第拾頁 黒田如水with栗山善助&井上九郎右衛門……救助も野望も共に

主君:黒田如水
氏名黒田孝高(くろだよしたか)
生没年天文一五(1546)年一一月二九日〜慶長九(1604)年三月二〇日
地位中津藩主
通称官兵衛、如水
略歴 第肆頁を御参照下さい(笑)。
家臣:栗山善助&井上九郎右衛門
氏名栗山利安(くりやまとしやす)井上之房(いのうえゆきふさ)
生没年天文一九(1550)年〜寛永八(1631)年八月一四日天文二三(1554)年〜寛永一一(1554)年一〇月二二日
地位黒田家筆頭家老黒田家重臣
通称善助、四郎右衛門、備後守九郎右衛門、周防守
略歴 天文一九(1550)年、播磨姫路栗山に生まれた。善助(ぜんすけ)が通称で、利安は諱である。
 永禄八(1565)年夏から黒田孝高に側近として仕え、数々の戦場に活躍。天正六(1578)年、孝高が織田信長に反逆した荒木村重を説得する為に単身有岡城に向かって捕らえられると、翌天正七(1579)年に井上九郎右衛門、母里太兵衛等と共にこれを救出した。

 天正一六(1588)年、孝高が豊臣秀吉より豊前中津領主になると、善助も六〇〇〇石を与えられ、平田城代となった。文禄二(1593)年に主君・孝高が隠居すると、引き続き、その子の長政に仕えた(実権?……手放さないに決まってまんがな(笑))。
 長政と共に朝鮮出兵にも参戦。秀吉が没すると関ヶ原の戦いでは如水(孝高)と共に豊後に出兵し、西軍の大友義統と戦い、九州方面に黒田家の一大勢力を築くのに貢献した。
 勿論これは如水が関ヶ原における東西両軍の戦いが長引くと見て、疲弊した両軍を叩いて天下を取る為の一大博打だったのだが、周知の通り、天下分け目の戦いは(皮肉にも)長政の活躍にて一日で東軍大勝利に決した。

 戦後、長政が筑前五二万石への大加増を受けると善助も朝倉郡に一万五〇〇〇石を与えられ麻底良城主となった(同時に善助の息子・利章にも別途三三〇〇石が与えられ、栗山家としては二万石に及ぶ大身となった)。
 元和三(1617)年、利章に家督を譲り、元和九(1623)年に長政が死去したのを機に正式に隠居して一葉斎卜庵と号した。
 寛永八(1631)年八月一四日、未明逝去。栗山利安享年八二歳。
 天文二三(1554)年、井上之正の子として播磨飾東郡松原郷に生まれた。諱の初名は政国(まさくに)、後に之房と名乗ったが、通称である九郎右衛門(くろうえもん)の方が有名。
 初め黒田職隆(孝高の父)に小姓として仕えた。天正六(1578)年に、主君・孝高が荒木村重によって有岡城に幽閉された際には、栗山善助・母里太兵衛友信と共に有岡城下に潜伏し、孝高の安否を探り、その救出に尽力した。
 天正一三(1585)年に職隆が没すると、その遺命により正式に孝高の重臣として召し抱えられ、二年後の九州平定後には長政と共に国人一揆の対応に当たった。

 孝高が中津領主に就任するに伴って、歴代の功により九郎右衛門も天正一六(1588)年に六〇〇〇石を与えられた。文禄元(1592)年に朝鮮出兵が始まると長政と共に渡海して朝鮮に渡り奮戦した。
 慶長五(1600)年、関ヶ原の戦いが起きると既に隠居していた孝高と共に豊前中津にて挙兵し、東西両軍の間隙を突いて天下を狙う第三勢力を構築せんとして、石垣原の戦いに奮戦し、大友氏家臣・吉弘統幸を討ち取った。
 勿論関ヶ原の戦いは皮肉とも云える長政の活躍のために一日で東軍大勝利に終わり、如水九郎右衛門主従の最後の野望は夢と潰えた。
 野望は成らなかったが、黒田家は長政の活躍が家康に大いに認められ、長政は筑前福岡五二万石の大大名に出世し、九郎右衛門は豊前小倉の近くに黒崎城と一万六〇〇〇石を与えられ、大名格の待遇を得た。

 慶長一二(1607)年、長政の使いとして徳川秀忠・家光に拝謁。名馬を賜ると共に周防守を称することを許され、幕府からも一端の存在として認められた。
 慶長一九(1614)年の大坂冬の陣では、主君の長政が豊臣秀頼に味方することを警戒されて江戸城の留守居を命じられると、九郎右衛門は長政の嫡男・忠之に従って大坂に出陣した。
 大坂夏の陣(←この時は長政も参戦した)が終わり、一国一城令が発令されると黒崎城を破却し、元和九(1623)年に長政が逝去したのを機に孫・正友に家督と石高を譲り、隠居・剃髪して半斎道柏と名乗った。
 だが、如水以来の人望は衰えず、寛永一〇(1633)年に黒田騒動が起こると栗山利章(善助の子)と結んで倉八正俊を排斥し、その鎮定に貢献した。
 寛永一一(1634)年一〇月二二日逝去。井上九郎右衛門之房享年八一歳。



両腕たる活躍 栗山善助井上九郎右衛門の黒田家重臣としての活躍を考察するにあたって、黒田家と時の権力との関係、並びに黒田家における主従体制を理解する必要がある。

 組織の大小に比例して人員体制が複雑化するのは世の常で、同時に初期メンバーは組織の肥大化に連れてその地位も上昇する。殊に黒田官兵衛は当初播磨の国人領主・小寺家の庶流に過ぎなかった身が、九州の大大名にまで立身出世した。それ故、善助九郎右衛門も歴史的には目立つ存在ではないものの、個人としてはかなりその立場を変えていた。
 勿論それ自体は両名に限った話ではないのだが、主家の変遷に在って、常に如水の両腕であったことが特筆に値しよう。

 その黒田家中だが、初めは国人領主の周囲に侍る召使がいた程度だった(←善助官兵衛に奉公して三年目にやっと足軽一人を配下に付けられた)が、長政の代には福岡五二万石に達しており、「略歴」に記した様に、善助九郎右衛門も陪臣ながらその身代は万石を越えた立派な大名格で、城持ちですらあった(後に一国一城令のために城持ちではなくなったが)。
 そんな中、両名の「両腕」としての変わらぬ活躍に、家中の取り纏めと渉外があった。

 特に黒田家の立場の変遷を考えれば生涯は重要である。
 播磨の一国人から羽柴家を通じて織田家に随身した訳だが、宗家である小寺家は信長に対して面従腹背で、それが為に官兵衛もひどい目に遭い、救出の時まで丸で信長に信用されていなかった。
 秀吉には信用されていて、その秀吉が信長の横死をきっかけに大出世したことで黒田家も繁栄した訳だが、そのきっかけとなった本能寺の変に際して、ついうっかり、「君の運の開け給う時ぞ。」発言したことから今度はその秀吉に才能は信じられながらも、忠義は信じられない、と云う奉公人としては(心情的に)最悪の待遇を迎えてしまった。
 万事そんな調子だったから、黒田家中は信長・秀吉・家康に対して、黒田家が天下人を裏切るメリットを持ち合わせていないことをアピールしつつ、戦場では間違いない成果を挙げなければならなかった。
 権力者にとって、有能で忠実ならざる者は無能な忠義物よりも厄介なのはいつの世にあっても変わらないものである。

 いきおい、黒田家中にあっては「家格の肥大化に伴って雑多化する人材の統率」と「時の権力者相手に黒田家の有能・忠実のアピール」を担う者が求められた。その前者を担ったのが善助で、後者を担ったのが九郎右衛門であったことは余人の言を待たないところだろう。



両腕の意義 黒田家中に詳しい人や、黒田如水・長政父子のファンの中には、薩摩守が如水の「両腕」を栗山善助井上九郎右衛門としたことに異議の有る方も多いと思う。特に母里太兵衛ファンの方々は怒り心頭のことだろう(苦笑)。
 だが、薩摩守は母里太兵衛が黒田家中の「武」の中核として黒田家の勢力拡大に大いに貢献したことは認めており、彼に敵意や悪意がある訳ではない。勿論、善助九郎右衛門を選んだことには論拠がある。

 それは、(繰り返しになるが)栗山善助が黒田二十四騎の筆頭として海千山千の能臣達を牽引し、井上九郎右衛門は普段目立たないようでいていざという時には如水・長政名代を担うほどの「縁の下の力持ち」であったことに注目してのことである。
 黒田二十四騎を初めとする家中に有能な人材が溢れて居たこともさることながら、大将である如水・長政自身が下手な軍師顔負けの策謀家振りを発揮した訳だから、中間管理職(?)の心労足るや並大抵ではない(←実際に、長政の子の代に黒田騒動が起こった)。

 そんな中、善助は「一老」と呼ばれる筆頭重臣であり、戦場にて戦士としても采配者としても何度も感情を貰う人物でもありながら、誰に対しても腰が低く(←相手が誰でも挨拶時には必ず下馬したと云う)、武勇を頼りに尊大に振る舞う太兵衛のストッパーを為し、自分が出世するに従って生じた思い上がりの経験を若者達に諭したと云う。彼が自らの経験と慎みで黒田家中に大きな影響を与えていたであろうことは想像に難くない。

 一方の九郎右衛門は、関ヶ原の戦い時に如水の九州制圧戦・石垣原の戦いで、大友義統の家老・吉弘統幸を一騎打ちにて討つという武者振りを発揮し、翌年には伏見にて如水と共に徳川家康に、そのまた翌年にも長政名代として江戸にて徳川秀忠に謁見した。
 特に秀忠の覚えは目出度かったようで、栗毛の馬を拝領した上、このときの縁で、九郎右衛門の嫡男・庸名は後に六〇〇〇石の旗本として秀忠に仕えた。

 両名の主君、黒田如水はある意味一人で何でも出来る男だった(さすがに有岡城の土牢で劣悪環境に置かれた影響で個人としての戦働きは叶わなかったが、総大将が個人として白兵戦に優れている必要はない)。これほど優れた主君というのは万事を部下任せに出来ない者が多かったが、如水はそれも出来たし、それに良く応えたのが黒田二十四騎で、特に個々の役割を強く果たしたのが善助九郎右衛門だったと云えよう。
 過去作で何度か触れたが、改めて薩摩守は黒田如水を敵に回したくない人物だと(個人的に)思う。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新