第壱頁 吉備笠垂……讒言?密告?

冤罪事件簿 壱
事件事件名無し
讒言者吉備笠垂(きびかさのしだる)
讒言された者古人大兄王(ふるひとのおおえのおう)
処罰実行者孝徳天皇
黒幕中大兄皇子・中臣鎌足
讒言悪質度


事件 事件が起きたのは大化の改新の渦中で、乙巳の変直後のことである。
 皇極天皇四(645)年六月一二日、三韓(高句麗・新羅・百済)の使者を迎えた宮中で中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が蘇我入鹿を暗殺した。「蘇我家の専横から皇室を守る。」というのが大義名分だったのだが、その辺りは本作の主旨ではないので割愛する。

 事件の経過として、中大兄皇子の求心力が急上昇し、打倒蘇我氏の機運が高まったことに絶望した入鹿の父・蘇我蝦夷は屋敷に火を放って自害し、蘇我氏は滅亡した。そして蘇我氏滅亡を好機として宮中改革が急展開し、それ等一連の改革が大化の改新と呼ばれ、改革の常として多くの人間がその地位を急上昇または急降下させた。
 当然乙巳の変前から中大兄皇子に繋がっていた者は地位を向上させ、逆に蘇我氏と懇意と見られていた者は地位を低下させたばかりか、中には命すら危ぶまれた者もいた。
 そんな中、実際に命を落としたのが古人大兄王だった。

 皇室を守る為とは云え、突然目の前で重臣を惨殺されたことに驚愕した皇極天皇は乙巳の変の翌々日、皇位を同母弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲り、彼女の子である中大兄皇子が皇太子となった。
 このとき、古人大兄王は先帝である舒明天皇の第一皇子として、皇位継承を要請されたが、これを固辞し、出家して吉野へ引退した(丸で後の天武天皇みたいだ……)。だが、僅か三ヶ月後の同年九月一二日、古人大兄王が謀反を企てている、との密告が入り、即座に討手が向けられ、古人大兄王は息子達ともども殺害され、妃達も自害したのだった。



讒言者 即位したばかりの孝徳天皇に対し、「古人大兄王様が謀反を企てて御座います。」と訴え出たのは吉備笠垂という官人だった。官位は大錦下(二六位階中の九位)で生没年は全くの不詳で、この事件以外には殆んど記録のない人物である。
 の訴え出た内容によると、彼は大化元(645)年九月三日に古人大兄王が蘇我田口川堀(そがのたぐちのかわほり)を中心に物部朴井椎子(もののべのえのいのしび)・倭漢文麻呂(やまとのあやのふみのまろ)・朴市秦田来津(えちのはたのたくつ)等と共に謀反を企てた、というもので、謂わば、は「謀反への参加を唆されたが、それに応じず、密告に及んだ。」ということになる。その訴えが真実であれば、なのだが(詳細後述)。

 ともあれ、は謀叛を未然に防いだ功績で功田二〇町を褒賞として下賜された。
 当時の班田収授法では土地はすべて天皇のもので、すべての民は口分田という土地を貸し与えられ、そこから出る収入で税を納め、死去する際にその土地を国に返すのが定めだった。そんな中、国家に大功のあったものは一時的な世襲が許される田地を下賜された。
 一例を挙げると、大化の改新における中臣鎌足は一〇〇町の功田を、しかも永久支配を許される「大功」として下賜された。一方、の功田は一〇〇年以上も後に孫の代まで所有の許される「中功」とされたと伝わるので、当初は子の代までの「小功」扱いだったと思われる。

 いずれにせよ、吉備笠垂に関してはこれ以上のことは調べ得なかった。密告によって謀叛を未然に阻止した功績はそれなりの評価を受けたと思われるが、官位的に目を見張る出世をした形跡はなく、その名は歴史に埋もれているので事件の前後を通じて良くも悪くも重要人物とはされない生涯を送ったと思われる。



注進と処断 ほぼ上述しているが、事件のすべてが真実と仮定するなら、事の流れは、

 「吉野に引退したと見せかけた古人大兄王が謀叛を画策。」→「謀反の謀議に蘇我田口川堀を中心に、吉備笠、物部朴井椎子・倭漢文麻呂・朴市秦田来津等が誘われる。」→「が謀議の存在を朝廷に訴えでる。」→「孝徳天皇中大兄皇子古人大兄王の討伐を決定。」→「討手が差し向けられ、古人大兄王及びその息子達が殺害され、妃達は自害。」

 となる。
 つまり、単純に謀叛が企まれたところを、謀議に加わった者の一人が謀叛への加担を恐れて当局に訴え出て、謀叛が発覚し、首謀者一族が討ち果たされたと云う有り触れた事件で終わっており、特別変わった事件でもなかった。

 くどいが、の訴えが完全に事実としての話ではあるのだが。



真相と悪質度 実の所、古人大兄王に謀反の志があったのか否かははっきりしない。「あった。」と云う学者もいれば、「なかった。讒言・でっち上げたっだ。」と云う学者もいる
 薩摩守個人の見解としては、十中八九、古人大兄王に幾分かの不服はあっても、謀叛までは考えておらず、彼を一方的に危険視していた中大兄皇子一派が謀叛をでっち上げて誅殺したと見ている。

 まず検証の為に古人大兄王中大兄皇子の関係を見てみたいが、二人は所謂、異母兄弟である(父は舒明天皇)。一応、古人大兄王の方が「舒明天皇の第一皇子」だったことから兄とされているが、古人大兄王の生年は不詳で、本当の兄弟順は断定出来ない(何せ、一般に中大兄皇子の「弟」とされている大海人皇子(天武天皇)にすら、「実は兄だったのでは?」との説がある)。
 そしてその兄弟の母だが、古人大兄王の母は蘇我法堤郎女(そがのほほてのいらつめ)で、彼女は蘇我蝦夷の妹で、必然入鹿は古人大兄王にとって血の濃い従兄弟であった。蘇我父子が古人大兄王を次期天皇としたがったのももっともな話だった。

 一方、中大兄皇子の母は乙巳の変時に皇位にあった皇極天皇である。現職の天皇を母としてる分、皇位継承レースにあって多少有利な地位にあるとはいえ、れっきとした皇室である山背大兄王一家を誅殺するほどの力を持った蘇我一族が推す異母兄・古人大兄王に対して絶対の有利を保てているとは断言出来ず、政敵と見做されれば山背大兄王と同じ運命を辿る可能性すらあった。

 そんな古人大兄王中大兄皇子の兄弟関係について互いが如何なる感情を抱いていたかは不明だが、確かな史実として、古人大兄王は(血縁もあって)かなりの親蘇我派だった。
 乙巳の変が起きた時、古人大兄王は母である皇極天皇のすぐ近くに侍っていた。勿論従兄弟・入鹿惨殺は目の前で斬り殺され、彼は母以上に周章狼狽した。
 事件直後、古人大兄王は即座に私宮へ逃げ帰り「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い。」と述べたとされている。周知の通り、この証言は誤りで、入鹿を直接斬ったのは中大兄皇子その人である。いくら従兄弟が目の前で斬り殺されたことに衝撃を受けたとはいえ、異母弟の顔を外国人と間違えるとは考え難い。
 ただ、それでも逃げ帰ったのは、「入鹿が殺される様なら自分も危ない。」と考える程、蘇我家と親密だったとは考えられる。そして追い打ちを掛ける様に翌日には外伯父で、重要な後ろ盾だった蝦夷も自害してしまった。古人大兄王の失望は想像を絶するだろう。

 その古人大兄王は、事件のショックから退位を宣言した皇極天皇の後を継ぐよう要請されたが、これを固辞し吉野に出家した。古人大兄王に即位要請があったのも、彼が固辞した後に皇極天皇の弟である孝徳天皇が即位し、中大兄皇子が一歩下がった皇太子の地位に就いたのも、朝廷内に隠然と存在するであろう親蘇我派を慮ったと思うがどうだろう?
 そして上述したが、古人大兄王は吉野に出家・隠棲したが、この展開は後の天智天皇臨終時と極めて酷似している。天智天皇は臨終に際し、大海人皇子に皇位継承を諮ったが、大海人はここで「Yes」と答えれば、潜んでいた刺客に殺されると察知し、吉野に出家・隠棲したが、天智天皇死後に大友皇子(弘文天皇)から謀反の疑いで追手が差し向けられると知り、挙兵し、壬申の乱に至った。
 想像でしかないが、大海人皇子が天智天皇からの後継要請を拒絶したのも、吉野で危機を知るや即座に挙兵したのも、古人大兄王の前例に倣ったと思われてならない。

 結局、古人大兄王の心情はどうあれ、吉備笠垂からの密告一つで彼は誅殺された。そして薩摩守が注目することが二つある。一つは「即座の追討が決定されたこと。」と「古人大兄王の妻子以外誰も罰せられていない。」ということである。
 古人大兄王は曲がりなりにも皇室の一員で、中大兄皇子にとって母は違えど父を同じくする兄で、孝徳天皇にとっても従兄弟で、過去には第一皇子とされた人物である。普通は身内の恩情もあって、捕らえられて取り調べが行われ、然る後に皇籍剥奪等の厳罰が下り、最悪の場合は死罪も有り得るだろう。だが、宮中に連行もされず、その場で殺されているのであるから、「問答無用」である。
 こうなると、逆に「最初から消す気でいたが、身内の処刑を眼前にしたくないから追討にした。」と考えたくなる。

 そしてもう一つの「古人大兄王の妻子以外誰も罰せられていない。」という史実だが、謀反の企みを訴え出たはともかく、謀議に加わった蘇我田口川堀、物部朴井椎子・倭漢文麻呂・朴市秦田来津等が誰も罰せられていないのは不可解である。
 勿論、が川堀達を「あくまで相談を持ち掛けられただけで、内心同意してはいません。」と訴えたことで厳罰を免れた、と考えるのは可能だが、普通は謀議に加わっただけで無罪はあり得ない。しかも後々蘇我田口川堀は不明だが、物部朴井椎子は有間皇子誅殺の尖兵となっており、倭漢文麻呂は遣唐使の大任を受け、朴市秦田来津は白村江の戦いに従軍・戦死する等、出世していると云って良い。
 こうなると、そもそも古人大兄王の周囲に彼等がいたこと自体が、古人大兄王を見張る為か、古人大兄王を讒言する為に中大兄皇子中臣鎌足等が配置した様に思われてならないのである。

 勿論、古人大兄王に謀反する動機は充分にあったと思われる。吉野に出家・隠棲したのも、後々大海人皇子が壬申の乱を起こしたように、政敵が優勢となった都を一時離れて力を蓄えんとしていたとしても何の不思議もない。
 ただ、乙巳の変に伴う蘇我氏滅亡時の古人大兄王の意気消沈振りを見ると、本当に隠棲を考えていたとする方が妥当ではないか?と薩摩守は考え、処断の性急さからも、による密告は、中大兄皇子によって密かに命じられた「讒言」と捉える次第である。
 ま、「讒言では?」と思ったとしても、孝徳天皇が政治力的にそれを庇えたとも思えないのではあるが(苦笑)。


次頁へ
前頁(冒頭)へ戻る
戦国房へ戻る

令和六(2024)年一月一二日 最終更新