第拾弐頁 徳川秀忠with榊原康政&大久保忠隣……不人気若様を征夷大将軍に

主君:徳川秀忠
氏名徳川秀忠(とくがわひでただ)
生没年天正七(1579)年四月七日〜寛永九(1632)年一月二四日
地位中納言、征夷大将軍
通称長松
略歴 天正七(1579)年四月七日、徳川家康の三男として遠江浜松に誕生。母は側室で最も家康の寵愛を受けた西郷局(家康の数多い側室の中で二人以上の子を産んだのは西郷局を含めて三名のみ)。
 幼名は長松。生まれてすぐに長兄・信康が切腹を命じられる等、家中は不穏だったが、家康の母の寵愛もあって当人は平穏の内に成長した。

 だが、六歳の時、次兄・秀康が羽柴秀吉の元へ養子に行き、天正一八(1590)年の小田原征伐時に実質的な人質として上洛したのを機に家康の後継者候補として見られるようになった。もっとも、人質と云っても子煩悩男・秀吉には可愛がられ、秀吉から「」の字、祖父・広忠の「」の字を与えられて徳川秀忠として元服した。
 その後、中納言に任官。文禄四(1595)年には秀吉の斡旋で、浅井三姉妹の末妹・江と結婚した(江は形式上、秀吉の養女になっていたので、秀忠と秀吉は義兄弟で、義理の親子というややこしいが強い縁を持つ関係となった)。

 慶長五(1600)年、初陣となる関ヶ原の戦いに臨んで、父・家康が豊臣恩顧の大名達を先発させて東海道を進んだのに対し、秀忠は中山道を進む別働隊の総大将として徳川譜代の将兵を率いて進軍したが、その途上、真田昌幸・信繁(幸村)父子の籠る上田城を落とさんと躍起になったことで肝心の決戦の舞台である関ヶ原に遅参するという大失態を演じた。
 関ヶ原到着後、遅参に怒った家康との面会が叶うのに三日かかった。

 その後、家康は自分の後継者を秀康・秀忠・忠吉の誰にするか悩みに悩み、重臣達もそれぞれに異なる候補者を推した。だが結果として慶長八(1603)年に征夷大将軍に就任した家康が、徳川氏による将軍職世襲を天下に示す為に第二代将軍に選んだのは秀忠だった。
 かくして慶長一〇(1605)年四月一六日、徳川秀忠は第二代征夷大将軍に任じられた。勿論政治の実権は大御所となった家康が………以下同文(笑)。

 父・家康は駿府に(形式上)隠居し、秀忠は江戸城に入って本多正信の監視補佐を受けて(決定権の無い)政務に従事。一応、秀忠は徳川家直轄領と譜代大名の統治を担当した(外様は家康が応対)。

 慶長一九(1614)年・二〇(1615)年、大坂の陣に参戦して豊臣家を滅ぼしたが、このときも実質的な総大将は任せて貰えなかった。
 元和二(1616)年四月一七日に父・家康が薨去し、ようやく事実上の最高権力者となり、幕府中枢を自身の側近(酒井忠世・土井利勝等)で固めたが、政治内容自体は家康のそれを踏襲し、豊臣恩顧の大名達を数多く改易し、幕藩体制を固め、海外交易・キリシタン禁令・対朝廷工作(末娘・和子の入内)・金銀山経営に辣腕を振るった。

 元和九(1623)年、将軍職を嫡男・家光に譲った。大御所となった後も政治の実権は………以下、同文(笑)。
 寛永三(1626)年一〇月二五日に家光・忠長(次男)を伴って上洛。後水尾天皇を二条城に迎え、拝謁。これに端を発する工作が功を奏し、寛永七(1630)九月一二日に孫娘が天皇に即位(明正天皇)したことで秀忠は天皇の外戚となった。
 寛永八(1631)年、忠長の領地を召し上げて蟄居を命じた頃から体調を崩し、翌寛永九(1632)年一月二四日薨去。徳川秀忠享年五四歳。
家臣:榊原康政&大久保忠隣
氏名榊原康政(さかきばらやすまさ)大久保忠隣(おおくぼただちか)
生没年天文一七(1548)年〜慶長一一(1606)年五月一四日天文二二(1553)年〜寛永五(1628)年六月二七日
地位式部大輔、館林藩主治部大輔、相模守、小田原藩主
通称小平太新十郎
略歴 天文一七(1548)年、三河の土豪で、松平家家臣・榊原長政の次男として三河上野郷に生まれた。幼名は小平太。主君の松平元康(徳川家康)とは五歳違いで、一三歳の時に三河に戻ったばかりの元康に見出され、その小姓となった。

三河一向一揆戦が初陣で、その際の武功を家康から賞され、永禄九(1566)年の元服に際して家康の偏諱である「」の字を与えられ、榊原式部大輔康政となるようになった。
また兄・清政が謀反の疑いで切腹させられた家康の長男・信康の傅役であり、自責の念から自ら隠居したことで康政が榊原家の家督を継いだと云われている(康政と清政の兄弟仲自体は終生良好だった)。
 共に徳川四天王一人とされた本多平八郎忠勝とは同い年で、共に旗本先手役に抜擢されて、与力五〇騎を率いて数々の戦場で奮戦・活躍した。

殊に家康の生涯における数少ない大敗であった元亀三(1572)年の三方ヶ原の戦いでは徳川勢が敗走する中、康政は浜松城に入らず、昼間の内に浜松城に入れなかった味方の兵を呼び集めて夜を待ち、一斉に兵に声を上げさせながら敵陣に駆け入らせ、動揺し逃げ惑う武田軍を瓦解させるという活躍で一矢を報いた。
以後も、長篠の戦い、高天神城の戦い、本能寺の変直後の伊賀越え小牧・長久手の戦いを家康と共にし、数々の功績を挙げた。特に長久手では森長可、池田恒興を討ち死にさせ、事前に羽柴秀吉を非難する檄文を発するなど八面六臂の活躍をした。
一説には、この檄文の内容に激怒した秀吉は「康政の首を獲った者には一〇万石を与える!」としたとまで云われている。
だが、この戦いにおける康政の活躍は、激怒した秀吉から見ても特筆もので、家康と秀吉の間で和睦が成立すると秀吉は天正一四(1586)年一一月に家康ともに上洛した康政に従五位下・式部大輔に叙任させ、豊臣姓をも下賜した。

天正一八(1590)年、小田原征伐では徳川軍の先鋒を務め、戦後家康が関東に移封されると関東総奉行として江戸城の修築に務める傍ら、康政自身は上野館林城主となり、一〇万石を与えられた。
秀吉死後、慶長四(1599)年に石田三成が伏見館の家康を暗殺せんとしたときには康政は大勢の兵が伏見館に駆け付けたように見せてこれを未然に防いだ。
 この様な数々の活躍で家康の信頼を得ていた康政は、慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いにおいて、初陣で徳川譜代軍の総大将として中山道を進む徳川秀忠の軍監に任じられた。
周知の通り、この中山道進軍は途中の信濃上田にて真田昌幸軍との戦いで日数を浪費したために秀忠軍は本戦に遅参するという大失態を演じた訳だが、これに激怒した家康を康政は必死にとりなしてその怒りを説いたため、秀忠からは大変感謝された。

だが、関ヶ原の戦い以後、家康の将軍就任、秀忠への譲位を経て徳川政権が盤石化すると、徳川家中においては康政等徳川四天王(榊原康政・本多忠勝・酒井忠次・井伊直政)を始めとする武断派家臣の出る幕は徐々に後退し、智や政治力や経済に明るい者が重く取り立てられる傾向が強まり、康政も老中となったが、所領の加増は無かった(参勤し易い館林を動くことを厭うて康政自身が加増を辞退したとの説もある)。
以後、榊原康政の名が目立って表舞台に出ることは無かったが、これには武断派の冷遇を憤った康政が領国に引き籠ったとも、世代交代の空気を読んだ康政が身を引いたとも云われている。

 慶長一一(1606)年五月六日、康政は毛嚢炎を患った。康政に恩を感じていた秀忠は病床の康政を案じて医師や見舞いの家臣を派したが、同月一四日、康政は館林にて逝去した。榊原式部大輔康政享年五九歳。

 第伍頁を御参照下さい(笑)。



両腕たる活躍 薩摩守が、榊原康政大久保忠隣徳川秀忠の「両腕」としたのは、両名が秀忠を第二代征夷大将軍に就任させるのに注目してのことである。
 「家は長男が継ぐもの」という考えは古今東西普遍的に存在しながら、絶対的な重みを持っていた時代は決して長くない。
 平和な時代でも嫡男に身体・能力・人格に重大な欠陥があれば次男以下に家督のお鉢が回って来るのは充分あり得る。ましてや乱世にあっては数々の御家の危機を乗り越えられる人物でなければ家督を任せられない、と周囲が考えるのは自然な話である。

 徳川家も例外ではなく、家康自身、後継者認定に相当頭を悩ましたのは有名である。殊に関ヶ原の戦いという天下分け目の戦いに徳川秀忠が遅参したのは、秀忠本人は勿論、家康にとっても頭の痛い話だった。
 というのも、三年後の慶長七(1603)年に征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開いた家康は、政権が豊臣家から徳川家の世襲に移ったことを天下に示す為にも、早期に将軍職を後継者に委譲する必要があったので正式な後継者の認定は急務だった。
 普通に考えるなら、年齢・兄弟順・立場から云って秀康か秀忠と考えるのが順当だった。嫡男・信康は既に非業の最期を遂げており、五男・武田信吉以下はまだまだ幼少で、対象となり得なかった。
 実際に家康が重臣達に諮った際も、榊原康政大久保忠隣が三男・秀忠を推した際、本多正信と本多忠勝は次男・結城秀康を、井伊直政は四男・松平忠吉を推した。

 この三者を比較した際、まず不利なのは忠吉であろう。関ヶ原の戦いで先駆けを為したとはいえ、忠吉は秀忠の同母弟で、直政が彼を推したのも、忠吉が直政の娘婿であったことは誰の目にも明らかだった。兄弟順から云っても、根拠的に云っても忠吉が二代将軍に推すには無理があっただろう。
 次男の秀康は「兄弟順」、「武勇」という点ではかなり有利な立場にあった。だが、豊臣家、次いで結城家と二度も養子に行ったとあっては実家との距離が遠ざかっていたのは否めなかった。また詳細は省くが、出生の背景から云っても秀康はかなり成長するまで家康から遠ざけられた存在で、幼少期に可愛がられた記憶が無かった。

 それゆえ、(この時点で)兄弟の中で唯一人徳川の姓を名乗っていた秀忠は兄弟順的に有利な立場にあり、それを示すかのように関ヶ原に向かうに当たって徳川譜代の兵団・三万八〇〇〇を率いて中山道を別動隊として進むという大任を託された。関ヶ原の戦いに遅参することなく、直参の兵を率いて活躍していれば徳川家康の後継者として誰も異議を挟めない盤石の立場を得ていたことだろう。

 だが、結果的に天下分け目の戦場に遅参したことは、武将として、徳川家後継者として秀忠にとっては痛恨事だった(しかも遅参の要因となった上田城は陥落出来なかった)。
 勿論家康に断固たる決意があり、鶴の一声を発せれば後継者認定自体は容易である。だが、余り強引に認定すれば後継者・新将軍への忠誠を初めとする幕藩体制は軟弱なものとなる。家康亡き後に秀忠に不服を抱いた者達が秀康や忠吉やその他の弟達を担ぎ上げる可能性は充分だろうそしたかかる背景による権力争いが勃発した場合、厄介なのは外様大名よりも直参や譜代大名の方である。

 云い方を変えれば、誰が後継者になったとしても残る頭の痛い問題だった。徳川家重臣達にとっても天下を取るまでは徳川家が生き残ることだけに尽力すればよかった訳だが、徳川家の天下が確かなものになると重臣達にも徳川政権下で要職に就きたいとの欲望も生まれたことだろう。
 そんな中、立場では有利に在りながら、外聞で不利に陥った秀忠を徳川家後継者にする為には、康政忠隣は本多正信・本多忠勝・井伊直政といった百戦錬磨の智将・武将を相手に渡り合わねばならなかった。特に知恵者の正信は手強い相手だった。
 それゆえ二人は、秀忠の立場(徳川姓・江戸城住まい・娘達が豊臣・前田と婚姻)を推し、人格面では律儀な人柄を推し、時代背景的にも守勢に向いた人物が継ぐべき(つまりは下手に武将として優れているよりは、)であることを推した。
 結果、秀忠が二代将軍となったのは史実が示している通り。後年、榊原康政が用済みとなった武断派として冷遇されながらも、榊原家が転封を繰り返しながらも、大過なく明治維新を迎えられたのも、大久保家が改易になりつつも後に大名として復帰できたのも、康政忠隣に恩義を感じながらそれを救えなかった秀忠の思いやりが生きたればこそ、と考えるのは穿った物の見方だろうか?



両腕の意義 徳川家康から徳川秀忠への征夷大将軍・徳川家家督・源氏長者委譲は徳川政権としても、徳川家としても、過渡期にあり、豊臣家が健在だったこともあり、難しい時期だった。
 結果的に秀忠が家康後継となったのも、政権確立から盤石化が求められた際に、秀康・忠吉・忠輝の様な武勇系よりも秀忠の様な理知系が尊ばれた故、とも取られている。

 だが、その一転押しだけで盤石の後継者となり得るほど天下の体験とは軽い存在ではない。薩摩守が榊原康政大久保忠隣の二人を秀忠将軍職就任における「両腕」としたのは、毛色の異なる二人が徳川家の過渡期における「新と旧」で連携して秀忠の力になった故、と見たからに他ならない。
 御家が弱小勢力の時は武勇に優れた家臣が重んじられる。改姓したばかりの徳川家では本多(作左衛門重次・石川数正を筆頭に、すぐ下を所謂、四天王(酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政)が重きを為した。
 そして豊臣秀吉が天下を取った頃には押しも押されもせぬ大大名となった徳川家では(世代交代もあったが)本多正信や大久保忠隣といった智や政治力に優れた家臣等が幅を利かせ始めた。

 この流れを見ると、旧派である康政と新派である忠隣を後ろ盾に持っていた秀忠は運が良かった。兄・結城秀康の後ろにいた本多忠勝と本多正信も徳川家中で大きな影響力を有していたが、如何せんこの二人は同族でありながら水と油だった。
 また、弟・松平忠輝の背後にいた井伊直政は旧派の中では若くて影響力が小さく、直政自身関ヶ原で負った傷が元で二年後に亡くなったことで大きな力となり得なかった。

 また、見逃してはならないのは康政忠隣が目先の利益に惑わされない硬骨漢であったことも大きい。康政は天下人・豊臣秀吉にも強直に相対し、関ヶ原の戦い後の論功行賞では秀忠遅参の席を自身で背負って、石高倍増となる水戸二五万石への栄転を辞退した漢である。
 忠隣も、父・忠世の御蔭で帰参が叶った本多正信・正純父子に嵌められて改易となりながらも、改易を伝える上使を前に慌てず臆せず、「罪人となる前に最後の将棋を楽しませろ。」と云い放ち、将棋が終わると威儀を正して改易命令を拝領した度量深き人物だった。

 男子災況に在って騒がず…………能力如何に関わらず、人間は過失も犯し、不遇も託つ。  そんな時に何が大切なのかを徳川秀忠という「頭」を支えた榊原康政大久保忠隣の「両腕」が教えてくれている………と云うのは過言だろうか?


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新