在朝日本武将 意外な一面




小西行長 君命と信仰の板挟み
概略 小西行長という男は知名度はあるのだが、人気や注目度という点ではどうも肥後統治や朝鮮出兵先鋒のライバルである加藤清正や関ヶ原の盟友・石田三成の後塵を拝している。
 だが朝鮮出兵に関しては戦場でも外交でも誰より尽力しているといっても過言ではない。賛否両論あるとは思うが、注目すべき興味深い行長の行動は多い。

 そもそも行長が第一軍大将、つまり先鋒とされたのは彼の出自が大きく関連していたと見える。
 堺の貿易商の家に生まれた行長−父の隆佐(りゅうさ)は朝鮮人参や蜂蜜や白粉を貿易で商う豪商だった。朝鮮以外にも明、天竺、琉球、呂宋(ルソン・フィリピンのこと)、シャムにまで野望を持つ秀吉が国際情勢に通じる職業層に縁故を持つ行長に白羽の矢を立てたのは当然の成り行きといえた。

 秀吉は対馬の宗義智に朝鮮国王に使いして明攻略の先導をさせるよう厳命し、行長にその監督を命じたが、両人とも全くの無謀であることをよく理解していた。
 行長の娘は義智の婿であり、義理の親子は苦慮した挙句、秀吉と朝鮮国王の双方を「騙す」ことを画策した。つまり双方に対して相手が友好を求めているかのごとき伝えて、徳川家康、前田利家、豊臣秀長、千利休、石田三成等も出兵に反対または消極的であることに一縷の望みを託していたのであった。

 堺出身の行長も対馬の宗氏も、朝鮮との戦争は貿易を荒廃させるもので望むところではなかった。
 ましてや行長はキリシタン(洗礼名・アグスチノ)で、戦争はますます望むところではなかった。
 だが、秀長の死、愛児鶴松の夭折に心を荒ませたのか、狂った独裁者・秀吉には徐々に歯止めが効かなくなり、利休は切腹させられ、家康・利家を持ってしても秀吉の朝鮮出兵は止められず、最も戦争を嫌った筈の行長は皮肉にも先鋒として渡海する事となった。

戦中 はっきり言って、文禄・慶長の役での小西行長の事蹟を列挙するとそれだけで独立したサイトができてしまう(苦笑)。
 そこでこの行長に関しては日付や地名での解説は省き、進撃と講和交渉の二面で見てみたい。

 天正二〇(1592)年四月一二日に、自身肥後宇土の領主である行長は宗義智、松浦調信、有馬晴信、大村喜前といった九州大名と第一隊一万八七〇〇を率いて釜山に上陸した。
 周知の通り快進撃を続け、上陸から二〇日足らずで首都・漢城(ハンソン)を落とした行長は、しかし、平壌を落としたところで二ヶ月足らず後に明の沈惟敬(チェン・ウェイチン、ちん・いけい)と講和の交渉を行っていた。

 元より小西と宗は戦争の無謀−秀吉の野望の叶わざることをよく知っていた。
 太平洋戦争に例えるなら帝国陸軍や一般国民がアメリカを降伏させられると考えている中、一年の優位の内に快勝を収めて有利な講和を結ぶしかない、と考え、あくまで戦争には反対だった山本五十六に酷似している。
 徹底進軍を目指す加藤清正とはもめたが、総大将宇喜多秀家に仲介させて、交渉中は漢城に留まることを妥協させた。しかし交渉は話し合い直前に戦端が開かれたりした(日本側に非のある時もあれば、朝鮮側に非がある時もあった)ために難航した。
 また沈が要求したのが全面撤退であったことも話を難航させた。

 戦況は水軍による補給線の撹乱や義兵の勃興で泥沼化し、当初朝鮮を眼中においてなかった秀吉も妥協の色合いを強めるが、高飛車な態度は変わらなかった。
 講和条件は「石田三成」の項にも書いた、到底明・朝鮮が受け入れるとは言い難い七箇条(天皇と明の皇女との婚姻、朝鮮の人質差し出し、南朝鮮の割譲等)を突き付けようとした。
 この時先鋒の小西勢・加藤勢は約半数の兵を失っていた。
 勿論一度に失ったわけではないが、もし軍隊が一度の戦で兵の二割も失えば惨敗、五割も失えば組織的行動が不可能となって「全滅」とされる。長期的に見ても半数の兵が戦死・逃亡すればとんでもない苦戦と誰もが捕え、厭戦気分の蔓延は避けられなかった。
 秀吉に愚直だった清正でさえ別途に講和の交渉を行っていた。

 文禄二(1593)年四月上旬に、今度は行長と清正が沈惟敬と同時に会い、五月一五日に謝用梓、徐一貫を伴って肥前名護屋に戻った行長は、六月二日には釜山にとんぼ返りし、朝鮮の二人の王子の送還と慶尚道晋州(チンジュ)城の攻略を諸将に伝えた。
 少なくとも南朝鮮を戦果にせんとの秀吉の意図から晋州城奪取を厳命されていたからであった。

 一方で行長は腹心の内藤如安を沈惟敬と供に日本へと向かわせた。
 そして謝用梓・徐一貫が明に帰国する為に肥前名護屋を発った六月二九日に合流した黒田勢の助力も得て小西軍は供に城壁を破り、金千鎰(キ・チョンイ、きん・せんいつ)以下城兵を全滅させて晋州城を陥落させた。ここに文禄の役は一応の終結を見た。

 だが、膝を屈することを知らない豊臣秀吉と明皇帝を前に交渉はまとまり様もなかった。
 行長は三成と供に秀吉の要求を沈惟敬達に伝えたが、「受諾後は好きなように皇帝に伝えればいい。」と助言し、困り果てた沈惟敬は「関白降表」という秀吉が日本国王任命と交易を求めている、と虚偽の報告をした。
 秀吉が高飛車な要求をしていると夢にも思っていない明皇帝は秀吉を日本国王に冊封し、貿易を認めず、朝鮮から撤退し二度と侵略しない旨を冊封正使・李宗城(イ・ツォンヤン、り・そうじょう)に伝えさせようとした。
 ところが日本に向かう途中に朝鮮で秀吉の七条件を知った李宗城は明皇帝と秀吉の思惑の相違に愕然とし、任務放棄して逃げ出した(笑)。
 止む無く行長は沈と相談して副使だった楊方亨(ヤン・ファンホエン、よう・ほうきょう)を正使に昇格させて会談が成立した。

 この時、行長と三成は国書を読む僧の承兌(しょうたい)に秀吉の機嫌を損ねる所は読まないように要請するが無視された(笑)。
 天下人に嘘をつくという畏れ多い無理強いをキリシタンである行長に強要された仏教徒の承兌がへそを曲げた、というのは穿った物の見方だろうか?
 自分の出した七箇条に触れられていないことに激怒した秀吉は再出兵を会談翌日には決定、小西行長の真骨頂はむしろここから発揮されたのだった。

 薩摩守、ひいては道場主は仏教徒であるが、基本原則として信仰心の大切さを重んじているので、キリスト教でもイスラム教でもその教義に尊さには理解を示しめしているつもりであることをお断りしておきたい。その上で論述したいのが、キリシタンとしての行長の真骨頂が発揮されたという事である。
 何度も言うが、行長は戦の無益・無謀を理解していた。ましてや秀吉と明皇帝の主張が平行線である以上、戦の終わりは誰にも見えなかった。
 行長に出来ることは、敵味方問わず、犠牲を一人でも少なくすることだった。これぞキリスト教の博愛精神であった。

 慶長二(1597)年二月、慶長の役が始まり、行長は今度は第二隊として総勢一万四七〇〇の兵を率いて渡海した。
 行長を初めとする日本軍は忠清道、全羅道、慶尚道といった朝鮮南部を主戦場に転戦した。
 慶長二(1597)年六月、行長は部下を朝鮮軍に遣わし、八月に二つの進路から全羅道へ侵攻することを伝えさせ、進路上の老人・女子供を避難させ、米穀を刈り取って、日本軍の兵糧にさせない様に忠告させた。
 いわゆる焦土戦術であり、帝政ロシアがナポレオンを破った戦術でもある。しかも行長はご丁寧にも、前回の文禄の役でも晋州城攻略の折に同様の忠告を行ったが、朝鮮側がそれを無視した為に落城の憂き目を見たことも併せて伝えた。

 軍隊の常識から考えれば、「無辜の民衆を巻き込みたくない。」という信念があったとはいえ、これは重大な機密漏洩−裏切り行為であり、発覚すれば打ち首になっていても文句の言えない行為であった。
 行長の情報を朝鮮側が巧みに利用すれば日本軍に大きな犠牲が出ることも考えられた訳だから、博愛精神の観点から見ても全面的な賛成には逡巡するものがある行為であった。
 ただ言えるのはこの行長の行為は生半可な信仰や精神で出来ることではない、という事である。
 行長の行動を是とするも、非とするも、どちらとも定めないのも受け取る個々人に委ねるしかないが、薩摩守は少なくともその信念の重さだけは受け止めたい。
 だが、哀しいかな、朝鮮側は今回も行長の忠告を無視し、南原(ナウォン)・全州(チョジュ)において女子供も犠牲となり、秀吉が敵の首級代わりに鼻を送ることを命じたこともあって多くの朝鮮官民の耳や鼻が日本に渡ることになった。
 有名な京都の耳塚がその証である。前述の承兌によるとその数五万を下らないと云う……。

 慶長三(1598)年八月一八日、豊臣秀吉の病死により朝鮮からの撤退が決定し、二ヶ月を経て戦は終了した。無益な殺生をせずに済むことになったのが行長が敬愛する秀吉の死によってもたらされたことを悟った時の行長の心境の複雑さはいかばかりであっただろうか?

戦後 情報改竄、機密漏洩、虚偽強要……考えてみれば小西行長はよく命が有ったものである(笑)。
 ともあれ秀吉薨去の二年後、関ヶ原の戦いに従軍し敗れた行長はキリスト教の教義上自害はできず、美濃糟賀部村の寺の僧と関ヶ原の住人・林蔵主の元に出頭して捕えられ、石田三成、安国寺恵瓊とともに刑場の露と消えた。
 その際に告悔の秘蹟というカトリックの儀式を受けられなかった行長の遺体は信徒達によって改めてカトリック式の改葬を受けた。

 時代は下って大正時代に徳富蘇峰は『近世日本国民史』において慶長の役での全羅道侵攻の際の通報を「売国奴」とした。
 尽力の割りに小西行長の事蹟がいまいち有名でないのはこの位置付けが行長への注目を阻んだからではあるまいか?




小早川隆景 快勝と惨敗と毛利一族の未来
概略 謀将・毛利元就の三男にして小早川家を継いだ小早川隆景は父・元就の遺命によく従い、甥の毛利輝元をよく補佐し、豊臣政権下においても輝元と供に五大老としても政治に参加しつつも、秀吉が毛利乗っ取りを企んで甥の秀秋を輝元の養子に押しつけようとした時はそれに先んじて小早川家の養子にもらい受けたり、とどこまでも実家のために尽くした。

 戦っていた時から秀吉を買っていた隆景は、備中高松城の水攻め時には城主・清水宗治を何としても助けたい一心もあって、五ヶ国割譲まで申し出て秀吉と交渉した。結局は本能寺の変の為に宗治の切腹が和睦の条件となり、隆景は宗治を惜しんで号泣したが、宗治は五〇〇〇の城兵のために莞爾として切腹し、以後秀吉とも良き関係を築き、諸大名からも頼りとされた。

 慶長二(1597)年に没した隆景にとって、朝鮮半島は人生最後の戦場となった訳だが、そこには父の謀将振りを受け継いだ隆景の彼らしい快勝と彼らしからぬ惨敗の両方が見て取れて興味深い。

戦中 天正二〇(1592)年に文禄の役が始まると、筑前名島領主の小早川隆景は筑後久留米領主・小早川秀包(こばやかわひでかね:元就九男でこの時は隆景の養子)、筑後領主・柳川立花宗茂、筑後三池領主・高橋直次等とともに築州兵一万五七〇〇を率いて第六番隊として渡海した。
 七月九日に錦山(クムサン)で義兵の先駆け・高敬命(コ・ギョンミョン、こう・けいめい)を討ち、七月一〇日に全羅道全州(チョジュ)で朝鮮軍の李洸(イ・クァン、り・こう)と戦った。

 主に全羅道を転戦した後に首都・漢城に入った隆景は八月七日の軍議に加わり、「八道国割」では全羅道を担当することとなった。だが、この全羅道が日本軍北上の足枷となってしまった。
 高敬命の戦死は金千鎰(キ・チョンイ、きん・せんいつ)を初めとする全羅道義兵の怒りに火を着け、戦上手の隆景が錦山から先に進めず、やがてはそこも撤退せざるを得なくなった。
 更には細川忠興率いる第九隊も晋州城を攻略し切れず、文禄の役陸上戦最大の痛恨事となった。

 合戦・宣撫供に概ね良好だった南朝鮮が日本軍に治め切れなかったのは偏にこの全羅道を押さえられなかったことにあり、戦上手の小早川隆景の生涯でも一大痛恨事だっただろう。
 「全羅道抜き難し」と見た隆景は首都漢城の北・開城(ケソン)へと向かった。しかし文禄二(1593)年に入るとついに明より李如松(リ・ルウスン、り・じょしょう)が鴨緑江を渡って援軍にやって来た。
 それまで鉄砲で優位に立っていた日本軍だったが、明の大軍・大砲の前に小西行長は平壌撤退を余儀なくされ、一月一六日に開城で隆景と合流したが、ここも五日後には黒田長政ともども撤退し、一月二六日に漢城北西一八キロの碧蹄館(ペチェグァン)の戦いを迎える苦戦振りだった。
 が、この碧蹄館こそが朝鮮出兵における小早川隆景最大の花舞台だった。

 碧蹄館の戦い−午前七時に立花宗茂が兵三〇〇〇でもって敵兵二〇〇〇を破ると北方の隘路で敵兵七〇〇〇と遭遇した。
 午前一〇時に隆景軍の先鋒の井上景貞(兵三〇〇〇)・粟屋景雄(兵三〇〇〇)が左右に別れて敵兵挟撃に移り、立花勢は後方の山地に退いた。
 隆景が左翼の粟屋勢を退かせると明軍は追撃に移った。そこへすかさず右翼の井上隊が背後を突き、粟屋勢も反転して挟撃した。
 戦機を見極めた隆景は立花勢を左に、秀包・毛利元康(元就八男)勢を右に大きく迂回させ北方へと進ませ、自らも前進すると明軍を撃破し、更に北上した。
 そして北で来援の明軍を三方から銃撃を交えて挟撃した。明の大軍も騎馬隊も泥沼化した狭隘の地に身動きままならず、六〇〇〇の兵を失って退却した。地形と戦術を巧みに利用した小早川勢は快勝を収め、首都・漢城の防衛を果たした。

 余勢をかって二月二〇日に隆景は宇喜多秀家を大将とする三万の軍に加わって、漢城の北西、碧蹄館の南西・幸州(ヘジュ)山城の権慄(クォン・チュ、ごん・りつ)を攻めた。
 隆景は先年に全羅道で権慄に敗れたことがあるのでその雪辱もあったが、義兵・僧兵・婦女子までもが徹底抗戦する中に攻めきれず、小早川軍の中でも吉川広家も負傷。やがて文禄の役は終息に向かった。
 和議交渉が進む中、隆景は七月に慶尚道熊川(ウィチョン)に退き、八月には帰国命令を受けたが、在陣中より思わしくなかった体調のこともあり、帰国を遂げたのは閏九月だった。

戦後 吉川広家と安国寺恵瓊の見送りを受けての帰国後、小早川隆景は秀吉の正室・おねの兄の五男・秀秋を養子にもらい受けた。
 既に秀包が養子になっていたにもかかわらず。秀秋を迎えた隆景は一一月には秀秋を宍戸隆家(姉婿)の娘と結婚させた。自らの余命が短いのを知ってのことである。秀秋の家督相続はその一年後のことだった。

 慶長二(1597)年三月、慶長の役が始まり、養子の秀秋も渡海した。元秀吉の養子である事が影響してか、総大将としてである(もちろん初陣ゆえに仮の存在だが)。元養子の秀包も分家の立場で渡海した。
 隠居にして病身ゆえに国内に留まった隆景は出陣の挨拶にきた秀秋、安国寺恵瓊、毛利秀元(輝元養子)等と今生の別れとなることを知ってか知らずか、最期の先見の明を発揮した。
 恵瓊には仲の悪い吉川広家と仲良くする事を託し、秀包には名刀を贈った。輝元には野心を持たず、分をわきまえるよう遺訓を残した。そして慶長二(1597)年六月一二日に息を引き取った。

 名将・小早川隆景の死は毛利一族の誰もが悲しんだ。
 朝鮮の地で訃報に接した恵瓊は隆景の死で毛利が軽く見られかねない今後を嘆き、広家は「後、五、六年生きて欲しかった。」と述懐し、秀吉も「才知が人の寿命を延ばすのであれば、隆景は百まで生きたであろう。如何ともし難い事だ。」と言ってその死を惜しんだ。そしてその死を境に毛利全盛に翳りが生まれたのだった。

 秀吉の死の二年後、関ヶ原の戦いで隆景の遺訓に反して西軍総大将に担ぎ上げられた毛利輝元は戦後一二〇万石から三〇万石への大減封を食らった。
 吉川広家は家康に通じて関ヶ原で毛利軍を動かさずに東軍勝利に貢献したが、毛利本領安堵の約束を反故にされ、辛うじて改易だけを免れる事のみに成功したが、その為に毛利一族から白眼視され、吉川家は長く毛利一族に加えてもらえなかった。
 安国寺恵瓊は毛利一族の罪を一身に背負う形で石田三成・小西行長とともに斬首された。隆景の慧眼恐るべしである。
 養子・秀秋の末路はこのサイトを見るほどの人には説明不要だろう。




宗義智 外交を知るゆえの苦悩
概略 朝鮮出兵は戦争に関わったすべての大名に少なからぬ損害と労苦をもたらした。しかし様々な意味で最も辛い思いをしたのは対馬と宗氏ではなかっただろうか?
 日本からも朝鮮半島からも互いの玄関口に当たる対馬はその地理的に必然、対朝鮮貿易で栄えた地である。また中国大陸からの侵略の際にはいの一番の標的とされた。
 文永一一(1274)年の文永の役、弘安四(1281)年の弘安の役でも最初に元軍の猛攻を受けて、島民にも多くの犠牲を出した。そして余り知られてはいないが寛仁三(1019)年には女真族による「刀伊の入寇」という一六日間戦争でも対馬は壱岐と供に標的にされ、民衆に大きな被害が出た。

 そんな対馬及び対馬当主にとって朝鮮半島は最も友好に努めたい地である。しかし対馬の領主・宗義智(そうよしとし) は全く反対の役割を課せられた。
 朝鮮半島を対馬の延長ぐらいにしか考えていない国際感覚ゼロの独裁者・豊臣秀吉が、朝鮮国王を日本へ入朝させて、征明の先導をさせるよう厳命したのである。しかも秀吉は天正一五(1587)年のまだ日本を統一していない段階で命じたのであった。
 直接その命を受けたのは義智の父・宗義調(よししげ)だったが、彼はその心労がたたっかのように翌年四七歳で病没し、義智は弱冠二一歳の身で対馬の運命と難題をその双肩に乗せることとなった。

 秀吉が朝鮮を「対馬の延長」としか見ていなかったように、明や朝鮮でも対馬を「朝鮮の延長」としか見ていなかった。第一、宗氏は朝鮮国王から「対馬島王」の図書(辞令)さえ受けていたのである(←これを根拠に「対馬も韓国領だ!」とほざく一部の韓国人がいる。ふざけた奴らである)から、地理や頻度の問題としては明らかに朝廷や幕府より朝鮮との結びつきの方が強かった。
 日本の一大名が外国の王から官位をもらうのは問題があると言えなくもないが、室町幕府第三代将軍・足利義満が明皇帝から「日本国王」の称号をもらっていた事を考えれば、地理的にも産業的にも朝鮮との関わりを欠かせない対馬の宗氏が独自にそれぐらいの繋がりを持つのは許容範囲のような気もする。ともあれそんな立場の宗氏がどんなに言語を尽くしたところで朝鮮国王が従う筈がなかった。
 幸いだったのは天正一九(1591)年に迎えた妻・マリアの父・小西行長がその監督役だったことであった。
 堺の貿易商の家の出身だった行長は義智に多いに同情してくれた。妻の勧めで自らも受洗していたことも幸いしたのだろう。
 供に国際通で厭戦派だった義智と行長の義理の親子は一先ず朝鮮に対して、秀吉が天下統一を果たしたことを報告する「日本通信使」を送り、答礼の使者を日本に派遣することを要請し、「通信使」を送らせることで「入朝」の体裁を秀吉の前で繕うことにした。
 何とか正使・黄允吉(ファン・ユンギ、こう・いんきつ)、副使・金誠一(キ・ソンイ、きん・せいいつ)を来日させることに成功した義智と行長だったが、どんなに知略を尽くしたところで、秀吉と通信使の双方を納得させる交渉を整えられはずもなかった。
 その後、異父弟・秀長と愛児・鶴松を失い、迷走を強めた秀吉の号令一下、文禄の役が始まり、義智は行長と供に松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前等とともに第一隊として朝鮮半島に渡った。

戦中 戦中の宗義智の行動はその大半が小西行長に準じることになった。さすがに朝鮮に詳しいとはいえ、弱冠二五歳の若さに加え、外様である義智に主導権が渡される筈もなかった。
 宗軍は戦慣れした小西勢とともに四月一二日に釜山(プサン)上陸し、上陸直後に「仮道入明」(道をかりて明に入る)を朝鮮側に申し入れて断られると釜山城主鄭發(チョン・バ、てい・はつ)、東莱(トンネ)城主宋象賢(ソン・サンヒョン、そう・しょうけん)等と激戦を繰り広げると鉄砲隊を駆使して、平和慣れした朝鮮官軍相手に連戦連勝を重ねた。
 殊に六月一四日に平壌攻略前日に朝鮮軍の奇襲を受けた際には、先鋒の将・杉村智清を失ったが、義智は自ら数人を斬り倒しつつ、兵士を叱咤して奮戦した。

 義智にとって、朝鮮との戦いに敗れることは対馬の運命を終らせるに等しく、勝つにしろ、負けるにしろ、戦う以上は戦後の交渉を有利にするためにも「対馬が手強い存在である」とのイメージを相手に与える必要があった。
 それゆえに義智は対馬の一六歳から五三歳までの男子すべてをこの戦いのために徴兵した。若き領主の苦労が偲ばれる。
 キリシタン大名の多かった第一軍は在陣中にグレゴリオ・デ・セスペデス神父の慰問を受けているが、神父はその時会った義智を「極めて慎み深い若者で、学識があり、立派な性格の持ち主」と評した。その柔軟な性格でもって義父・行長と供に明との講和にも当たったが、その辺りの詳細は「小西行長」の項を参照して頂きたい。

 慶長の役でも行長と行動を共にしたが、秀吉の死後、撤退の指示を慶長三(1598)年一〇月二日に順天(スンチョン)で朝鮮の追撃軍を破ったのに前後して受け、一一月一八日に島津義弘、立花宗茂等が李舜臣(この日の戦いで討死)の追撃に大打撃を被りながらも海上封鎖を突破、それに乗じるて南海島(ナヘド)で行長と別れると巨済島(コゼド)を回って釜山に集結し、一一月二六日に全軍の撤退を果たし、益なき戦いを終えた。
 日本軍の中で戦争の最初の日に渡海した宗義智は退却したのも戦の最後の日だった。しかしこの戦を巡る義智の仕事はまだ終わっていなかった。

戦後 秀吉の死から二年、朝鮮出兵で多くの働き手を失い、朝鮮との交易もままならない対馬の荒廃に頭を悩ます宗義智は関ヶ原の戦いにおいて義父・小西行長との誼から西軍についた。
 周知の通り西軍は敗れ、西軍についた大名は八八家が改易、五家が減封された。勿論舅・小西行長は打ち首に処され、肥後宇土は没収され、加藤清正への加増に回されたが、義智は処罰を免れ、徳川随身表明の為に妻・マリアと離別した。これは西軍所属にあって島津と並んで数少ない例外の一つである。
 それは取りも直さず、代々対馬を領有する宗氏には朝鮮との国交回復という利用価値があったからで、宗氏以外の大名に朝鮮との交渉を任せられなかったのが幸いした。
 処刑した小西は論外だし、スペインと交易するほどだった伊達政宗は九州から遠過ぎたし、琉球に対する例を見れば島津義弘では戦争になりかねなかった(笑)。

 徳川家康は義智に朝鮮との国交回復を命じた。江戸幕府を開き、豊臣政権から徳川政権に委譲したことを内外に示す為にも朝鮮との国交回復は格好の材料でもあり、必要不可欠事項でもあった。
 義智は新たに成立した徳川政権は前政権と違って朝鮮との友好を望んでいることを告げ、慶長九(1604)年八月に朝鮮は僧兵の将として日本軍とも戦った惟政(ユ・ジョン、い・せい)が探賊使(←まだ日本に対する敵意が消えてないことが分かる役職名である)として来日させ、惟政は慶長一〇(1605)年一月に大御所・家康、将軍・秀忠と伏見で会見した。

 朝鮮サイドでも女真族の脅威から日本との国交修復の必要性を認識し、慶長一二(1607)年一月に至って朝鮮は四六〇名からなる国交修復の為の通信使を派遣し、義智は彼等の案内役として江戸に同行した。
 使節は江戸城で秀忠と国書を交換し合い、ここに宗氏にとっても悲願だった正式な日本と朝鮮の国交が復活した。
 宗義智は慶長二〇(1615)年に没した。享年四七歳。義智の死後も対馬の宗氏には江戸時代を通じて日本と朝鮮の橋渡しの役割が自然と課せられ、新たな征夷大将軍が就任する度に祝賀の朝鮮通信使が海を越え、対馬を経由して江戸へ登った。




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平成二七(2015)年八月二五日