし、夜襲を「卑怯!」と云えば、すべての奇襲・不意打ち・予告なき襲撃は「卑怯!」という事になる。
百歩譲って夜襲が卑怯だとしても、いくつもの夜襲を検証してみるまでも無く、和睦や交渉を装った不意打ち(例:松前藩によるシャクシャイン謀殺)や、戦時でもない丸腰を狙った襲撃(長田忠致による源義朝の風呂場での暗殺)約定を反故にした騙し討ち(織田信長による長島城開城直後の一向宗徒に対する一斉銃撃)に比べれば、夜襲の卑怯度なんて可愛いものだろう。
何せ、夜襲は食らう方も堪った者ではないが、行う方にとっても決して楽な戦術ではない。「朝起きて、昼働いて、夜眠る。」という生活のリズムを崩す行動が伴い、首尾よく敵の不意を突ければ大勝・快勝も夢ではないが、逆に読まれることで不利な勝負を強いられた際は目も当てられない。
夜襲を仕掛けながらそれに失敗し、敗れれば様々な意味で酷い疲労に襲われることだろう。夜襲には諸刃の剣的な面もあり、それゆえに味方の犠牲を少しでも少なくし、効果的な勝利を挙げ、劣勢者が強者に立ち向かう術としてはまだまだ「卑怯と云う程のこともない。」と見做されるのだろう。
最終考察弐 採用され続ける夜襲と好悪の度合い
いずれにせよ、夜襲は歴史上、何百回、何千回と行われた。その要諦は相手の油断を突くことに在り、つまるところ、「如何に有利な形勢で戦うか?」が練られたことで夜襲を初めとする奇襲は行われ続けた訳である。
そしてそんなことを想いながら七つの夜襲を検証した。夜襲の中には単発的な戦果を収めた程度のものもあれば、味方の完全勝利を決めたものあれば、その後の戦局を大いに優勢たらしめたものもある。そんな数々の夜襲を検証して、ふと思った。
「みんな、好き好んで夜襲を行ったのだろうか?」
と。
各夜襲において、「これは有効!」と思って敢行されものもあれば、不利を覆す為に「これしかない!」と断じられたものもあれば、そもそもが謀叛や反逆を目指した故に迅速且つ密かな勝利を挙げる為に選ばれたものもあるだろう。
詰まる所、夜襲は戦に勝つための一手段で、そこに卑怯か否かはともかく、好きも嫌いもないだろう。
だが、一方で、敢行された夜襲に対して「お見事!」と云いたくなったもの(河越城の戦い・厳島の戦い・本町橋の夜襲)もあれば、どこか「卑怯」とのイメージが先立つもの(保元の乱・山木館襲撃・本能寺の変)もあれば、「何だこりゃ?」と云いたくなったもの(富士川の戦い)もあった。この違いは何処から来るのだろうか?
恐らくは以下の要因でイメージが決まると思われる。
・「戦術としての巧みさ」と「寝込みを襲う卑怯さ」の度合い比較。
・多勢を相手にしたか否か。
・売られた喧嘩か否か。
・夜襲敢行者への感情移入。
本作で採り上げた事例で云えば、厳島の戦いや河越城の戦いは事前に偽情報を駆使した巧みさ、圧倒的不利を覆した見事さがある故、卑怯イメージはかなり軽減されている。
逆に元々兵数的に有利だった上、敵方が「卑怯」として行わなかった夜襲を行った保元の乱における後白河天皇方の夜襲のイメージは余り良くない。極端に卑怯とも見られていないと思われるが、上皇方で藤原頼長が卑怯な戦術として止めたことも大きいだろう。
一方、本作で採り上げたものではないが、元寇・弘安の役における、元の戦船へ小舟で斬り込んだ鎌倉幕府軍の夜襲を「卑怯!」と呼ぶ日本人は僅少と思われる。それというのも、元寇は日本側が受けた戦、つまりは「売られた喧嘩」で、戦の仕方が全く異なることで大きな打撃をこうむった文永の役を教訓に、防塁でもって敵軍の上陸を防ぎ、逆襲に出る行為を卑怯とは見做さないだろう。
もしかしたら、モンゴル人の中には「卑怯」と思う人もいるかも知れないが、日本サイドに立てば、「そっちから攻めてきておいて文句云うな。」と云う話であるし、(戦の仕方が違うとは云え)名乗りを上げている最中に射掛けたことや、先陣切った単騎武者に大勢で襲い掛かる戦法の方を卑怯と云いたくなる。
そして人間は感情的に味方した方が採った手段は多少卑怯でも、「作戦」として受け入れる。例えば、本能寺の変で見ると、織田信長ファンは明智光秀に対して僅かな供回りしかいない隙を突いたことを(主君への反逆と云う大罪もあって)「卑怯!」と罵るだろうし、信長が嫌いで光秀が好きな人物なら「千載一遇の好機を逃さなかった!」として蔑視しない傾向が強いだろう。
夜襲とは少しそれるが、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃も、日本人なら「手違いで宣戦布告が遅れただけで、騙し討ちなど考えていなかった。そもそもそれ以前に日米の戦力差を考えたら、早期に大打撃を与えて有利な講和に持ち込むしかなかったし、それ以前に『ハル・ノート』など突きつけられたらそうするしかなかった!」と考えたくなる。しかし、やられたアメリカ人にしてみれば「Remember Peal Harbor!」の一言である。
「正々堂々」・「正面突破」を是とすれば、確かに夜襲を初めとする奇襲は好ましくない。一方で「普通に戦ったら確実に負ける………。」となった場合、夜襲・奇襲を白眼視する度合いは減る。余程信長のことが嫌いな人でも、桶狭間の戦いにおける奇襲を「卑怯」とは云わない。偏に、巧みな戦術で敵将・今川義元の首を取り、両者の力関係を大きく逆転させる端緒となったことを誰もが「見事」と思えばこそで、逆に一戦に敗死した義元の方が、ただ一度の落ち度の為に長く、それまでの栄耀栄華も無視され、白眼視されて来た(昨今は見直されつつありますけどね)。
結局、余程夜襲を初め、ありとあらゆる戦術に対して卑怯か否かを定義づけ、万人がそれを受け入れることでもない限り、時と場合に応じて夜襲と云う戦法は取られ続けるのだろう。
最終考察参 夜襲以前に戦争を辞めて
戦史を考察していて、常々思うのが、「今の日本が平和で良かった。」ということである。隣国との揉め事に「遺憾だ。」しか云えず、アメリカの顔色を窺い続ける日々に「平和ボケ!」、「自己防衛力を高めよ!」、「専守防衛だけでは駄目だ!」との声もあり、その是非は一概には語れないが、それでも昭和二〇(1945)年を最後に約八〇年に渡って侵さず、侵されずの日々が続いているのは稀少で、大切なことだと思う。
そして、本作の制作を始めてから完成までの間に、某合衆国大統領が云っていた、「私が大統領に返り咲いたら一日で終わらせる!」と豪語していた某戦争は結局終わっていない(令和七(2025)年三月七日現在)。そして日本はともかく、世界史において戦火は途絶えたことが無い。
結局のところ、「夜襲」を初めとする戦争に対するピンポイントな考察を、独断と偏見で展開出来るのも今、薩摩守が平和な国・日本にいればこそである(戦時下にあれば、拙サイトは即行で閉鎖に追い込まれるだろう)。
最後の最後の殆ど夜襲とは関係ない話を持ってきたが、夜襲に対して「卑怯か否か?」を考察出来る平和の尊さと、世界のすべての国が安心して戦史を語れる国になることを祈念して本作を締めたい。
令和七(2025)年三月七日 戦国房薩摩守
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令和七(2025)年三月七日 最終更新