第漆頁 本町橋の戦い……はい、依怙贔屓で加えました

夜襲の行われた戦い本町橋の戦い
夜襲日時慶長一九(1614)年一二月一七日
夜戦場本町橋
攻撃方塙団右衛門
守備方蜂須賀至鎮
勝敗夜襲側の快勝
卑怯度


背景 本町橋の戦いとは大坂冬の陣の一幕である。
 周知の通り、大坂の陣は徳川家康が大坂城を攻め、豊臣家を滅ぼした戦国最後の戦いである。実際、既に徳川幕府を頂点とした幕藩体制はほぼ盤石化しており、六七万石の一大名に陥った豊臣秀頼が徳川の天下を覆し得る可能性はなきに等しかったが、そんな状態でも徳川方・豊臣方双方に開戦を望む者達が少なからず存在した。

 徳川方では家康を初めとする重臣達が、秀頼の将来性を警戒し、豊臣恩顧の有力大名達がいつか秀頼を担ぎ上げて幕府に反逆する可能性が有ると見て、早い内に豊臣家を滅ぼすべしと考え、方広寺鐘銘事件を用いて半ば強引に開戦に漕ぎつけた。
 一方で、豊臣方には大名は誰一人として味方しない一方で開戦を望む者達が集結していた。
 早い話、浪人衆である。

 ある者はキリシタン故に幕府体制下で生きられず、ある者は関ヶ原の戦いにおける戦後処理や、幕藩体制下の改易処分で御家断絶の煽りを食って路頭に迷っていた者達だった。一か八か勝つことが出来れば、前者はキリスト教の禁じられない国が築けるかもしれないとの期待を抱き、後者は一大名に返り咲けるかもしれないとの期待を抱き、最悪勝てずとも武士らしく誇りを持って散ることが出来ると考える者達が集まった。
 有名なところでは真田信繁(幸村)、後藤又兵衛、薄田兼相、長宗我部盛親等の名が挙がるが、その中に我等が塙団右衛門(直之)もいた………えっ?そう思っているのは薩摩守だけ?(苦笑)

 だが、明日をも知れない身で一か八かに賭ける浪人衆はともかく、豊臣家中枢部の戦意は決して高くなかった。彼等は豊臣家の滅亡は何としても避けたいと考え、戦闘の多くは小競り合いや防御戦に終始し、外堀や真田丸の防御力が功を奏している間に講和に向けた交渉も始まっていた。

 慶長一九(1614)一一月一八日に徳川家康が茶臼山に着陣。翌一九日に木津川口の戦いを皮切りに戦闘状態に入り、一週間後の二六日には鴫野・今福で、二九日に博労淵、野田、福島において戦闘が行われ、数ヶ所の砦が陥落したことで豊臣方は三〇日に残りの砦を破棄して大坂城に撤収した。
 そして月が替わって一二月に入り、三日と四日に真田丸での戦いが展開されたが、同日、早くも淀殿の叔父である織田有楽斎が家康の命を受けて和平交渉を始めた。
 八日・一二日に有楽斎と大野治長が本多正純と講和について書を交わし、一五日に豊臣方は淀殿を人質として江戸に差し出す替わりに加増を条件とした和議案を提出した。しかし、加増分が浪人衆に分けられることで豊臣家の力を増大させんとしていると睨んだ家康はこれを拒否した。
 同時に家康は夜中に鬨の声を挙げたり、大砲を放ったりして、大坂方の中枢を占める女性陣の睡眠を妨害し、不安を与える策に出た。この策は功を奏し、しかも一発の砲弾が淀殿のすぐ近くに着弾し、数人の侍女が即死したことで自ら甲冑を着込んでまで浪人衆を鼓舞していた淀殿の戦意はあっさり崩壊し、和議は急速に進んだ。

 交渉は一八日より徳川方の京極忠高の陣において行われた。忠高の亡父・高次の正室・常高院は淀殿の妹で、一方では将軍徳川秀忠の御台所・崇源院の姉でもあり、徳川・豊臣の双方を繋ぐ者としては適任だった。
 徳川方ではそこに家康側近・本多正純、家康側室の阿茶局が交渉に参加し、結果、一九日には講和条件(堀の埋め立て)が合意され、翌二〇日に誓書が交換された。

 だが、これは戦闘による手柄を立てたいと逸る浪人衆には面白からざる話だった。戦が終われば手柄の立て様が無くなるし、戦果無く豊臣家の勢力が伸びないと豊臣家家臣として仕官し続けていられるかも怪しかった。
 中でも我等が塙団右衛門(←道場主「その表現はもうええっちゅーねん。」)はこの一戦に賭けるある想いがあった。それは旧主・加藤嘉明を見返すことだった。

 そもそも団右衛門が浪人したのは関ヶ原の戦いにおける独断専行を咎められてのことで、嘉明から「お前は一生隊の指揮を執れる者にはなれない。」と叱責されたことに憤慨したことで団右衛門は加藤家を致仕した。
 この出奔を怒った嘉明は「奉公構え」と云う報復に出た。つまり、我が門下を出奔した者を不届き者として仕官させないように圧力を掛けるもので、これにより団右衛門は仕官した福島正則の元を去らざるを得ず、それ以前に嘉明の圧力に屈しない小早川秀秋(豊臣秀頼義兄)や松平忠吉(家康四男・秀忠同母弟)に仕えたときもあったが、不幸にして両者とも嗣子なく早世し、団右衛門は浪人を繰り返していた。

 奉公構えに対する怒りもあって、団右衛門は何としても嘉明を見返したいとの想いを抱いていた。それは単に勝利するだけではなく、自身が一軍の将として采配を執れると云うところを見せつける必要があった。
 生憎、嘉明は豊臣恩顧の大名として秀頼に味方することを懸念され、黒田長政・福島正則とともに江戸城留守居役を名目にした軟禁状態にあり、戦場には在陣していなかったので、その分人口に膾炙する様な、目立つ活躍を必要があった。

 前述した様に、一二月一六日に身近に砲撃を受けたことで、それまで豊臣方首脳陣の中で主戦派急先鋒だった淀殿の戦意が急速に萎え、講和成立までに手柄を立てる為に残された時間は少なく、翌一七日、団右衛門は徳川方に一泡を吹かせるべく、独断専行的軍事行動に出た。


襲撃 元々大名または大名の身内だった真田信繁や長宗我部盛親に比べれば塙団右衛門の元々の出自は決して高くなく(石高では一〇〇〇石)、豊臣軍で与えられた地位も高くなく、大野治房(治長の次弟)の配下に置かれていた。
 その治房だが、一一月末に各所の砦が次々と落とされたことを受けて、長兄・治長が船場、天満の砦を捨てて大坂城の守りを固めようとしたのに反対したため、半ば治長に騙されるように城内に呼び戻され、拘束されたことがあった。
 その間に治長配下の者達が砦に火を放ち、それが為に砦を幕府軍に占領されたことで治房は面目を失い、配下の団右衛門御宿政友等と夜襲による反撃を画策した。
 当初、一二月一五日を予定されていた夜襲だったが、岡部則綱や石川外記が参加希望し、少人数での決行を予定していた団右衛門が則綱・外記に対して難色を示し、両者は対立したことでこの日の夜襲は中止となった。
 両者の諍いは政友が調停したことで何とか収まり、大坂城内での和睦への傾倒が進むのを案じたことで改めて一七日に夜襲が行われることになった(後の話だが、このとき対立した団右衛門と則綱は大坂夏の陣樫井の戦いに際しても対立し、これが遠因となって団右衛門は討ち死にした)。

 そして一二月一七日、午前二時頃、団右衛門政友米田監物と共に八〇〜一二〇名の小隊を率いて大坂城を出た。標的は本町橋近くに陣取る蜂須賀至鎮軍で、陣の守将は重臣の中村右近重勝だった。
 本町橋のある本町は現・大阪府に在って大阪環状線の中央にして、中央線・谷町線・御堂筋線・四ツ橋線といった市営地下鉄の各線が止まる交通とビジネスの要衝で、大坂城とも指呼の距離にあった。
 このとき大坂方は防衛の為に多くの橋を焼き落としていたが、この本町橋は残され、その近くに中村隊は駐屯していた。

 午後二時半頃、夜襲は始まった。

 普段なら先頭に立って敵陣に斬り込むことを好む団右衛門だったが、この時は違った。

 本町橋の上に床几を置き、そこに腰掛けると自らはその場を動かず、指揮者に徹し、塙隊、御宿隊、米田隊に抜刀させて中村陣に斬り込ませた。偏に一軍を率いる指揮者として能力を否定した旧主・加藤嘉明を見返す為だった。
 このとき、中村隊は完全に油断していた。兵の多くは睡眠中で、不寝番の兵も餅を食って談笑しており、普段は油断をしないことに定評のあった重勝も何故かこの時に限って具足を脱いでいた。

 夜襲部隊は油断していた中村隊を次々と討ち取り、重勝も兜を突けることも叶わぬ状態での応戦を余儀なくされ、六名に打ち掛かられ、討ち死にした。そして本隊からの援軍が駆け付けて来るのを察知した団右衛門は退却を下知。そしてここで床几から立つと「夜討ちの大将 塙団右衛門と書いた木札を大量にばら撒いて敵味方に「塙団右衛門、ここに在り!」的な人生最大の自己顕示欲を満たしてその場を去ったのだった。


夜襲の効果 敵の虚を突く意味において、本町橋の戦いは完全に成功した夜襲戦だった。
 が、大局的な目で見れば、この勝利は戦局を大きく左右したり、敵軍に大打撃を与えたり、と云った戦果を為した訳ではなかった。あくまで「徳川方に一泡吹かせた」程度の勝利だった。

 夜襲を敢行した大阪方の兵数は八〇〜一二〇で、夜襲を受けた中村隊は二〇〇名程だった。確かに徳川方総勢三〇万、豊臣方二〇万という総員に比べると全軍の一〇〇〇分の一にも満たない数における者同士が僅かな時間を争った、小競り合いの域を出るものではなかった。
 勿論、この勝利を挙げたからと云って、豊臣方が勝利を収めたり、講和条件を好転させたりした訳でもなかった。
 ただ、前哨戦のリベンジにこだわった大野治房と、旧主を見返さんとして参戦した塙団右衛門には意義のある勝利だった。
 まず、小規模ながら、中村隊襲撃は完全成功を収めた。守将・中村重勝を討ち取ったのを初め、約一〇〇名が討ち死にした。中村隊の総勢は約二〇〇名で、その半数を失ったことになるが、通常軍隊は半数を失えば組織抵抗が不可能となり、「全滅」とされる。
 しかも、大坂方の戦死者数は一〇名程で、中には「戦死者一名」とした記録すらある。元々動員した兵数が少ないことを考慮しても極めて低い戦死率と云えよう。そして僅少の犠牲で敵軍を全滅したに等しい戦果を挙げた訳で、数はともかく、質的には完全勝利と断言して良いだろう。勿論、自身の名を世に大きく広げたという意味でも、団右衛門は積年の願いを達成したのだった。

 「旧主を見返す」と云う目的の為、この夜襲において団右衛門は敢えて自らは武器を手に取らず、すべてを部下任せにした上で、かかる完全勝利を為したのである。この夜襲に対して加藤嘉明がどう思っていたかの記録は見当たらないが、如何な嘉明でもこのときの団右衛門の指揮官振りに文句をつけることは出来なかったと思われる(それゆえ記録に残っていないとも)。
 決して歴史や大戦の対局を動かした様な大戦果ではなかったが、一戦における駆け引きの巧みさにおいては本作にて採り上げた数々の夜襲の中でも屈指と云って良いのではないだろうか……………………何?塙団右衛門が好きだから依怙贔屓で採り上げた?………はい、その通りです(笑)。




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令和七(2025)年三月七日 最終更新