第拾壱頁 加藤清正with飯田覚兵衛&森本義太夫……恨み言を述べつつも再仕官せず

主君:加藤清正
氏名加藤清正(かとうきよまさ)
生没年永禄五(1562)年六月二四日〜慶長一六(1611)年六月二四日
地位主計頭、肥後守
通称虎之助
略歴 永禄五(1562)年六月二四日、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張中村に生まれた。幼名は虎之助。母の伊都が木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の母・なかと姉妹だったとも、従姉妹だったとも云われており、その縁で織田信長の元で出世を繰り返していた藤吉郎に仕えた。

 福島市松(正則)とともに「子飼い」と呼ばれる側近として、藤吉郎を「親父様」、その妻のお禰を「お袋様」と呼んで慕い、仕え、数々の戦場で奮戦した。
 天正元年、藤吉郎が羽柴秀吉と名を改めて近江長浜城主になるとその小姓として引き続き秀吉に可愛がられ、清正もこれに良く応え、忠義を尽くし続けた。

 その後、秀吉の中国征伐に従軍し、天正一〇(1582)年六月二日に本能寺の変が起こると、中国大返し山崎の戦いに従い、秀吉の台頭を支えた。更に翌天正一一(1583)年の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として三〇〇〇石の所領を与えられた(後の六人は福島正則、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元)。
 その後も秀吉の出世に伴って清正も出世し、天正一三(1585)年七月に秀吉が関白に就任すると同時に清正も従五位下・主計頭に就任した。

 天正一四(1586)年、秀吉が九州を平定。肥後領主となった佐々成政が失政により改易されると、これに替わって肥後北半国一九万五〇〇〇石を与えられ、隈本城に入った(南半国は小西行長に与えられ、宇土城に入った)。
 国人衆の勢力・不服従姿勢が強く、「難治の国」と云われた肥後を見事に収めた清正朝鮮出兵が始まるとその急先鋒を命じられ、文禄の役では上陸から半月足らずで首都漢陽を落とし、半島北端の咸鏡道を越えて満洲のオランカイ(兀良哈)まで攻め入り、李氏朝鮮の二王子を捕らえる活躍をした。

 だが地上戦で清正達が目覚ましい活躍をしていたのとは反対に、海上戦では大苦戦を続けて補給が途絶え、外交面では朝鮮及び背後にある明が降伏する訳が無いと見ていた石田三成達が(半ば手前勝手な)講和に走っていた。
 一方で清正清正で朝鮮に対してほとんど降伏ともいえる講和条件を単独で突き付けていた。それゆえ三成と小西行長は清正を邪魔者と見て、清正が講和の便宜上から勝手に「豊臣清正」と名乗ったことや、現地での独断専行を訴えたことで、清正は秀吉から帰国・謹慎を命ぜられた。
 謹慎は伏見大地震で秀吉を気遣った行為が褒められることで解かれ、慶長の役にも出陣。蔚山城の戦いで厳しい籠城戦を耐え抜き、文禄の役程の快進撃は成らなかったが、朝鮮・明の両軍や民衆から恐れられた。

 慶長一八(1598)年八月一八日に豊臣秀吉が薨去すると朝鮮出兵は終結。清正も帰国し、朝鮮半島から撤退した。
 だが豊臣家中では朝鮮出兵時に石田三成から受けた仕打ちを激しく恨み、武断派・尾張派の筆頭として、福島正則や加藤嘉明等と共に三成排斥を図り、慶長四(1599)年閏三月三日に前田利家が逝去するとその日の内に七将(加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、池田輝政)による石田三成暗殺未遂事件を起こし、家康に制止された。

 翌慶長五(1600)年に関ヶ原の戦いが起こると肥後にて家康方として九州の諸大名が西軍につかないよう睨みを利かせ、黒田如水とも連絡を取り合った。周知の様に関ヶ原の戦いは東軍大勝利に終わり、戦後清正は刑死した小西行長の収めていた肥後南半分を与えられ、肥後一国を領有する五二万石の大大名となった。
 以後、家康と昵懇に努めた清正だったが、豊臣家及び秀頼への忠義が褪せた訳ではなく、むしろ豊臣家を守る為にも、家康と仲良くしておくべき、と考えての行動だった。
 慶長一一(1606)年に徳川四天王の一人、榊原康政の嫡男康勝に娘を嫁がせ、康政が急死すると岳父として康勝の館林藩政を後見した。慶長一五(1610)年には尾張名古屋城の普請に協力。する等して徳川家との結びつきを更に強めた。

 この間、秀頼の生母・淀殿は豊臣と徳川の力関係が入れ替わった現実が受け入れられず、将軍家となった徳川家に秀頼が会いに行くことを頑なまでに拒み続けたが、清正はこれを説得。慶長一六(1611)年三月、秀頼の護衛を務めて二条城における家康との会見を成立させた(名目上は次女・八十姫との婚約が成立していた家康の一〇男頼宣の護衛役)。
 会見が平穏に滞りなく済むと清正は、娘婿・頼宣とともに秀頼の豊国神社の参詣、鳥羽までの見送りに随行。無事秀頼を大坂城に送り届けた。
 だが、清正は熊本への帰国途中の船内で発病。何とか肥後には辿り着いたが、六月二四日に熊本城にて病死した。加藤清正享年五〇歳。会見後に逝去したことや、清正の死に続いて浅野長政・幸長、池田輝政、真田昌幸等の豊臣恩顧の大名達が次々と世を去ったため、数多くの時代小説やドラマにて呆れるほど頻繁に清正が毒饅頭で暗殺されたことになっているが、二条城会見から熊本城内での逝去までには三ヶ月のタイムラグがあり、その様な効果を出す毒薬を薩摩守は知らない(笑)。
家臣:飯田覚兵衛&森本義太夫
氏名飯田直景(いいだなおかげ)森本一久(もりもとかずひさ)
生没年永禄五(1562)年〜寛永九(1632)年九月一八日永禄三(1560)年〜慶長一七(1612)年七月九日
地位加藤家重臣加藤家重臣
通称角兵衛・覚兵衛儀太夫
略歴 永禄五(1562)年に山城山崎にて、飯田直澄の子として誕生。若い頃から加藤清正に仕え、森本一久(儀太夫)、庄林一心(隼人)と並んで「加藤家三傑」と呼ばれる重臣となった。
 武勇、特に槍術に優れ、天正一一(1583)年の賤ヶ岳の戦い清正の先鋒として奮戦し、清正が「賤ヶ岳の七本槍」の一人にカウントされるようになるのに貢献した。
 朝鮮出兵では、森本儀太夫と共に亀甲車なる装甲車を作り、晋州城攻撃の際に一番乗りを果たしたと云われる。この功績は豊臣秀吉にも認められ、「」の字を与えられ、以後、飯田覚兵衛を名乗った(正式な書状では「角兵衛」のまま)。

 その後も土木普請を主として清正の施政に活躍。だが、慶長一六(1611)年六月二四日に清正が病死すると、その子・忠広に仕えたが、その才覚を買っておらず、没落を予言していたと云われている。
 不幸にもその予言は的中。寛永九(1632)年五月二二日、三代将軍徳川家光は四ヶ月前に父で大御所の秀忠が薨去したことで自分の時代が来たことを誇示するみたいに肥後熊本藩の改易を発布。忠広は出羽庄内に配流となった。だが覚兵衛は他家への再仕官を求めず京都にて隠棲。同年九月一八日に逝去した。飯田覚兵衛直景享年七〇歳。
 永禄三(1560)年、摂津の国人・森本一慶の子として誕生。幼名は力士
 若い頃より加藤清正に仕え、飯田直景(覚兵衛)、庄林一心(隼人)と並んで加藤家三傑と呼ばれる重臣となった。
 朝鮮出兵の際、第二次晋州城攻防戦において飯田直景と共に亀甲車なる装甲車で城の石垣を破壊し、黒田長政の配下後藤基次(又兵衛)と一番乗り争いを展開し、これに勝利した。その功は豊臣秀吉からも認められ、「」の字を与えられたと云う。

 その後も土木普請等で清正を支え、清正逝去から一年が経過しようとしていた慶長一七(1612)年六月一一日に逝去した。森本儀太夫一久享年五三歳。



両腕たる活躍 名城・熊本城を築き、名古屋城築城時のエピソード(家康九男・義直の居城造りに全国の大名を動員したのを愚痴った大名を清正が諭した話)もあって、加藤清正は「築城の名手」として有名である。そしてその築城でも清正を支えて活躍したのが飯田覚兵衛森本儀太夫だった。

 薩摩守には築城ノウハウの知識は無いので、具体的に両名が築城においてどう活躍したかは不詳だが(苦笑)、覚兵衛の築城技術は槍術と並んで特筆ものだったらしい。
 約百間(一八〇m)にも及ぶ三の丸は百間石垣と呼ばれ、覚兵衛が建築と守備を担当した櫓は「飯田丸五階櫓」として現代に名を残している。
 そしてその覚兵衛に続くように儀太夫、庄林隼人以下加藤軍団は築城を初め、優れた職能集団としての一面を持っていた。

 清正が肥後北半国の領主として入国した天正一六(1588)年、隈本の領民は、河川の氾濫や一揆による領地の荒廃に苦しんでいた。そこに土木事業に注力して領地再生に取り組み、肥後藩の経済安定化の立役者となったのが、清正覚兵衛儀太夫・隼人等だった(←勿論、名前無き加藤家中の者達も含まれる)。
 後に朝鮮出兵を経験した際に、朝鮮各地の城を検分し、朝鮮人の技術者を熊本に拉致連行したことでその技術を飛躍的に向上させた。単に技術に優れていただけでなく、大事業の前には必ず領民を集め、自らの展望や事業の意義を分かり易く説明していたと云う。
 そんな技術と人心掌握に裏打ちされて築城された熊本城は、豊臣秀頼が大坂城を追われるようなことがあった際にはこれを迎え、徳川家に対抗する最後の砦としての一面を持っていたことや、西南戦争に際して西郷隆盛をして、「我等は官軍に敗れたのではない、清正公に敗れたのだ。」と云しめたこと等、数多くのエピソードに事を欠かない。

 だが、皮肉にもそのような背景故に清正達は幕府から、「味方にすれば頼もしいが、敵に回せば恐ろしい。」と思わしめ、二条城での豊臣秀頼と徳川家康の会談から約三ヶ月後に清正が病死したことから、清正は数多くの書籍にて彼を恐れた家康に毒殺されたことにされてしまっている。
 前述した様に、薩摩守は、清正は普通に病没したと思っており、仮に暗殺だったとしても、もしそこに微塵でも疑いが残れば、遠隔地の熊本にて残された覚兵衛儀太夫が忠広を擁して、親豊臣の九州諸大名(細川・黒田・島津等)と連携して徳川に刃向かえば幕藩体制はかなり揺さぶられることになり、その意味でもやはり清正暗殺は悪評の域を出ず、同時に清正覚兵衛儀太夫の結束の固さと連携には唸らされるのである。



両腕の意義 飯田覚兵衛森本儀太夫には幼少時代に加藤清正と賭相撲を取り、勝者となった清正に両名がその家来になるという誓いを生涯護った、と云うエピソードがある。「如何にも出来過ぎた話」という気がしないでもないが、主従というよりは竹馬の友的な関係を終生続けた三者の関係をよく示した話と云える。

 加藤清正と云えば、福島正則と共に、秀吉を「親父様」、お禰(高台院)を「お袋様」と呼び、丸で親子の様に従い、秀吉薨去後に多くの豊臣恩顧大名が現実を重視して秀頼を蔑ろにし出しても正月の挨拶を欠かさず、家康との二条城会談でも懐剣を忍ばせて秀頼に随行する等、数々の言動から忠義の鬼としてのイメージが強い。
 歴史に禁物とされる「if」を語ると、大坂の陣の時まで清正が存命だったら如何なる行動を取っていたかは多くの者が興味を抱く所である。
 だが、そんな清正覚兵衛儀太夫との絆は、豊臣家に対するそれに勝るとも劣らぬものだった。

 寛永九(1632)年五月二二日、肥後熊本藩が改易となったとき、既に清正儀太夫も亡く、生きていたのは覚兵衛だけだった。その後覚兵衛は出羽庄内に配流となった忠広とも別れ、京都にて隠棲し、折に触れ、「俺の一生は清正公に騙されたものだった。」とこぼしていたと云う。
 だが、これは極端な出世と没落を味わった人生と、改易から半年も経ずに世を去った余生少ない身から来た皮肉だろう。加藤家改易後、家中から浪人した者達は清正の高名もあって数多くの大名家から再仕官の誘いを受け、既に高齢に達していた覚兵衛も引く手数多だったと云われているが、覚兵衛は全く応じなかったと云われている。
 恐らく、覚兵衛には加藤家以外の主家は考えられず、出世するも、没落するも清正と共にあることに意義があったのだろう。少なくともそれほど清正覚兵衛儀太夫の絆が強かった事だけは疑いようがない。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新