真に受けるなよ、「讒言者」を………

 歴史書及び歴史小説・歴史漫画を見ていて時々うんざりするときがある。
 一例を挙げると、災害や戦争や疫病で何の罪もない弱者が為す術なく大量に死亡する局面、せっかく続いた平和が脅かされる局面、民意にわざと逆行しているとしか思えない悪政・圧政が打ち続く局面、そしてタイトルからバレバレだとは思うが、「讒言」で誰かが罪失くして罪に陥れられる局面である。

 薩摩守は自身、死刑存置論者で、凶悪犯は死刑を含む厳罰に処せられべきだと思っているし、死刑執行方法が絞首刑一択であることにも納得しかねている(つまり、余りに酷い過ぎる凶悪犯に対しては更なる酷刑による執行もあり、と思っている)。
 だが、それ故に冤罪問題は死刑廃止論者以上に厳しい目を向けなくてはならないと思っている。第一、それ以前に冤罪で人が処罰されること自体が(例えそれがどんな軽い罰でも)あってはならないし、例え無罪を勝ち得ても、逮捕されるだけで現代日本社会おける社会的ダメージは大きい。
 自分や自分の身内がやってもいない罪で逮捕されたり、裁判に掛けられたり、あまつさえ有罪判決を受けたりを想像すると逮捕や有罪判決に関わったすべての者を呪いたくなるだろう。

 殊に自分を有罪とした要因の中に、「讒言者」が存在したら…………恐らく怒りや恨みは骨髄に達することだろう。
 そして歴史上には、そんな無実の者を罪や罰に陥れた「讒言者」が散見される。無実の人を陥れるのだから、その罪は卑劣極まりなく、「讒言」を受けた者が有罪になった場合は、「讒言者」は受刑者以上の重罰を受けるべきだろう。

 同時に、薩摩守は「讒言」に対して、それを受け止めた主君の責任も大きく受け止めている。「讒言」とは、無実の者を無実の罪に陥れる劣悪な行為だが、その「讒言」を耳に入れられた主君が「事実ではない!」と喝破すれば、「讒言」は成立せず、「讒言者」の方が「誹謗中傷」・「誣告」を行ったものとして、処罰対象となる。
 本来はその方が正しいのだが、肝心の主君が暗愚で「讒言」を真に受けたり、「讒言者」の工作が巧みで主君が騙されたり、酷い時には主君自身が「讒言」対象者を疎んじていて、「讒言」に対して「待ってました!」とばかりに即処断に走ることもある

 主君自身が「讒言」された者を冤罪に陥れてでも処罰したがっている場合はもうどうしようもないが、主君が「讒言」を喝破出来ないケースは何ともやるせない。
 また「讒言者」も自身が行っている「讒言」を「讒言」と認識しているか否か判然としないケースもまた多い。「讒言」の内容を「真実」と思っているものなら、自らの行為を「密告」・「証言」と信じ、「讒言」とは思わないだろう。
 勿論「讒言」であることを承知の上で行う者も多いだろう。黒幕と懇意だったり、黒幕の腹心だったり、黒幕その人であることもあるだろう。

 偽りの証言で誰かを罪に陥れる「讒言」は許し難い。
 いつの世でも「讒言」を良しとする法律はなく、「讒言」であることが明らかになった場合は「讒言者」は重罰に処される。

 「人を死刑に値するすると訴え、立証できないとき、訴えた者は処刑に処される」

 紀元前1770年頃に作られたハンムラビ法典の有名な一説である。今から四千年近い昔にかかる条文があったということは、人間の有史以来、冤罪・「讒言」は深刻だったのだろう。
 それだけに一口に「讒言」と云っても千差万別である。軽い事件や刑罰で終わったものまで含めると歴史上に無数にあるだろうし、政治や軍事や犯罪だけではなく、学校や企業や一般社会にも「讒言」は溢れている。特にネットの世界は誹謗中傷の嵐である。
 勿論、菜根道場も戦国房もネットの世界の存在である。それゆえに「讒言」には常に真剣に向かい合わなくてはと薩摩守も思っている。拙房が近現代史を余り取り上げない理由の一つに、「下手したら今現在を生きている子や孫への「讒言」になりかねない……。」との懸念もある。

 同時に「讒言」を受けた者の無念は晴らされなくてはならないとも思う。そんな思いもあって、今回「讒言」に注目した考察作品を制作した次第である。


第壱頁 吉備笠垂……讒言?密告?
第弐頁 蘇我赤兄……煽って捕らえるなよ
第参頁 川島皇子……親友と思っていたのに
第肆頁 藤原四兄弟……さすがに祟られたか?
第伍頁 藤原良房……讒言連発で出世?
第陸頁 伴善男……「讒言」したら「密告」された
第漆頁 藤原時平……有名過ぎる「讒言者」
第捌頁 源満仲……見事なまでの腰巾着
第玖頁 梶原景時……THE・「讒言者」
第拾頁 加納御前……空前絶後の捏造讒言
最終頁 「讒言者」は何故生まれる?


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令和六(2024)年三月一一日 最終更新