第弐頁 蘇我赤兄……煽って捕らえるなよ

冤罪事件簿 弐
事件有間皇子の変
讒言者蘇我赤兄(そがのあかえ)
讒言された者有間皇子(ありまのおうじ)
処罰実行者斉明天皇
黒幕中大兄皇子
讒言悪質度


事件 事件が起きたのは斉明天皇四(658)年一一月五日夜中のことで、謀反の容疑で就寝中の有間皇子が捕らえられた。

 有間皇子はこの時皇位にあった斉明天皇の同母弟にして先代天皇だった孝徳天皇の子で、父帝在位中から不遇を託っていた。そしてこのとき、斉明天皇有間皇子の勧めで紀温湯(現・白浜温泉)に湯治旅行に出掛けて都を留守にしていた。
 その隙に謀反を起こし、天下を我が物にせんとした企みが蘇我赤兄から中大兄皇子に急報され、その日の内に取り手が有間皇子邸を急襲し、謀叛は未然に防がれたのであった。



讒言者 有間皇子が謀叛を企んでいると訴えたのは上述した様に蘇我赤兄で、彼は蘇我馬子の孫で、蝦夷の弟・倉麻呂(くらまろ)の子だった。乙巳の変における蘇我氏滅亡時に生き延びているが、そもそも入鹿が斬られた際に長兄の蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)も一枚噛んでいることから、恐らく倉麻呂は蘇我氏の中でも蝦夷とは別と見られていたのだろう。

 長兄・石川麻呂が乙巳の変に加わったことで右大臣に任命され、滅びた本家とは別の蘇我氏として新たな活躍が見込まれたが、大化五(649)年に次兄の日向(ヒムカ)が石川麻呂に謀反の心があると中大兄皇子に訴え出たため、取り手を差し向けられた石川麻呂は抵抗することなく自害すると云う事件があった(後に冤罪と判明)。
 そんな中、蘇我氏の残る一人として重用された赤兄は、斉明天皇が上述の湯治旅行に出た際に宮化の留守官を命じられ、天皇不在中に有間皇子に接近すると謀反の意志があることを聞き出し、その足で中大兄皇子に訴え出た。
 要は、教唆によって本心を炙り出し、それを訴えた訳である。

 事件の経緯は下記に譲るが、その後赤兄中大兄皇子が天智天皇として即位した後もそれなりに重用されたようで、天智天皇八(669)年に大宰権帥(大宰府の仮の長官)に任命された。この任官は後々に謀反人が左遷されたものとは全く異なる栄転に等しいもので、任官の一週間後に藤原鎌足が逝去した折には、追悼の詔を読み上げる勅使にも任命されていた。

 このことからも、赤兄は実際には太宰府に赴かなかったか、赴任しても短期間で帰って来たと見られており、最終的に天智天皇政権下で兄の最終官位を上回る左大臣に任じられ、その崩御後に遺児である大友皇子(弘文天皇)を託された。
 だが、周知の通り大友皇子は弘文天皇元(672)年の壬申の乱に敗れて自害し、その翌日に捕らえられた赤兄は流刑となった。赤兄のその後は不明だが、いずれにしてもこれが蘇我家の完全な没落となった。



注進と処断 有間皇子の謀叛は上述した様に蘇我赤兄によって中大兄皇子に通報され、斉明天皇四(658)年一一月五日に有間皇子は捕らえられた。
 有間皇子が謀反の意を明らかにしたのは、二日前の一一月三日に赤兄が接近してきたのがきっかけだった。赤兄は「天皇の政治には三失がある。大きな倉庫を建て民の財を集めたのが一つ、長い運河を掘って公の糧を費やしたのが二つ、舟に石を載せて運び丘を作ったのが三つ。」とし投げ掛けた。
 詰まる所、苦役が民に重大な負担を掛け、それ故に人心が天皇から離れているとして、謀叛が可能な状態であると唆した訳である。

 父・孝徳天皇在位中から中大兄皇子に好感を抱いていなかった有間皇子赤兄の接近を喜び、挙兵の意志があることを吐露。だが、実際に箱の挙兵計画は中止となった。
 というのも、二日後の五日に協議していた最中に有間皇子の脇息が折れ、不吉を感じた有間皇子は挙兵中止と他言無用を赤兄と誓い合った。
 そしてその夜、赤兄は宮殿造営に従事していた人夫を率いて有間邸を包囲し、有間皇子を捕えるとともに事のあらましを旅行中の斉明天皇に急報した。

 逮捕四日後の一一月九日、中大兄皇子有間皇子を尋問。尋問に対して有間皇子は、「天と赤兄が知る。吾はまったく知らない。」とだけ答えた。恐らく、信頼していた赤兄に裏切られたことで絶望し、もう自分は助からないと見て、それでも、唆しておきながら訴えた赤兄を憤り気持ちは抑えられなかったのだろう。

 結局、二日後の一一日に有間皇子は絞首刑に処された。享年一九歳の若さだった。



真相と悪質度 まず、有間皇子に些か酷いことを書くが、如何に唆されたとはいえ、謀叛を企んだ以上、当時の刑罰から云って死罪を免れないのは必然だった。冷や飯を食わされていた立場にあったとはいえ、心底謀叛の気持ちが無いのなら、それこそ蘇我赤兄が接近してきた際に彼を、御政道を誣告する者として告発することで朝廷への忠誠心を示すことも出来たのである。

 ただ、だからと云って、有間皇子の人生に全く同情しないでもないし、赤兄に卑劣なものを感じないでもないが、両者の経歴を鑑みればこれまた複雑である。

 まず、有間皇子だが、父帝である孝徳天皇は極めて不遇な人物だった。
 乙巳の変の衝撃から退位を決意した皇極天皇から皇位継承を勧められた古人大兄王と中大兄皇子が二人してこれを固辞したため、孝徳天皇にお鉢が回って来た(孝徳天皇自身も三度辞退した)。
 だが、彼に実権は無きに等しく、難波宮に遷都するも、皇太子である中大兄皇子が奈良に帰ると云い出し、これに応じない孝徳天皇を無視する形で奈良に戻ると、廷臣の多くが中大兄皇子に追随し、妃で中大兄皇子の妹であった間人皇女(はしひとのひめみこ)も兄に従う有様だった。
 結局、このことに衝撃を受けた孝徳天皇は心労から間もなく病に倒れて、看取る者も少ない中崩御した。

 父の崩御後、退位していた皇極上皇が斉明天皇として重祚し、難波宮に残された有間皇子は政争を厭うて心の病を装い、紀温湯に湯治として隠棲していたがやがて奈良に戻り、斉明天皇に紀温湯の素晴らしさを説いたところ、斉明天皇もそこに行ってみたいと思い、実際に出掛けるに至った。

 そして事件が起きた訳だが、謎なのは自分の立場が決して有利でないことを熟知し、政争を厭うていた有間皇子が何故に奈良に戻ったのか?である。古人大兄王や蘇我倉山田石川麻呂の例を見ても、中大兄皇子等が些細な誤解で反対派と見た者を粛清するのは充分あり得たし、実際そうなった。
 となると、有間皇子はそもそも父帝の復讐を果たす為に都に戻ったと見れなくはなく、そうなると赤兄の存在がどうあれ、事件はいつかは起きたことになる。

 一方の赤兄だが、彼の置かれた立場もまた複雑であった。
 そもそも乙巳の変で蘇我氏自体が白眼視されていた。変に協力したことで蝦夷・入鹿父子とは別系統と見られたとはいえ、その後次兄が長兄を謀叛人と訴え、赤兄の置かれた立場は極めて脆弱なものだった。

 それゆえ、赤兄の行動には以下の三つのことが考えられる。

一、中大兄皇子の手先となって、謀叛しかねない有間皇子を唆し、誅殺に持って行った。
一、中大兄皇子の歓心を買う為、単独で有間皇子を唆し、叛意有りとの密告を為した。
一、元々有間皇子と共に謀叛する気でいたが、有間皇子が躊躇いを見せたので裏切って密告した。

 上述した取り調べ中の有間皇子の供述じゃないが、それこそ真相は「天と赤兄」にしか分からないだろう。ただ、薩摩守個人としては、赤兄のその後の重用振りや、大友皇子の代まで随身したことや、中大兄皇子の政敵葬り振りを考えると、やはり中大兄皇子の手先となった赤兄有間皇子を唆して、事件化したのが真相ではないかと思われる。

 いずれにしても、赤兄には卑劣なイメージを禁じえない。
 余談だが、小学館の学習漫画『日本の歴史』を見ると、蘇我赤兄はこす狡い人物を絵に描いた様な悪人面に描かれている(例えて云うなら、絶対に金を貸したくない詐欺師面(苦笑))。また、同作で中大兄皇子有間皇子に死を命じたことを「可哀想なことをした。」とし、その傍らで中臣鎌足が、自分達に悪意を持つ以上仕方のないことだとしていた。
 一応、薩摩守が同作のイメージを引き摺っている可能性は白状しておきたい(苦笑)。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和六(2024)年一月一二日 最終更新