第拾肆頁 徳川義直with成瀬隼人正&竹腰山城……附家老に始まって

主君:徳川義直
氏名徳川義直(とくがわよしなお)
生没年慶長五(1600)年一一月二八日〜慶安三(1650)年五月七日
地位尾張徳川家当主、名古屋藩初代藩主
通称尾張大納言
略歴 関ヶ原の戦いの戦後処理真っただ中の慶長五(1600)年一一月二八日に徳川家康の九男として大坂城西の丸で生まれた。母は側室のお亀の方(相応院)。幼名は五郎太丸(←尾張徳川家嫡男は代々この名が幼名となった)。
 元服したとき、最初は義知(よしとも)と名乗り、次いで義利(よしとし)、義俊(よしとし)と改め、元和七(1621)年に義直となった(ややこしいので、この頁では「義直」で統一)。

 父が征夷大将軍となる直前の慶長八(1603)年一月に僅か四歳で甲斐二五万石の藩主となった(←実際には入国せず、両親とともに駿府に在住)。
 慶長一一(1606)年に元服。翌慶長一二(1607)年四月二六日、四兄で尾張藩主だった松平忠吉の逝去を受け、尾張藩主になり、行く行くは甲信及び東海道の要としての重要なこの地域を管轄する者となることを家康から期待された。
 程なく、天下の大名達が動員されて新居となる名古屋城が築かれたり、家康の信任厚い平岩親吉(←故徳川信康の傅役でもあった)が附家老として配されたり、と様々な事前準備が為された。

 慶長一九(1614)年、大坂冬の陣にて初陣。翌年の大坂夏の陣でも主に後詰として天王寺に在陣した。元和二(1616)年、父・家康が薨去すると初めて名古屋に入り、平岩親吉の(親吉死後は成瀬正虎竹腰正信の)補佐を受け、特に農政に積極的に励んだ。
 義直は学問を好み、儒教を奨励。武においても柳生利厳から新陰流兵法の相伝を受け、まずまず御三家筆頭に相応しい名君として精進し続けた。

 慶安三(1650)年五月七日、中風により江戸藩邸で死去した。徳川義直享年五一歳。
家臣:成瀬隼人正&竹腰山城
氏名成瀬正虎(なるせまさとら)竹腰正信(たけのこしまさのぶ)
生没年文禄三(1594)年〜寛文三(1663)年五月九日天正一九(1591)年一月二一日〜正保二(1645)年四月三〇日
地位尾張徳川家附家老、犬山藩主尾張徳川家附家老、今尾藩主
通称隼人正山城守
略歴 文禄三(1594)年に成瀬正成の長男に生まれた。  慶長一三(1608)年に将軍・徳川秀忠の小姓となり、四〇〇〇石を与えられた。一方で、父・正成は前年に尾張藩主となった五郎太丸(徳川義直)の後見を命じられており、その縁で正虎も慶長一九(1614)年の大坂冬の陣直後に義直に仕えるように命じられた。

 元和三(1617)年、義直が名古屋へ入るのに同道し、一〇〇〇石を加増。八年後の寛永二(1625)年一月一七日に父・正成が没し、家督と職務を継ぎ、同年八月に父と同じ従五位下・隼人正に任じられた(以後、隼人正は成瀬家に世襲された)。
 以後、尾張家当主・世子の重要行事に同道し、寛永三(1626)年と寛永一〇(1633)年の義直上洛、同寛永一〇年の光友(義直嫡男)の徳川家光拝謁に付き添った。

 万治二(1659)年一二月二七日に長男・隼人正正親に家督を譲って隠居。第二代藩主となっていた光友が隠居料五〇〇〇石を与えようとしたが固辞した(正親が代わって拝領した)。四年後の寛文三(1663)年五月九日逝去。成瀬隼人生正虎享年七〇歳。
 天正一九(1591)年一月二一日、竹腰正時の長男に生まれた。文禄三(1594)年、四歳の時に母・お亀の方が徳川家康の側室となったことで待遇が大きく変わった。

 お亀の方は文禄四(1595)年に仙千代(家康八男)、慶長五(1600)年に五郎太丸(家康九男)を生んだ。仙千代は早世したが、五郎太丸は順調に育ち、正信は異父兄の立場から近仕することとなり、甲斐に五〇〇〇石を与えられた。
 慶長一二(1607)年、前年に元服して徳川義直となった五郎太丸が尾張藩主となったことで成瀬(正成)と共に義直の後見に任じられた(同時に五〇〇〇石を加増されて一万石の大名となった)。

 慶長一六(1611)年に、従五位下・山城守に叙任。同時に尾張藩附家老にして犬山藩主でもあった平岩親吉が嗣子なく没したため、成瀬と共に二二歳の若さで尾張藩の附家老となった。
 その後、名古屋城の普請監督を務め、後に将軍秀忠、藩主義直から一万石ずつ賜り、最終的には三万石を領し、美濃今尾の藩主となった。

 正保二(1645)年四月三〇日に逝去。竹腰山城守正信享年五五歳。正信の職責と地位は次男・正晴が継ぎ、竹腰家は成瀬家同様、幕末まで尾張藩の附家老を務める家柄となった。



両腕たる活躍 尾張徳川家は云うまでもなく御三家の筆頭である。歴史の結果として徳川義直の血統から征夷大将軍が生まれることはなかったが、将軍家(秀忠系)の血脈が途絶えるような際には御三家から将軍を輩出する訳だが、始祖(義直・頼宣・頼房)の兄弟順からしても尾張家が重んじられることは自然の成り行きだった。
 それゆえ、尾張家当主には破格の待遇が与えられる一方で、格式・品格・威厳等において紀伊家・水戸家・その他の松平家に劣ることは許されなかった。

 それゆえ、義直は地位(義直と頼宣は大納言で、頼房は権中納言)、石高(義直・六二万石、頼宣五五万石、頼房二八万石)においても二人の弟より優遇されたが、同時に警戒されもした。
 御三家の反幕疑惑としては、由比正雪の変を紀伊頼宣が裏で糸引いていたのでは?と疑われた話が有名だが、幕府から最初に「叛意があるのでは?」と疑われたのは義直だった。
 寛永一一(1634)年に徳川家光が病床に伏したとき、義直は大軍を率いて江戸に向かったが、この行動に家光のみならず幕閣までもが慌てふためいた。というのも、当時「家康の実子最年長」というプライドを持つ年の近い叔父・義直は家光にとって目の上の瘤でもあった。そんな義直と家光だったから両者は普段から衝突することも有った。

 義直自身は、大軍を率いての上京を「一門の者として不測の事態に備える為。」と釈明したが、それが本音だったのかどうかを完全に判断する術はない。
 いずれにせよ、義直や以後の尾張藩主はその立場を重んじられながらも、幕府から警戒もされた。

 そんな立場の尾張藩主初代たる義直に、「附家老」の立場として、時に義直を助け、時に幕府の手先(早い話、監視役)となることを命じられたのが成瀬隼人正竹腰山城だった(二人以外にも渡辺守綱・石川忠光という二人の附家老がいた。忠光は正信の異父弟で、義直のもう一人の異父兄だった)。
 勿論附家老が宛がわれたのは尾張家に限った話ではない。紀伊家にも水野・安藤・三浦・久野氏が、水戸家にも水野・中山氏が藩主を補佐しつつも、いざという時は幕府に味方をするよう密命を受けて附家老として宛がわれた。

 如何にも板挟みになり易い、苦しい立場の附家老だが、藩主が幕府に忠誠を誓う分に関してはまずまず安泰な地位でもある。まあ、主君を追い落としてその地位を奪う分には相手が悪いが(苦笑)。
 とはいえ、気苦労の絶えない立場でもある。
 徳川義直の最初の家老を務めた平岩親吉は家康の亡き嫡男・信康の側近でもあった。その信康は徳川と織田の狭間で謀反の嫌疑により非業の死を遂げたが、家康は殉死を許さず、義直の後見を命じてその信頼を示した。つまりは御三家を後見するとはそれだけ名誉なことで、重責で、家老でありながら石高は大名格(万石以上)、大名でありながら他の諸大名からは御三家の腰巾着と見られた。

 上述した様に、隼人正はれっきとした犬山藩主(三万石)で、竹腰山城は今尾藩主(同じく三万石)で、地位的にも、城主的にも、側近くで義直と名古屋を守る立場に就いた。
 家康九男にして、晩年の子でもある義直は四兄・松平忠吉の後を継いで名古屋城主となったのが僅か八歳の時。嫡男・信康を切腹させ、次男・秀康を厄介払い的に養子に出した冷酷親父も年老いてからの子は可愛いのか、義直以下の子供達は膝の上において微笑む子煩悩振りだったと云うから、忠吉の名古屋襲封は身贔屓以外の何物でもなかった。それゆえ隼人正正信は妬みに視線から義直を守りつつ、立派な御三家の筆頭として育てなければならなかった。

 歴史の大きな流れから云えば、徳川義直が名古屋藩主vとして、御三家筆頭として君臨した時代、徳川幕府は家光が家康・秀忠の創世を盤石化した時期にあり、島原の乱などを除けば平和な時代で、義直成瀬隼人正竹腰山城が幕府の歴史や日本の歴史に大きな影響を与えた訳ではなかった。
 が、この三名の主従が「御三家筆頭格あるべし」を確立したからこそ、江戸幕府は先達である鎌倉幕府や室町幕府の様な内紛と無縁な平和な時代を背後から築き得た、と云うのは過言だろうか?



両腕の意義 史上に「水戸黄門」や「片倉小十郎」や「山田朝右衛門」が何人もいる様に、「成瀬隼人正」も「竹腰山城」も数多く存在する(何故か竹腰正信の孫で三代目の友正だけ竹腰筑後守だったが………)。勿論これは代々そう名乗って来たからである。
 感心するのは、これが江戸時代初期から明治まで存続したことである。平和が維持された江戸時代でも、御家騒動や無嗣子や武家諸法度違反による改易で中途で途絶えた例は枚挙に暇がない(実際に成瀬隼人正竹腰山城の先輩ともいえる平岩家は嗣子なき故の改易となった)。否、実際に正虎正信の子孫の中には尾張徳川家を押しのけて中堅大名として独立することを画策した者もいた。
 これは(推測でしかないが)正虎正信による両腕・両輪としての役割分担が完璧に近く、同時に子々孫々に続くほど先鞭付けられていたからだろう。
 義直亡き後の尾張徳川家では、二代目光友は家光の息女を正室に迎え、御三家筆頭として威風堂々振る舞ったが、三代目綱誠は食傷で急死し、四代目吉通・五代目五郎太は若くして世を去り、六代目継友は吉宗との将軍位争いに敗れ、七代目宗春は御三家当主として初めて幕府より隠居・謹慎を命じられて藩主の座を追われ、とゴタゴタが続きまくった。
 最終的に尾張徳川家だけが征夷大将軍を輩出出来なかったが、これだけゴタゴタしながら改易や減封を食らうこともなく、御三家筆頭としての立場も失わなかった。
 幕政とは直接関係ないが、幕府崩壊後に尾張徳川家の上屋敷があった市ヶ谷は陸軍省が置かれ、現在も防衛省が置かれている。繰り返しになるが、それだけ義直正虎正信によって築かれた物は目立たずとも盤石なものだったのだろう。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新