第玖頁 徳川家康(最晩年) with南光坊天海&金地院崇伝……過渡期を担った二人の怪僧

主君:徳川家康
氏名徳川家康(とくがわいえやす)
生没年天文一一(1543)年一二月二六日〜元和二(1616)年四月一七日
地位征夷大将軍、源氏長者、大納言、内大臣、太政大臣、他官職多数
通称次郎三郎。狸親父、大御所
略歴 勿論、略(笑)。
家臣:南光坊天海&金地院崇伝
氏名南光坊天海(なんこうぼうてんかい)金地院崇伝(こんちいんすうでん)
生没年天文五(1536)年〜寛永二〇(1643)年一〇月二日永禄一二(1569)年〜寛永一〇(1633)年
地位天台宗大僧正臨済宗僧正
通称随風、慈眼大師黒衣の宰相、本光国師
略歴 一般に天文五(1536)年に会津の蘆名氏の一族として生まれたとされている。生年や出自には諸説あり、逆算から算出されたものだが、どの説をとっても一〇〇歳を超える天寿を全うしたことに間違いはないと見られている。

 最初は随風(ずいふう)と称して龍興寺にて出家。一四歳で下野宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び近江国の比叡山延暦寺や園城寺、大和国の興福寺などで学を深めたと云う。
 元亀二(1571)年、織田信長の比叡山焼き打ちを受け、随風は武田信玄の招聘を受けて甲斐に、その後、蘆名盛氏の招聘を受けて黒川に、上野・長楽寺にと移住を繰り返し、天正一六(1588)年に武蔵の無量寿寺北院に移った。この頃天海を名乗ったとされる。

 無量寿寺北院に来た辺りから天海の足跡は明らかになり出し、小田原征伐の頃、浅草寺住職・忠豪とともに徳川家康の陣幕に出入りを始めた。
 慶長四(1599)年に北院の住職となり、同時に家康の参謀として朝廷との交渉を担い出した。
 慶長一二(1607)年〜慶長一七(1612)年の間、比叡山延暦寺や無量寿寺北院といった自分と縁の深い寺院の再建に尽力(これにより北院は寺号を喜多院と改め関東における天台宗の本山となった)。
 慶長一八(1613)年、家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興。ほぼ同じ頃、豊臣家が再興した方広寺の鐘銘に云い掛かりをつけ、大坂の陣に繋げる陰謀の片棒も担いだ(方広寺鐘銘事件)。

 慶長二〇(1615)年五月八日、大坂の陣により豊臣家が滅亡。翌元和二(1616)年一月、家康が食中り(胃癌の症状らしい)を起こし、危篤となった家康から神号や葬儀に関する遺言を受け、金地院崇伝、本多正純等との論争の果てに家康の神号を東照大権現とした(家康は四月一七日に薨去)。
 同年七月に天台宗大僧正に就任。

 その後も二代将軍秀忠、三代将軍家光に仕え続け、陰陽道や風水に基づいた鎮護を為す江戸都市計画にも関わった。一方、紫衣事件で罪を受けた高僧達や、(半ば陰謀で)罪を受けていた大久保忠隣・福島正則・徳川忠長等の赦免を願い出たりもした。
 寛永二〇(1643)年一〇月二日、南光坊天海逝去。享年一〇八歳。その五年後、朝廷より慈眼大師の号を追贈された。
 永禄一二(1569)年、室町幕府直臣の一色秀勝の次男として京都に生まれた。順当にいけば足利将軍家の側近としての人生を歩むところだったが、元亀四(1573)年に将軍・足利義昭が織田信長によって京を追放されて室町幕府は滅亡。これを受けて崇伝は南禅寺にて出家。鷹峯金地院の靖叔徳林に嗣法、更に醍醐寺三宝院で学んだ。

 文禄二(1593)年に摂津福厳寺、相模禅興寺、慶長一〇(1605)年に鎌倉建長寺の住職を歴任。同年三月には臨済宗五山派の最高位・南禅寺二七〇世住職となり、後陽成天皇から紫衣を賜った。
 慶長一三(1608)年、相国寺西笑承兌の推薦により既に大御所となっていた徳川家康に仕え、駿府にて幕政に参画し出した。主に外交事務を担当し、慶長一五(1610)年に居寺として駿府城内に建立した金地院を与えられた(これにより金地院崇伝以心崇伝と呼ばれた)。
 慶長一七(1612)年、貿易立国を目指す家康から明・朝鮮・シャム(アユタヤ朝)・ベトナム等の東南アジア諸国との交易、西欧諸国との接触を任され、外交文書の起草や朱印状の事務取扱を一手に引き受けた。
 同時に宗教関係の立法・行政も崇伝の担当となり、京都所司代板倉勝重と共に全国の寺社を統括した。これにより仏教だけではなく、キリスト教弾圧にも着手し、キリスト教禁教の起草を命じられ、これが元で棄教に応じなかった高山右近、内藤如安等が慶長一九(1614)年に国外追放となった。

 これ等の尽力から、同じ家康の政僧でも南光坊天海よりもダークな仕事に従事するイメージが強まり、慶長一九(1614)年の方広寺鐘銘事件で豊臣家に云い掛かりをつけて開戦に漕ぎ着け、豊臣家が滅びると寺院諸法度武家諸法度禁中並公家諸法度にも従事した。これ等は江戸幕府の基礎を固めた重要な法令であったが、同時に大名・皇族・公家・宗教関係者を震え上がらせ、怨みを抱かせるものでもあった。故に崇伝は「黒衣の宰相」、「大欲山気根院僭上寺悪国師」等と呼ばれ、恐れられ、嫌われた。

 元和二(1616)年四月一七日、大御所徳川家康逝去。崇伝家康の神号を巡って天海や本多正純と論争を展開した(結果、崇伝の推した明神号は退けられた)。
 元和四(1618)年、将軍秀忠より江戸城北の丸に約二〇〇〇坪の土地を拝領し、金地院を建立。翌元和五(1619)年に僧録(僧侶人事の統括役)となった。
 一方で崇伝は南禅寺や建長寺の再建復興、古書の収集や刊行などの文芸事業にも尽力した。

 寛永四(1627)年、崇伝の宗教関係への辣腕が祟ったかの様に紫衣事件が起きた。幕府の措置に対して反対意見書を提出した沢庵宗彭、玉室宗珀、江月宗玩に怒った崇伝は三人を遠島に処せんとしたが、天海や柳生宗矩らの取り成しによって、沢庵は出羽上山に、玉室は陸奥棚倉へ配流、江月はお咎めなしとなった。
 大御所秀忠逝去のほぼ一年後となる寛永一〇(1633)年一月二〇日、江戸城内金地院にて逝去。金地院崇伝享年六五歳。



両腕たる活躍 南光坊天海金地院崇伝徳川家康のブレーンとしてその存在感が増していったのは、家康の将軍隠居後−所謂、「大御所」と呼ばれる様になってからである。
 家康の人生は三河時代・浜松時代・関八州時代・将軍時代・大御所時代に大別出来るが、これは別の云い方をすれば、弱小領主時代・中堅大名時代・大大名時代・天下人時代・黒幕時代にも大別出来る。

 当然、三河・弱小領主時代は大勢力の狭間で生き残ることだけに必死だっただろう。だが、五大老の一人として豊臣秀吉に従う頃には天下の政治に携わる様になり、武将のみならず、政治家としての手腕も求められるようになった。
 殊に江戸幕府開幕後、家康は最後の抵抗勢力だった豊臣家以外にも、朝廷、海外、寺社勢力とも相対することとなった。

 一口に「相対する」と云っても、ドンパチで勝てばいいというものではない。そもそも相手は軍人ではない。朝廷相手にドンパチを展開すれば「朝敵」の汚名を着かねず、寺社勢力相手にドンパチを展開すれば「法敵」として全国各地の信者を敵に回すことになる(実際、三河岡崎城主時代に家康はその様な目に遭った)。
 つまりは武力一辺倒で屈服出来る相手ではなく、時には高圧的に出たり、時には懐柔したり、時には協力し合ったり、といった柔軟な対応を必要とする。
 そして「餅は餅屋」という言葉がある様に、とある勢力と相対するには、幕閣にその勢力に属するブレーンがいるか、とある勢力に武家との取次役が生まれた(朝廷には武家伝奏と呼ばれる担当者がいたし、室町幕府の将軍家は世子以外の男児を出家させて京都五山に送り込んでいた)。
 天海は天台宗、崇伝は臨済宗の高僧として、家康に侍りつつ、時に幕府と宗教勢力の橋渡しを行い、時に朝廷や幕府に必ずしも従順ならざる武家勢力(早い話豊臣家)との交渉において、(一応は)世俗を離れた中立の立場で仲介したりした。
 ま、家康ならずとも、天下の何分の一かを掌握すれば誰でも天海崇伝の様な対宗教勢力との渉外を担うブレーンは必要とした訳だが。



両腕の意義 徳川家康自身は仏教徒だったと云っていい。それは家康のみならず、三河時代の家臣一同も同様で、それが為に三河一向一揆勃発時には家臣の半数に背かれて精神的にも苦戦したのは有名である。
 故に家康は幕政を執るに当たって、宗教問題に心を砕いたであろうことは想像に難くない。とはいえ、徳川家康という男、信仰に対して非寛容だった訳ではない。幕藩体制に従順であるなら個々の信仰には寛容だったとさえ云える。晩年厳しく弾圧したキリスト教にしても、海外交易を重視する上からも当初は寛大に遇していたが、その教義が幕制丈の上下関係を否定するが故に禁じたものである。

 いずれにせよ、対宗教勢力政策は家康にとって頭の痛い問題だったであろうことは想像に難くない。結論から云えば寺院諸法度を定めたことで、大名を武家諸法度、朝廷を禁中並公家諸法度で統制した如く統制した。
 「御法度」という言葉が締め付けのイメージを持つように、諸法度において取り締まりの対象とされた者達は大いに不満だっただろう。この寺社勢力にとって、僧侶でありながら幕府サイドにて取り締まりの急先鋒となったのは金地院崇伝であった。この少し前には崇伝は対豊臣家対策においても方広寺鍾銘事件という云い掛かりに等しい手腕で大坂の陣に漕ぎ付けたりもしたので、上述した様に彼は世に嫌われた。
 つまりは家康側近にあって、陰陽の二面の内、「陰」を担った訳であった。

 だが、世の中、一方的な締め付けのみでは怨む者を増やすだけである。その相手を圧倒的な力で押さえつけられる内はいいが、力はいつか衰え、その時に難敵を抱えることになる。それを防ぐ為には高圧的に出つつも、相手に逃げ口を与える必要がある。
 大雑把な云い方だが、そこを担ったのは天海であった。これも前述しているが、崇伝家康ブレーンの宗教担当者として圧制者・弾圧者・処罰執行人だったのに対し、天海はその被害者(?)の赦免・減刑に務めた。謂わば天海崇伝は陰と陽を担い別けることで家康ブレーンの渉外担当における車の両輪を担ったとも云えよう。

 こう考えると、金地院崇伝徳川家康側近として、世評的に貧乏くじを引かされた感があるが、陰と陽の、「両腕」たる見事な使い分けがあればこそで、崇伝本人は、他者には担えない自分の役割と家康の信頼を誇りに、案外満足していたのではなかろうか?



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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新