在朝日本武将 意外な一面

 豊臣秀吉の朝鮮出兵が戦初は目覚しい快進撃を続け、その後義兵の頑強な抵抗や水軍不利による補給困難・朝鮮半島の酷寒に飢えと寒さに苦しむようになり、秀吉の死によって撤退を余儀なくされたのは周知の通りである。
 が、概略ばかりでその実像は余り語られていないと薩摩守は調査の段階で感じた。また俗説が色濃い為に隠れがちな面、目立たない諸将の一面につれてこの頁では触れてみたい。



 石田三成
 加藤清正
 黒田長政
 小西行長
 小早川隆景
 宗義智



石田三成 果たして嫌な軍監だったのか?
概略 言わずと知れた豊臣秀吉の懐刀。経理の才で豊臣政権を支え、五奉行の席次こそ四位だが、後々に関ヶ原の戦いで実質的な総大将を務めたのは今更ここで論述するまでもない史実。
 詳細は拙作「菜根版名誉挽回してみませんか?」を参照して頂きたい(笑)。
 石田三成は一般的に軍監として在朝諸将の査察を行い、その因縁で加藤清正を初めとする秀吉子飼いの武断派を敵に回したとされている。
 概ねその通りである。だが、三成が為したのはそれだけだったのだろうか?また彼の秀吉への報告は全くの讒言だったのだろうか?

戦中天正二〇(1592)年六月三日(全然関係ないが本能寺の変から一〇年と一日後)、石田三成は朝鮮三奉行の一人として残りの二名、大谷吉継、増田長盛と供に渡海した。
 吉継は三成とは親友で、増田は三成と同じ五奉行の一人であった。
 加藤清正と小西行長の両先鋒が破竹の快進撃は続ける中、七月一六日に三成達三奉行は王都・漢城(ハンソン)に着陣。翌月七日に三奉行は黒田孝高・長政父子、小西行長、島津義弘、小早川隆景等とともに軍議を開いた。

 その後戦況は王都・漢城こそ押さえ続けたものの一進一退。翌文禄二(1593)年一月七日に行長が平壌を落とされて漢城に退却すると同二三日に三成達は秀吉に戦況の悪化を報告した。
 三日後の二六日に明・朝鮮連合軍約二万を碧蹄館(ペチェグァン)で狭隘な地形と泥濘な状況を利して明の騎兵を防いだ小早川隆景・宇喜多秀家等が撃破すると勢いは逆転したかに見えたが、翌月一二日に漢城から見て北西、碧蹄館からみて南西の幸州(ヘンジュ)山城にて行われた決戦では権慄(クォン・ユ、ごん・りつ)率いる守備軍に敗れ、三成は負傷した。同様に宇喜多秀家、吉川広家、前野長康も負傷した。
 文官のイメージの強い三成が関ヶ原以前に戦場で負傷をしていたのは意外である。同じ事は秀吉の養子としてお坊ちゃんのイメージのある秀家、関ヶ原で家康に内通して、毛利一族に日和見を決め込ませた広家にも言えることだろう。

 その前後にも加藤清正、小西行長は明との講和交渉を行っており、五月一五日に至って三成達三奉行は明の謝用梓(シェ・ヨンズイ、しゃ・ようしん)・徐一貫(シュ・イグァン、じょ・いっかん)を伴って帰国し、肥前名護屋に到着した。約一年ぶりの帰国だった。
 名護屋での講和交渉は混迷を極めた。何せ秀吉は秀吉で明がへりくだり、朝鮮が降伏してきたと思いこんでいるし、コテコテの中華思想の明皇帝は秀吉が朝貢したがっていると思っている。側近達は側近達で日明ともに我が主君の要求を相手側が受け入れる訳がないのは百も承知であったのだから。
   それでも主命は主命、六月二八日に三成は謝用梓・徐一貫に秀吉の要求七箇条(一、明王女の日本天皇への降嫁。二、勘合貿易復活。三、友好誓紙の交換。四、朝鮮南部四道の割譲。五、朝鮮王子と大臣を人質とする。六、捕虜としたニ王子の変換。七、前記を違約しない旨の朝鮮側の誓紙提出)を突き付けた。
 勿論明の二人は拒否したが、三成は「太閤の強い意志」として譲らない一方で、「明皇帝には好きなように報告すればよい。」と言って秀吉の条件を持って帰らせた。

 翌日、肥前名護屋を発って帰国の途に着いた謝と徐はこの条件を伝えなかったばかりか、「秀吉は恭順と国王任命と朝貢貿易を願っている。」と虚偽の報告を行った。
 翌文禄三(1594)年に沈惟敬(チェン・ウェイチン、ちん・いけい)がこれまた偽造した関白の降伏状を皇帝に提出した為に明皇帝は秀吉に「汝を日本国王に任ずる」と云う、謂わば魏の明帝が卑弥呼に「親魏倭王」として冊封したのと全く同様の返書をしたためた。
 この凄まじいギャップには明から冊封正使として日本に向かっていた李宗城(イ・ツォンヤン、り・そうじょう)が文禄五(1596)年三月に朝鮮半島で秀吉の七条件を知った際に任務を放棄して逃げ出したほどであった(笑)。
 止む無く小西と沈惟敬が相談して副使だった楊方亨(ヤン・ファンホエン、よう・ほうきょう)を正使に昇格させて様々ないざこざの果てにようやく九月一日に至って会見が成立した。

 だが、返書がそのまま読まれれば、七箇条に触れていないどころか勘合貿易を許可せず、朝鮮からの撤退を求める明皇帝の意が秀吉を激怒させるのは火を見るより明らかである。
 三成と行長は返書読み上げ係の僧・承兌(しょうたい)に秀吉の機嫌を損ねる所は読まないように懇願したが無視された(笑)。
 秀吉が激怒したのは周知の通りである。
 ほうほうの態で引き上げた沈惟敬達は「謝恩表」なるものを偽造して皇帝に報告したが、即行でばれて沈は処刑された。秀吉も翌日には再出兵を決定、勿論誰も止めることは出来なかった。

 慶長二(1597)年七月には戦闘が再開されたが三成は今回は渡海しなかった。半年後には病魔が秀吉を襲い、三成は他の四奉行(浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以)、五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・上杉景勝)とともに秀頼の行く末を託され、五奉行・五大老は揃ってその旨に違背無しとの誓紙を秀吉に差し出した。
 慶長三(1598)年八月一八日、秀吉が息を引き取ると、その死を伏せたまま五大老・五奉行は在朝諸将の撤兵にかかった。

戦後 慶長三(1598)年一〇月、石田三成は浅野長政、徳永寿昌(とくながながまさ)とともに朝鮮半島に渡り、秀吉の死は伏せ、それどころか病状は快方に向かっていると偽って、撤退の命を伝えた(←病状を偽ったこと自体は悪い事でも何でもないが)。
 日本に着いた諸将に三成が秀吉の死を告げ、秀頼へのお悔やみ言上を要請し、茶会による慰労を申し出たところ、加藤清正や浅野幸長(長政の子)らと険悪になったシーンを漫画や大河ドラマで見たことのある方々も多いと思う。

 元々秀吉の配下は四つのパターンに分けることができた。一つは彼が信長の侍大将時代から彼に付き従い、戦働きで出世したきた加藤清正、福島正則、加藤嘉明等で、「武断派」とも「尾張派」とも「子飼諸将」とも「北政所派」とも呼ばれる。
 次が秀吉が一国一条の主として近江長浜城主となった際に従った諸将で石田三成、増田長盛、長束正家等、治政面で活躍した為、「文治派」とも「近江派」とも「奉行派」とも言われる。
 第三は信長時代を通じての盟友達で、徳川家康、前田利家等がそうである。第四は外様である。
 つまり武断派と文治派が生粋の秀吉旗下なのだが、前者の後ろ盾に秀吉の正室・高台院、後者の後ろ盾に秀頼生母の淀殿がいたこともあって、両派は仲が良くなかったのは何十年も前からのことだった。

 戦中も(詳しくは加藤清正の項で書くが)小西と清正が別々の講和の道を探っていて、三成は加藤より小西を支持した。
 常日頃の交流によるところがあると見る向きもあるだろうが、薩摩守は和平交渉としては小西の方が現実を見ており、和平をまとめる為とはいえ勝手に「豊臣清正」と名乗った清正にも良くない面があると思う。
 三成はその詐称をご丁寧に秀吉に報告したため清正は帰国・謹慎を命ぜられ、清正は前にも増して三成を恨むようになった。
 ま、これはどっちもどっちといえよう。不遜な清正も清正なら、半ば主君を誤魔化す交渉の邪魔になるからといって激戦中の猛将を引き上げさせる様仕向けた三成三成であった。

 結局これらの確執は戦後にも尾を引き、秀吉旗下の文と武の対立は一人の古狸によって見事に煽られた。前田利家存命中はそれも何とか押さえられたが、利家死後はその枷も取れ、関ヶ原の戦いに及んで西軍の実質の総大将として敗れた彼が刑場の露と消えたのは周知の通りである。




加藤清正 意外な不遜と揺るぎ無い忠義
概略 豊臣秀吉子飼の猛将筆頭として最も名の知られている彼は長烏帽子、虎退治、熊本城と歴史ファンを魅了する材料も多い。
 母の伊都(いと)が秀吉の母のなかとは姉妹とも従妹同志とも言われており、幼くして秀吉に仕えた。秀吉の正室・おねにも可愛がられ、秀吉夫婦を「親父殿」、「お袋様」とも慕い、福島市松(正則)や加藤孫六(嘉明)等同様秀吉夫婦と寝食を供にし、破れた着物をおねに修繕してもらったりして「子飼」と呼ばれた。
 毛利征伐、山崎の戦、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国・九州遠征、小田原征伐と転戦し、天下統一時には肥後の北半分を領有し、熊本を居城とした。

 割りと有名な話だが、清正は母の影響もあって熱心な日蓮宗の信者で、戦場では「南無妙法蓮華経」の旗を立てて戦った。
 また清正の治める北肥後では日蓮宗を初めとする仏教が優遇された為、南肥後からも仏教徒が移住してきた。というのも南肥後で宇土を居城として領有したキリシタン大名の小西行長で、南肥後ではキリシタンが優遇され、仏教徒は排斥された為である。勿論北肥後ではキリシタンが迫害され、キリシタン達は南肥後へと移住したのだが。まあ、どっちもどっちだな(苦笑)。
 ともあれ、この清正の子飼いとしての立場と、肥後領有での小西とのライバル関係は後々朝鮮出兵や関ヶ原へと豊臣家の行く末に大きな影を落とすのだが、ここではその流れとともに武将以外にも為政者としての一面が清正にも見られるところに注目したい。

戦中 朝鮮遠征軍の第二軍の大将として鍋島直茂・相良頼房(さがらよりふさ)とともに天正二〇(1592)年四月一七日に釜山(プサン)に上陸した加藤清正は凄まじい勢いで慶尚道・京畿道を無人の野を行くが如き快進撃を続け、五月三日に首都・漢城に入場すると江原道・咸鏡道と東北に進路をとり、最北では朝鮮領を抜け、女真族・兀良哈(オランケ)領にまで達した。

 緒戦の朝鮮官軍が脆かったのには二大要因があった。一つは二〇〇年に及ぶ平和慣れで、もう一つは両班腐敗体制の下、挙国一致体制が不徹底であったからであった。
 七月一八日に咸鏡北道兵使韓克誠(ハン・クソン、かん・こくせい)率いる騎馬隊を海汀倉(へジョンチャン)で鉄砲隊を駆使して撃破し、二三日には朝鮮のニ王子臨海君(イヘグン、りんかいくん)・順和君(スンファグン、じゅんわくん)を捕らえて捕虜としたが、この快進撃も清正の勇猛もさる事ながら咸鏡道の反政府感情に助けられた所があった。

 勇将・韓克誠の敗北に咸鏡北道の民衆は蜂起した。
 彼等は両班による李朝腐敗に失望し、侵略者である筈の日本に期待する、という世界史的にも極めて珍しい現象が起きた。二人の王子を捕虜としたのも鞠世弼(ク・セピ)・鞠景仁(ク・キョンイン)という地方役人の裏切りによるものだった。
 天正二〇(1592)年八月に首都・漢城で軍議が行われたが、清正はそれに参加せず、咸鏡道で宣撫に腐心していた。朝鮮半島でも北方に位置する咸鏡道は地味は痩せ、物資の乏しい土地だった。当初解放軍の如く歓迎されていた清正は民衆に保護を約束して農業に戻ることを勧め、更には太閤検地に習って「朝鮮国租税帳」を作成した。
 当初から無謀が叫ばれ、南四道が得られれば御の字ぐらいに日本側の大半が考えていた中で清正は本気で咸鏡道統治を志していた様であった。戦前にも清正は配下に「俺は唐(から)にて二十州を頂くことになっている」と豪語していたらしい。が、皮肉にもこの検地を境に清正は「結局は侵略者だ。」と見做され、義兵が立ち上がったのであった。

 九月二〇日に二人の王子を連れて咸鏡南道安辺(アンピョン)に着陣した清正は次第に義兵と供に朝鮮半島の酷寒に悩まされるようになった。
 一方で清正と第一軍を率いていた小西行長はそれぞれ独自に和平交渉に務めたが、両者の性格の違いが後々の悲劇を生んだ。
 小西が堺貿易商の息子に生まれてそこそこの国際通にして現実直視路線だったのに対し、清正はどこまでの秀吉の意志に愚直に従わんとした。小西と沈惟敬(チェン・ウェイチイ、ちん・いけい)の会談が双方の君主に対して相手が和を請うているように見せて戦争を終らせようと考えていた。方や狂った独裁者で、もう片方は中華思想の君主である。供に膝を屈することを知らない人間だった。
 が、清正は秀吉が戦う以上はそれに従う覚悟で、明・朝鮮が膝を屈する前提で和議を進め、秀吉の鶴の一声無しには一歩も妥協するつもりはなかった。
 秀吉への忠義という意味においては清正の主張にも一応の理があった。が、清正は秀吉軍の急先鋒を自認し、明に侮られない交渉のため、味方を蔑み、自らを誇大表現する不遜な行動に出てしまい、これが致命的だった。

 文禄二(1593)年二月一五日、安辺にて清正は明将馮仲嬰と会見し、四ヶ月後には小西行長と供に首都・漢城で沈惟敬とも会談した。
 そこで清正は明らかに和議を邪魔する行為に出た。
 この時清正の足軽が明使に狼藉を働いているが、これに清正の密命があったとしたら凡そ清正らしくない話である。それはともかく、沈惟敬が日本の諸将に帰国を威迫した際に、清正は、

 「小西は武将にあらず、本来は日本国堺の町人に過ぎぬ。されば小西の敗走をもって帰国を迫るとは笑止、かくもうす清正こそ日本の真の武将であって、我々はかえって貴国の皇帝を生け捕りにするであろう。」

 と高言した。
 日本の面子の為に相手の脅しに屈しなかったのはいかにも清正らしいが、味方を悪く言うのは感心できない。勿論、小西が清正をより嫌い、より憎むようになったのも無理はなかった。
 小西は清正よりも早く、何度も明と交渉を重ねてきたのである。下手をすれば明とのまともな交渉が不可能となりかねないのである。更に清正は上記を文書にしたものに「豊臣朝臣清正」と署名したのである。勿論秀吉の許可など得ていない。
 清正を交渉の邪魔と見た小西と三成は(実際にその通りだったのだが)、これを秀吉に報告した。
 これを聞いた秀吉は烈火の如く怒り、休戦中も朝鮮半島でがんばっていた清正に急遽帰還命令を下した。文禄五(1596)年四月のことである。実に四年ぶりの帰国だった。

 帰国後、清正は秀吉に謹慎を命ぜられ、愕然とした。
 しかし良くも悪くも秀吉に愚直な清正は秀吉を全く恨まず、その矛先は石田三成・小西行長へと向いた。清正は唯々諾々と謹慎命令に従っていたが同年閏七月一三日、畿内を大地震が襲い、伏見城も倒壊した(平成七(1995)年阪神大震災が起きるまで「関西は安全」と言っていた地震学者がいたが、彼等はこの地震を知らなかったに違いない。だいたい大陸プレートの割れ目の上に存在する日本列島は沖縄などの一部例外を除いて立派な「地震列島」である)。清正は謹慎中の身も顧みずに秀吉の身を案じてその元へ駆け付けた。
 これには秀吉も感激し、清正の謹慎を解いた。程なく和平交渉が決裂し、再度の出兵が決定すると清正は再び酷寒の朝鮮の土を踏む事となった。

 慶長の役に出陣した加藤清正は先の文禄の役の活躍が祟って、朝鮮官民から「鬼」と呼ばれた。
 目覚しい活躍をした清正だったからこそ、彼さえ討ち取れば大逆転も可能、との意識が朝鮮官民達の心に存在していた。勿論それは清正に壮絶な戦いを強いることとなった。
 慶長二(1597)年二月、清正は慶尚道蔚山(ウサン)にて浅野幸長と供に築城に取りかかった(余談だがこの経験が後の熊本城築城に活かされる。彼が築いた熊本城が西郷隆盛をも唸らせたのは有名)。
 一二月二一日に清正を目の敵とする明・朝鮮連合軍が蔚山城を攻めたてた。兵力は五万七〇〇〇。対する清正軍は約三〇〇〇。しかも翌二二日には水源を断たれて、酷寒の中での苦しい篭城戦となった。
 実はこの時清正は南方三〇キロの西生浦(ソセンポ)城にいたのだが、敵襲を知るや即座に小舟で救援に向かった。約二〇艘からなる寡兵だったが、平時にも鎧を脱がぬほど普段から自他供に厳しい男・清正は「水夫ども、少しでもたるむものあらば、即座に海の底へ斬り沈むると知れ!」と大渇して蔚山湾を真一文字に突破して蔚山城に入り、城兵と苦楽を供にするなどの獅子奮迅を尽くした。
 その五日後、二の丸から広場にいた清正隊に近くの高い山から明兵が石火矢を射かけた。清正は周囲に「動くな。」と命じて第二の矢にも同じ命令を下し、第三の矢が遥か遠くに飛んだのを見て「退くのは今だ。」と言って本陣へ退かせた。敵に有効射程距離を悟らせない為の冷静な判断力として伝えられる逸話の一つである。

 一二月二六日に蔚山城救援の為に西生浦城に毛利秀元、黒田長政等が集結し、明けて慶長三(1598)年一月四日毛利・黒田勢の救援を得て、蔚山包囲軍の撃退に成功した。これには一万三〇〇〇の援軍を連合軍側が六万と見誤ったからとの説もある。ようやく敵の撃退に成功した加藤勢だったが、さすがに追撃の気力はなかった。
 そして七ヶ月後、八月一八日に豊臣秀吉が没し、更に二ヶ月を経て戦争は終った。

戦後 秀吉没後、加藤清正は出兵中に荒れさせてしまった肥後の再建に務めた。
 在朝中に得た大陸の技術、連行した職人を活かして肥後を発展させ、一大名としての名君振りを発揮したのだったが、政治家として円熟味を増す一方で出兵中の石田三成・小西行長等との確執が解けることはなく、その確執は徳川家康に巧みに利用された。

 慶長四(1599)年閏三月三日に前田利家が没するや、清正は福島正則、加藤嘉明、池田輝政、細川忠興、黒田長政、浅野幸長等とともに石田三成を襲撃せんとしたが、三成は家康の元に逃げこむ。結局はこれにより秀吉の重臣たちは団結を欠き、家康の台頭を許した。
 関ヶ原の戦いでは彼を初めとする秀吉子飼の武将の多くが家康につき、清正は関ヶ原の戦場に立たなかったものの九州で黒田如水とともに睨みを効かせ、戦後、小西領だった肥後南半分を併せて、肥後五〇万石の大大名となった。だが、秀吉を父と慕い、おねを母と慕った清正の豊臣家への忠誠心は変わることなく、家康の将軍就任後は諸大名が正月に秀頼の元に挨拶に行かなくなった後も、清正は通い続けた。

 一方で家康の養女を娶ったり、自分の娘と家康の一〇男・頼宣との婚約を結んだりして徳川家との繋がりも強めた清正だったが、これは徳川方の懐柔だろう。
 清正は尾張名古屋城の築城を率先して勤めたり、と敢えて徳川に尽くすことで豊臣の存続も図り続け、領国ではいざという時に秀頼を迎え入れるために熊本城を補強したり、海外貿易を進めて経済力の強化にも務めた。清正が南蛮貿易も視野に入れていてパンもよく食していたことは以外に知られていない。朝鮮半島に長くいて異国文化に触れることの多かった清正には思うところも多かったのだろう。

 慶長一六(1611)年三月二八日、京都二条城で徳川家康と豊臣秀頼の会見が行われた。当初淀殿は暗殺を恐れて断固拒否の構えだったが、清正は浅野幸長、福島正則と供に身命を賭しての警護を訴え、徳川家との友好の為に会見の成立にこぎつけたのである。
 この時清正は秀頼について離れず、懐に短刀を忍ばせて会見に同席した。無事に会見を成功させた清正は「太閤の恩に報いることが出来て良かった。」と落涙したと伝えられている。自らの寿命が尽きようとしていることを察知していたのだろうか?清正の死はその三ヶ月後であった。享年五〇歳。

 歴史に仮定は禁物だが、清正が大坂夏の陣まで生き長らえていたらどうなっていたか?は多くの歴史ファンが一度は抱く疑問である。そしてそれゆえか加藤清正は徳川家康・秀忠に暗殺されたとする説は根強く、歴史小説家達は喜んで清正を暗殺されたことにしてその手口を様々に書き立てた。それほど清正の死は徳川家にとっていいタイミングで訪れたのものだった。
 それから更に二百数十年を経て清正は変な形で英雄として祭り上げられた。大陸進出を企む大日本帝国にとって海を越えて朝鮮半島を席巻した加藤清正とその主君豊臣秀吉は大陸進出(勿論侵略)の良い手本とされたのである。
 尚、朝鮮出兵にあって余りにも有名な清正の虎退治だが、当時虎の脳や肉には精力増強の効果がある、との迷信があり(今でもあるが)、清正もその他の将も虎狩りを行い、秀吉が食い飽きるほど虎を送った。虎の仕留め方には十文字槍説、鉄砲説、落とし穴説、地元の狩人利用説、と諸説紛紛だが、今現在の世界の虎の乱獲を考えると笑えない。
 ちなみに昭和六二(1987)年に道場主は修学旅行で熊本に言った際に当地で「清正ちゃんの虎退治」という菓子を土産に買って帰ったが、今でもあるのだろうか?




黒田長政 蛮勇の若武者から知勇兼備への転換
概略 豊臣秀吉も徳川家康も一目を置いた黒田如水(孝高)を父に持ち、その老獪さを受け継ぎつつ、若武者らしさも見え隠れする黒田甲斐守長政−さほど目立つわけでもないのに数々のエピソードを残し、関ヶ原の戦いでもおいしいとこ取りが多い。
 逆を言えば賢く生きたからこそさほど目立っていないとも言える。少し調べれば見るべき面は数多く出てくる。

 幼少の頃、父孝高が信長を裏切った荒木村重を説得に行って捕えられると、孝高が裏切ったと思いこんだ信長によって処刑が命ぜられた長政だったが、竹中半兵衛が密かに匿い、その命を助けた。
 後年関ヶ原の戦いにおいて西軍についた竹中重門が本領安堵されたのは重門の父・半兵衛重治の恩を感じていた長政の口添えがあればこそで、なかなかに人情家でもあった。
 朝鮮出兵の為に五〇〇〇の兵を率いて大友吉統(おおともよしむね)の兵六〇〇〇とともに第三軍として天正二〇(1592)年四月一七日に慶尚道金海(キヘ)に上陸した黒田長政、このとき弱冠二五歳。
 軍中には父孝高が長政と兄弟の様にして育ててきた後藤又兵衛基次もいた。孝高は長政と又兵衛がお互いに刺激し合って成長することを期してそのように育てたが、その目論みがうまくいかなかったことがこの戦争で明らかになった。そしてそれは大坂の陣まで引いたのである。
 また戦は良くも悪くも人を変える。長政はこの戦いを通じて次第に血の気の多い若武者から父・孝高似の知将への片鱗を醸し出していくのであった。

戦中 開戦六日目である四月一七日に上陸した黒田勢は翌日に金海城を落とし、数々の城を落としながら五月七日に首都・漢城(ハンソン)、六月一五日に平壌に入り、八月七日には漢城での軍議に父と供に参加した。
 この軍議で在朝諸将は朝鮮八道を加藤清正・小西行長・毛利吉成・黒田長政・宇喜多秀家・福島正則・毛利輝元・小早川隆景の八将で分割する所謂「八道国割」を協議し、長政は黄海道を担当することとなった。
 長政はハングル訳にした御触れを出して民衆や敗残兵の武装解除を進める一方で官倉から米穀を放出・分配するなどの硬軟両面策でこまやかな統治を行った。この辺り既に長政は武力一辺倒の武将ではない。

 だが、御多分に漏れず黒田勢も義兵に手を焼き、延安(ヨンアン)で起きた義兵に漢城への退路を断たれることを警戒した長政は九月一日に軍勢を漢城−平壌間にある白川(ペチョン)に退き、明からの援軍に備えた。

 これに先立つ六月一四日に平安道嘉山(カサン)の戦いで長政は城兵の夜襲に苦しむ小西行長を救援した。同夜寝ずに警戒していた長政は砲声を聞くや桶狭間に急行した信長並の早さで鎧をまとい、湯漬けを食して打って出ようとした。
 側近が「大軍に相違ありません、おもむろに出るべきです。」と諌められれば「味方の難儀を急いで救わぬ法があるか!」と言って出陣したと云う。
 この時長政は敵兵を大同江(テドンガン)に追い込み、河中にて敵兵と組討ちする暴れ振りで、ニヶ所の矢傷を負うほどだった。

 朝鮮出兵に際して、黒田長政には敵と組討ちし、あわやと言う時にそれを見ていた後藤又兵衛が助けようともしないかったことがあった。
 長政が又兵衛に「味方が万一のことがあったら?」と問うと、又兵衛は「あんな所で組討ちするなんて大将のやることではない。ましてや討たれるようでは。」と言って雑兵の様に暴れる長政を皮肉ったエピソードがあるが、この戦の時のことかもしれない。

 翌文禄二(1593)年一月に小西勢との合流後は首都漢城防衛に務め、六月二一日には秀吉の厳命により慶尚道の晋州城陥落が急務となり、黒田勢もこれに参加した。
 巨木・岩石・熱湯を投げ落として応戦する城兵に対して日本軍は大櫓からの銃撃や波状攻撃を加え、ついに二九日に城壁を突き崩したが、一番乗りは長政配下の後藤又兵衛だった。
 文禄の役最大の激戦とも言われた晋州城攻防戦は朝鮮側の全滅で幕を閉じ、城主金千鎰(キム・チョンイ、きん・せんいつ)は戦死した。
 同日、日本では講和交渉の為、肥前名護屋に明の使節として謝用梓・徐一貫が到着していた。
 何度も前述した様に講和交渉は当然の様に決裂して慶長の役が始まったが、この役でも長政は援軍的な活躍が目立った。
 慶長二(1597)年一二月に慶尚道蔚山(ウルサン)城に加藤清正が包囲されて孤立すると二六日に毛利秀元と供に清正救援の為に集結し、翌年一月四日に明・朝鮮連合軍の撃退に成功した。

 この慶長の役でも長政には後藤又兵衛と関連したエピソードがある。
 長政が全羅道の全義館(チョンウィグァン)に在陣していた時、陣中で虎が軍馬に襲いかかる事件があった。
 臣下の菅政利が抜刀して虎の腰に斬り込んだが、虎はますます猛り、菅をも襲おうとしたのを又兵衛が割って入って虎の眉間を叩き割って瞬殺した。
 この時一部始終を静観していた長政は又兵衛に「一手の大将たる身に大事の役を持ちながら、畜生と勇を争うとは不心得であるぞ。」と言って叱ったと云う。
 どうも自らの組討ち時の又兵衛の態度に対する当て付けじみていて(笑)、又兵衛の虎を一撃で倒した点といい、眉に唾をつけたくなるが、虎狩は加藤清正の専売特許ではなく、多くの日本兵が行っていたので、又兵衛が虎狩でもした際に雑兵と争った自分を皮肉った報復として長政が又兵衛に「畜生と争うとは」と言ってても全くおかしくない気はする(笑)。

戦後 文禄・慶長の役で荒武者の如く暴れた一方で統治に気を配り、味方の救援に必然数々の戦略戦術の駆使する必要に迫られた黒田長政には学ぶ所が色々あったのだろう。
 秀吉の死後、長政は加藤清正等六人の将と供に石田三成襲撃(未遂)に加わるほど血の気の多さは保ちつつも直後の関ヶ原の戦いでは用意周到に家康と策を練り、小山軍議では前もって福島正則に率先して家康随身を発言するよう言い含めた結果、豊臣恩顧の諸大名の多くが家康に味方した(この時点で、長政は家康養女を継室に迎えていた)。

 また長政の根回しは小早川秀秋の裏切りをも促し、東軍の勝利を決定的にし、長政自身、戦場で采配を振るっては予想外の大抵抗を見せる石田勢を側面射撃することで猛将・島左近を討ち取る等、戦略にも戦術にもその父親譲りの冴えを見せる。
 ただ彼の父黒田如水に言わせるとまだまだ甘かったらしい。
 如水は関ヶ原の戦いは何十日も続くと見て、豊前で独自に兵を集め、加藤清正と供に九州を席巻した。東西の戦いに漁夫の利を狙っていたのである。
 しかし戦いは他ならぬ息子・長政の活躍でたったの一日で終った。
 一二万石から五二万石への加増を果たし、意気揚々と帰国し、「内府(家康)殿はそれがしの右手を握って、今回のことを褒めて下さいました。」と自慢する長政に如水は「その時おまえの左手は何をしていた?」と冷たく言い放った。
 如水の言の意味するところは、「何故残る手で家康を刺さなかった。せっかく儂が両軍の戦いに乗じて九州勢でもって天下を取り御前に残そうとしたものを…。御前は父の心がわからぬ日本一の大馬鹿者だ。」と云うものだった。
 勿論本当に刺せばよかったという意味ではあるまい(そんなことをすれば間違いなく長政の命はその場で失われただろうから)。如水の企みを全く理解せず有頂天になっている長政をたしなめる気持ちから出たものだったのだろう。

 父・如水の没後、かねてより不仲だった後藤又兵衛が出奔。又兵衛の仕官を巡って細川忠興と戦争になりかけたが、幕府の仲裁と又兵衛の辞退でそれは回避された。
 後に又兵衛は大坂城に入城して豊臣軍として大暴れしたが、長政は冬の陣では福島正則・加藤嘉明と供に江戸留守居を命じられた。夏の陣では従軍を許されたがやはり豊臣恩顧としての警戒の目がなくなった訳ではなかった(ちなみに福島正則だけはこの時も従軍を許されなかった)。
 元和九(1623)年享年五五歳で京都に没。黒田家は幕末まで存続して華族となり、大日本帝国が大陸進出に際して豊臣秀吉をヒーローに祭り上げた時、この国策の為に「豊国会」が華族達で組織されたが前田、浅野といった豊臣恩顧の大名の子孫が加わる中、会長を務めたは黒田長成侯爵だった。




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平成二七(2015)年七月三日最終更新