第拾参頁 伊達政宗with伊達成実&片倉小十郎……独眼竜を支えた「武」と「智」

主君:伊達政宗
氏名伊達政宗(だてまさむね)
生没年永禄一〇(1567)年八月三日〜寛永一三(1636)年五月二四日
地位左京大夫、陸奥守
通称独眼竜
略歴 永禄一〇(1567)年八月三日、出羽米沢城にて伊達輝宗の嫡男に生まれた。幼名は梵天丸。幼少時に疱瘡(天然痘)を患い、一命は取り留めたものの片目を失い、このことが後年「独眼竜」と自称する契機となったのは余りにも有名。
 この幼少時の不幸で内向的な少年となったが、父・輝宗からは戦国時代に在って稀有と云えるほど愛され、文武に最高の教育を施された(拙作『偉人達の親』参照)。

 長じて天正五(1577)年一一月一五日、元服。「伊達家中興の祖」と呼ばれた第九代当主・大膳大夫政宗にあやかって、「政宗」の諱を与えられ、伊達藤次郎政宗と名乗った。
 二年後の天正九(1581)年四月、相馬氏との合戦で初陣。その三年後の天正一二(1584)年一〇月には弱冠一八歳で父・輝宗から家督を譲られ、伊達家第一七代当主となった。
 この時政宗自身は若年ゆえにまだ早いとして理由に辞退を申し出たが、一門・重臣も政宗家督継承を強く勧めた。そこまで周囲に期待されるほど才気煥発な若大将だった訳だが、やはり若気の至りはあった様で、小浜城主・大内定綱、二本松城主・畠山義継等との戦いでは対戦相手に苛烈な態度で臨み、このことで和議を装って近づいて来た義継のために父・輝宗が拉致され、これを奪還せんとした争いの中で輝宗と義継は共に無惨な死を遂げたのだった。

 怒り心頭の政宗は、輝宗の初七日法要を済ますと、弔い合戦に出たが、輝宗が殺害された際に怒りの余り義継の死体にまでむごい仕打ちをした政宗は周辺大名の恨みを買い、彼等は義継の遺児達に合力した。
 これらの苦難を経て、一進一退を繰り返しながらも正室の実家・田村家や、他家に出向いた一族、累代の重臣達の尽力もあって政宗は天正一七(1589)年に会津の蘆名義広を滅ぼして奥州に覇を唱えた。
 だが、既に中央では関白に就任した豊臣秀吉が日本国の大半を支配下に治めており、二年前の天正一五(1587)年一二月に、関白の名で惣無事令 (私戦禁止令)を発していたこともあって、秀吉の怒りを買った。
 小田原征伐で滅ぼされた北条家同様、伊達家にも秀吉から上洛して恭順の意を示せとの命令が幾度も伝えられ、当初は黙殺していた政宗も戦うか、臣従するかを選ばざるを得ない時が来た。

 結局、政宗は天正一八(1590)年五月九日に会津を発ち、小田原城を包囲中であった秀吉を訪ねた(直前の内紛で、弟・小次郎を斬り、母・保春院を実家の山形に追放するという悲劇に見舞われた)。
 白装束を着て謁見したパフォーマンスもあって、苦労して得た会津は没収されたものの、伊達家本領は安堵された。
 だが、秀吉からは危険視され、翌天正一九(1591)年に勃発した葛西・大崎一揆を蒲生氏郷とともに平定した際には、一揆の煽動者が政宗自身であったことが露見。秀吉の尋問を受け、何とか証拠の品を「偽書状」と云い切って誤魔化したが、米沢七二万石から岩手山五八万石への減転封を食らった。

 その後、文禄の役では派手な軍装で派手好みの秀吉の歓心を買い、浅野長政や豊臣秀次と云った秀吉の身内とも懇意にする等して、豊臣時代を警戒されつつも巧みに生き延びた(逆に秀次事件の際には家督を庶長子・秀宗に譲らされて、隠居させられかねない危機に瀕した)。
 だが機を見るに敏な政宗は慶長三(1598)年八月一八日に秀吉が薨去すると、次の天下人最有力と見た徳川家康に接近。長女の五郎八姫と家康六男・松平忠輝との婚約が為された(このことで家康は他の四大老の弾劾を受けた)。

 そして二年後の慶長五(1600)年、家康が会津の上杉景勝討伐に向かうと政宗もこれに従軍。勿論これは三成の挙兵を誘発せんとする家康の深慮遠謀で、三成が挙兵すると会津討伐軍は即座に西上したのだが、政宗は結城秀康(家康次男)、最上義光(母の兄で実の伯父)とともに上杉景勝と戦った。
 戦後、秀吉に没収された旧領六郡の内、陸奥刈田郡二万石を加増され、六二万石となったが、本来は一〇〇万石になる約束になっていたので政宗は大いに不満だった。

 だがだからといっていきなり家康に刃向かうほど政宗も馬鹿ではなく、慶長六(1601)年に家康から仙台に新たな城と城下町の建設する許可を得た政宗はここを居城とし、力を蓄えるとともに、東北第一の都市・先代の礎を築いた。
 一方で、イスパニア(スペイン)との交易を企画し、慶長一八(1613)年において、イスパニア国王・フェリペ3世の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造した。
 目的はこれに家臣・支倉常長を乗せてイスパニアに派遣し、西洋の進んだ武器を入手して家康に対抗することだったが、これは成功しなかった。

 勿論表向きは徳川幕府に従順な大大名、松平忠輝の頼りになる岳父として振る舞った。一方で、酒、茶、能、和歌といった様々な交流手段を駆使して譜代・外様問わず諸大名間に交流の幅を広げた。

 慶長一九(1614)年、大坂冬の陣では大和口方面軍として布陣。(一時的な偽りの)和議成立後、外堀埋め立て工事を担い、翌慶長二〇(1615)年の大坂夏の陣では騎馬鉄砲隊を駆使して道明寺の戦いで大坂方の猛将・後藤又兵衛を討ち取ったが、真田幸村隊には敗れた。
 またこの戦いにおいて、政宗は大御所・家康、将軍・秀忠に隙あらばこれを倒し、忠輝を三代将軍に立てて天下を狙わんとの野心があったと云われており、天王寺の戦いで明石全登隊と交戦していた水野勝成勢の神保相茂隊約三〇〇人に銃撃を浴びせ、ほぼ皆殺しにしたとも云われており、大坂城内に潜んでいた宣教師やキリシタンが次々に伊達陣に逃げ込んだのを討ち果たしたとも云われている。

 この様に様々な疑惑の有る政宗だったが、戦後、庶長子の秀宗に伊予宇和島藩一〇万石が与えられた(←分家に与えるにしては破格の石高である)。
 だが野心の手駒としていた娘婿・忠輝は血気な性格と、命令不服従の態度を将軍家から咎められ、程なく改易となり、重臣・片倉小十郎景綱を失い、支倉常長に託した欧州交易が失敗したと見るや、外様大大名として生きる道を固めた。
 この動きを見ていた家康は、野心を捨てた政宗は「頼りになる存在」と見て秀忠補佐を託し、秀忠もまた死に臨んで家光への助力を託した。
 だが寛永一一年頃から体調を崩した政宗は食道癌のために寛永一三(1636)年五月二四日、この世を去った。伊達藤次郎政宗享年七〇歳。
家臣:伊達成実&片倉小十郎
氏名伊達成実(だてしげざね)片倉景綱(かたくらかげつな)
生没年永禄一一(1568)年〜正保三(1646)年六月四日弘治三(1557)年〜元和元(1615)年一〇月一四日
地位伊達家重臣伊達家重臣
通称藤五郎、兵部小十郎、備中守
略歴 永禄一一(1568)年、信夫郡大森城主・伊達実元の嫡男として生まれた。幼名は時宗丸。父の実元は伊達政宗の祖父・晴宗の実弟で、母は晴宗の娘だったので、時宗丸は輝宗の従弟にして、甥でもあった。

 ややこしい血縁関係はさておき(苦笑)、時宗丸は輝宗の嫡男・梵天丸(政宗)の一歳年少で、梵天丸の大切で近しい身内にして、学友ともなった。
 天正七(1579)年、一二歳で伊達輝宗を烏帽子親に大森城にて元服。以後、伊達藤五郎成実と名乗った。

 四年後の天正一一(1583)年、実元の家督を継いで大森城主となり、伊達領南方の抑えを担い、二年後の天正一三(1585)年に輝宗が惨殺された後の人取橋の戦いでは、伊達勢が潰走する中にあって奮戦して政宗の退却を助けた。
 翌天正一四(1586)年、大森城から二本松城へ移って城主となり、蘆名義広、大内定綱等と死闘を繰り広げ、数々の軍功を挙げた。

 天正一八(1590)年五月に政宗が小田原に豊臣秀吉の元を訪れた際は黒川城にて留守居役を務めたが、同年一〇月の葛西・大崎一揆鎮圧、一揆煽動疑惑への釈明(その間、蒲生氏郷の人質となった)、文禄の役秀次事件の対応等に尽力した。
 ところが、その直後、成実は突如伏見の伊達邸を出奔した。

 第参頁の石川数正じゃないが、この出奔事件には謎が多い(←こんなんばっかりや……)。
 成実出奔に際しては彼の居城接収のいざこざで死者も出ているが、成実の妻子が殺されたという誤情報まで流布した。出奔先も高野山説・相模説があり、その理由も厳密には謎である。
 ただはっきりしているのは、出奔後の成実がどこにも仕官しなかったことである。慶長五(1600)年関ヶ原の戦いを控え、上杉景勝や徳川家康から仕官の誘いを受けたが、成実は応じなかったし、政宗もこっそり妨害した(笑)。
 ともあれ、成実関ヶ原の戦い直前に、留守政景(政宗叔父)・片倉小十郎(景綱)等の説得によって伊達家に帰参。七月の白石城攻めにも石川昭光(←こいつも政宗叔父)の軍に属して参加した。

 慶長七(1603)年一二月三〇日、片倉小十郎が亘理城から白石城に移ったことを機に成実は旧領・亘理の領主に正式に復帰した。その後は五郎八姫(政宗長女)と松平忠輝(家康六男)婚礼の使者(慶長一一(1606)年)、大坂の陣(慶長一九(1614)年・二〇(1615)年)、最上氏改易に伴う野辺沢城接収(元和八(1622)年)等の大任を果たした。
 寛永一三(1636)年五月二四日に主君・政宗が没すると、第二代藩主・忠宗の下でも一族の長老として時には忠宗名代として将軍徳川家光に拝謁したりもした。

 正保三(1646)年二月九日、養子・宗実(政宗九男)に家督を譲り、同年六月四日に逝去。伊達藤五郎成実享年七九歳。
 弘治三(1557)年、置賜郡永井庄八幡神社(現・成島八幡神社)の神職・片倉景重の次男に生まれた。異父姉・喜多が梵天丸(伊達政宗)の乳母を務めた縁で、一〇歳年下の梵天丸の近侍となった。諱が景綱で、通称の小十郎は代々に受け継がれた。

 景綱の両親は幼少時に他界。二〇歳ほど年の離れていた喜多が母代わりだった訳だが、その姉は文武両道に通じ、景綱も強くその教化受けた。
 そして輝宗の徒小姓を経て、天正三(1575)年に遠藤基信の推挙によって政宗の近侍となり、後に重臣として重用されるようになった。

 以後、輝宗殺害直後の人取橋の戦い (天正一三(1585)年)、郡山合戦(天正一六(1588)年)、蘆名氏を滅ぼした摺上原の戦い(天正一七(1589)年)、豊臣秀吉への小田原参陣(天正一八(1590)年)、朝鮮出兵 (文禄二(1593)年〜慶長三(1598)年)、関ヶ原の戦い (慶長五(1600)年)といった主要な戦の殆どに参戦し、幾度も政宗並びに伊達家の危難を救った(小田原参陣に際しては、家中の大半が秀吉に抵抗するよう気勢を挙げた中、景綱だけが参陣を述べ、政宗に決意させた)。
 また政宗が奥州に覇を唱える過程で陥落せしめた要衝の城代を務め、対外交渉における取次も担当した。

 関ヶ原の戦い後、慶長七(1602)年に一国一城令が発せられ、政宗も仙台城を除いてすべての城を破却したのだが、景綱が城代を務めた白石城(一万三〇〇〇石)だけが残されたが、これは異例中の異例だった(全くの余談だが、現在の北海道札幌市白石区の地名は、幕末に同地に入植した景綱の子孫が名付けた)。

 だが政宗の寵愛と全幅の信頼を受けて八面六臂の活躍をした景綱も寄る年波には勝てず、大坂の陣には病で参陣出来ず、嫡男の小十郎重綱を参陣させた(騎馬鉄砲隊を率いた片倉勢は真田幸村に敗れるも、後藤又兵衛を討ち取るという大功を立てた)。
 戦後、景綱は見舞いに訪れた政宗に、盤石化した徳川政権下で伊達家が用心深く生き残る道を教示し、元和元(1615)年一〇月一四日に逝去した。片倉小十郎景綱享年五九歳。

 景綱がこの世を去ったことで、伊達政宗が完全に野心を捨て、政宗を危険視していた幕府サイドも安心したのは拙作(『偉大なるストッパー達』)に記した通りである(笑)。



両腕たる活躍 本作で採り上げた「殿の両腕」達には様々な毛色がある。その中でも伊達政宗の「両腕」である伊達成実片倉小十郎が特異なのは、生まれた時からの縁が強く、終生に渡ったという意味で稀有だからである(成実は途中でブランクを経てから出戻ったが)。
 各々の項目でも触れたが、政宗程父が教育に力を入れた人物は珍しく、様々な師を選ぶ際に、小姓もまた厳選された訳だが、その小姓が成実小十郎だった。必然、政宗成実小十郎は主従というより、親友に近い間柄だった。

 話は逸れるが、伊達家は政宗の曾祖父稙宗が艶福家で、大勢の娘を奥羽の諸大名や名家に嫁がせたため、近隣大名は殆どが何らかの形で身内だった。だが、このことは云い方を変えれば、身内同士で争うことが珍しくなかった日常を生んでおり、かかる環境下にあっては、正しく「遠くの親類より近くの他人。」で、政宗にとって成実小十郎が最も信頼出来る側近となったのも必然だったと云えよう。
 そんな状況と幼き日からの絆の強さもあって、成実小十郎政宗の代理を務めることも多かった(成実に至っては次代・忠宗の代理も務めた)。
 当然、両者は諸大名の間でも著名で、小十郎は「伊達片倉あり」と称され、成実が一時伊達家を出奔した際には家康も上杉景勝もこれを勧誘した(有名どころ以外にも彼を勧誘した小大名がいてもおかしくはない)。
 そんな両名故に政宗の主要な戦いの大半を共にした。成実の出奔期、病床に伏した小十郎の最晩年を別に考えるなら、「常に一緒にいた。」としても過言ではなかろう。他の頁で紹介している「両腕」達の中には、功績は大きくても時期が短かったり、限定的な分野での「両腕」を務めたに過ぎなかったりした者も多く、その意味では伊達成実片倉小十郎ほど伊達政宗の「両腕」を務め切った存在もなかなか見当たらないと云えよう。



両腕の意義 伊達成実片倉小十郎伊達政宗の「両腕」として実に好対照な側近だった。成実が「動」・「陽」・「武」・「剛」なら、小十郎は「静」・「陰」・「智」・「柔」と云えたが、政宗にとって幸運だったのは両者が己の得意分野以外でもそれなりの能力を有していたことであった。

 独特の個性で云えば血気盛んな家中が多い中、成実よりもストッパー足り得た小十郎の方が「無くてはならない」というカラーが強い(過去作『偉大なるストッパー達』参照)が、小十郎は武勇にも優れ、成実も武勇一辺倒ではなく、剛直故に云うべきは云う男だった(故に一時期伊達家を出奔したが、決して他家には仕えなかった)。
 その武勇にしても、「(体の構造上)決して後退しない」と云う毛虫を兜の前立てにした成実が先頭に立って家臣団を率いたからこそ、小十郎のストッパー振りが活きたともいえる(つまり急先鋒成実を止めることが出来れば、家中の暴走は十中八、九止められるという理屈)。

 また少し穿った物の見方をすると、成実小十郎が突出して伊達家家臣の活躍を披露していたお陰で、他の有能な家臣達が目立たず、秘密裏の活躍が出来たと云える。
 主君・政宗は戦に強いだけでなく、謀略や政治的駆け引きにも優れていた。天下を狙って秀吉や家康の目を掠めて陰謀を目論んだことも一度や二度ではない。そんな謀略の実行者は目立っては意味がなく、発覚すれば伊達家そのものが取り潰されかねないので、発覚直前に切り捨てられることも珍しくない(実行者自身、それを百も承知で引き受けるのである)。となると成実小十郎が諸大名の注目を集めている間隙を縫って軽輩の者が行うことが多くなる。
 挙げれば切りがないので一例だけ採り上げると、支倉常長の遣欧がある。

 成功しなかったが、これは伊達政宗一世一代の天下を狙った大博打で、これが不首尾に終わったことで政宗は天下取りを諦め、徳川政権下の大大名としての存続を図ったと見られている。
 その概要は、支倉をエスパニヤ(スペイン)に派遣し、少し前まで世界最強だった艦隊を借り受け、大坂の陣に際して家康・秀忠・豊臣秀頼の双方を倒し、混乱する事後をエスパニヤの力を得た政宗がまとめることで天下を取る、という壮大で、それ以上に危険の大きい賭けだった。
 事前に発覚すれば徳川・豊臣双方から信頼されずに孤立したのは勿論、艦隊派遣に成功した場合でも、強大な力を持つエスパニヤが日本植民地化を狙って土壇場で裏切ることも有り得ただろう。また、この方法では力による威嚇が大きい故に諸大名が心服したかどうかも疑わしい。

 結果として、支倉はエスパニヤ王フェリペ三世に謁見するも、艦隊借り受けに失敗。成功していたとしても大坂の陣に間に合ったかどうかも微妙であった(支倉がフェリペ三世と交渉していた頃には大坂の陣は終わり、徳川の天下は盤石化していた)。となるとこの支倉の動きは発覚すれば幕府に伊達家を取り潰させる口実でしかない。
 小十郎はこのことを懸念し、遺言時に、支倉が何も知らずに帰国すればとんでもないことになると政宗に伝え、政宗は「支倉は呂宋(ルソン、フィリピン)を経由してから帰ることになっているから、呂宋に人を遣って現状を伝える。」と答えて死の床にあった小十郎を安心させた。
 そして政宗は呂宋に横沢将監を派し、元和六(1620)年に支倉常長は秘密裏の帰国に成功した。目的を果たせず、留守中に日本が禁教の国になっていたことに愕然とした支倉は二年後に失意の内に病死したが、日本人で初めて太平洋を越える航海を果たした彼の事績が長く知られず、今でも多くの人々が「太平洋を横断した日本人第一号は勝海舟」と認識しているのも、伊達家の機密隠匿が徹底したからだろう。

 我ながらかなり穿った物の見方とも思うが、それだけ成実小十郎は己の役割を果たすだけでなく、自分達が矢面に立つことで他の家臣達も上手く活躍させた、真の意味で政宗の無くてはならない「両腕」だったと考える次第である。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新