第拾伍頁 徳川家宣with新井白石&間部詮房……金と色に惑わされなかった両輪学者

主君:徳川家宣
氏名徳川家宣(とくがわいえのぶ)
生没年寛文二(1662)年四月二五日〜正徳二(1712)年一〇月一四日
地位甲府藩主、第六代征夷大将軍
通称甲府宰相
略歴 徳川幕府四代将軍徳川家綱の御代であった寛文二(1662)年四月二五日、徳川綱重の長男として、江戸根津邸にて生まれた。幼名は虎松(とらまつ)。
 生母の身分が低かったため、綱重は世間を憚って虎松を家臣・新見正信に預けたので、一時は新見左近(にいみさこん)と名乗った。

 九歳のとき、正式に綱重の世嗣とされて徳川家に戻り、同時に元服して伯父にして将軍であった家綱の偏諱を受けて徳川綱豊(つなとよ)と名乗った。
 延宝六(1678)年一〇月二五日に父・綱重が逝去し、一七歳で甲府徳川家の家督を継承した。

 二年後の延宝八(1680)年、重態に陥った家綱に嗣子が無く、後継者問題が持ち上がった際に、家綱・綱重の弟である上野館林藩主・徳川綱吉とともに五代将軍の有力候補となったが、堀田正俊・徳川光圀が「家光公に血が近い」として綱吉を強力に推したため、綱吉が五代将軍となった。
 だが、綱吉ただ一人の男児・徳松が幼くして亡くなったため、六代将軍候補として再度その名が浮上した。綱吉とその生母桂昌院(←綱豊の祖母と犬猿の仲だった)は娘婿で紀州藩主でもあった徳川綱教を後継者に立てたがっていたが、娘・鶴姫も、綱教も早世し、自らの血筋が続くことが期待出来なくなったことで綱豊を世子として受け入れた。
 宝永元(1704)年一二月五日に綱豊徳川家宣と改名して、綱吉養子として江戸城西の丸(←将軍世子の居住場所)に入った。

 宝永六(1709)年一月一〇日、綱吉逝去。家宣は四八歳で第六代将軍に就任した(←歴代徳川将軍の中では家康に次ぐ高齢で就任)。
 新将軍となった家宣は一般に悪政とされた綱吉政治の是正に努めた(生類憐みの令廃止、貨幣の改鋳等)。他にも文治政治を推進しつつ、琉球・李氏朝鮮との外交も精力的に取り組んだが、在職僅か三年で正徳二(1712)年一〇月一四日に流行性感冒で薨去した。徳川家宣享年五一歳。
家臣:新井白石&間部詮房
氏名新井君美(あらいきみよし)間部詮房(まなべあきふさ)
生没年明暦三(1657)二月一〇日〜享保一〇(1725)年五月一九日寛文六(1666)年六月一八日〜享保五(1720)年七月一六日
地位本丸寄合側用人、雁間詰
通称勘解由、白石右京、宮内、越前守
略歴 明暦の大火の翌日である明暦三(1657)二月一〇日、避難所にて上総久留里藩目付の新井正済の子に生まれた。幼名は伝蔵(でんぞう)。長じて君美
 幼少の頃より学芸に非凡な才能を示し、延宝二(1674)年に本格的に儒学で身を立てることを志した。

 延宝五(1677)年、父・正済が二年前に逝去した藩主・土井利直の後を継いだ土屋直樹に出仕しなかった咎で正済・君美父子は藩を追われた(直樹に狂気の振る舞いがあったと云われている)。
 貧困の中で儒学、史学、詩文を学び続けた君美は直樹が改易された後の天和三(1683)年、大老・堀田正俊に仕えたが、程なく正俊は従兄弟で若年寄だった稲葉正休に殿中で刺殺され、その後の堀田家の没落により君美は堀田家を自ら退いて浪人し、独学で儒学を学び続けた。

 浪人中、豪商・角倉了仁や河村通顕等から養子の誘いを受けたりもしたが、君美はこれを固辞。貞享三(1686)年に朱子学者・木下順庵に入門した(既に高名となっていた君美改め、白石は通常入門に掛かる入学金を免除された)。
 順庵は白石以外にも雨森芳洲、室鳩巣といった後に高名な学者になった者達の師でもあり、この伝手で白石は加賀藩への仕官を薦められた。
 だが白石はこれを同門・岡島忠四郎に譲り、自身は順庵から元禄六(1693)年に甲府藩主・徳川綱豊への仕官を薦められ、これに応じることとなった。本来、将軍徳川綱吉から(正確にはその母・桂昌院)から嫌われていた甲府藩の待遇は芳しいものではなく、白石の才能を愛でる順庵的には推挙しかねるものだったが、白石自身が俸禄よりも綱豊の将来性を見込んで順庵に正式に推薦を依頼したのだった。これにより白石綱豊の学問の師にして、最も信頼のおける側近となった。

 後に綱吉は一人娘・鶴姫とその婿で紀州藩主だった徳川綱教に先立たれ、自らの血筋による世襲を諦め、綱豊を正式に養子とすることを決意。白石綱豊と共に江戸城西の丸(←将軍世子の住居)に入った。
 宝永六(1710)年、綱豊改め徳川家宣は第六代征夷大将軍に就任。家宣は綱吉の側用人であった松平輝貞・松平忠周を解任し、白石にその職責の大半を代行させた。
家宣白石間部詮房を引き続き自身の側近として登用し、二人を両腕として正徳の治と呼ばれる政治改革を行った。

 家宣白石詮房の施政は家康以来の旧法と学問的な正論に根差したもので、正論過ぎる故に幕閣には嫌われた。否、正確には(綱吉とは違った形で)恐れられ、白石は「」と呼ばれた。
 そして家宣が没すると、七代将軍・徳川家継の下でも引き続き詮房と共に政治を執ったが、家継夭逝により紀州藩主・徳川吉宗が八代将軍になると白石は失脚した。

 江戸城致仕後、白石は千駄ヶ谷に隠棲した。不遇の中で著作活動に勤しんだ白石『采覧異言』が完了し数日後の享保一〇(1725)年五月一九日に逝去した。新井白石享年六九歳。
 寛文六(1666)年五月一六日、甲府藩主・徳川綱豊の家臣・西田清貞の子として生まれた。
 貞享元(1684)年に綱豊の小姓に抜擢。その後昇進を重ね、元禄一二(1699)年に甲府藩用人となった。

 宝永元(1704)年、綱豊改め家宣が正式に将軍徳川綱吉の養嗣子、将軍世子となって江戸城西丸入ると詮房も幕臣となり、従五位下・越前守に叙任され、西丸奥番頭(書院番頭格)となった。
 宝永二(1705)年一月に西丸側衆、宝永三(1706)年一月に若年寄格兼相模国内に一万石の大名となった。同年一二月、従四位下・老中次席に昇格。家宣が将軍に就任した宝永七(1710)年には高崎五万石の藩主となった。

 家宣が将軍に就任すると新井白石と共に正徳の治を断行。詮房家宣の側用人として先代の柳沢吉保に匹敵する大きな権限を握り、幕政を主導した。
 だが、学問的に正論に固執し過ぎた政治姿勢は幕閣や諸大名にとっては煙たいもので、家宣が逝去すると、後を継いだ徳川家継が幼少だったこともあって抵抗勢力のために改革は遅々としたものになった。
 そして享保元(1716)年に家継が僅か八歳で病死し、徳川吉宗が八代将軍に就任すると、詮房は側用人を解任され、白石共々失脚。詮房は高崎から越後国村上に転封される等、殆ど嫌がらせともいえる冷遇を食らった(吉宗は家宣将軍就任時に左遷された綱吉の側用人を厚遇してまで家宣の業績を否定した)。

 享保五(1720)年七月一六日、暑気あたりで逝去。間部詮房享年五五歳。

両腕たる活躍 本作にて取り上げている様々な「両腕」の中でも、徳川家宣の「両腕」だった新井白石間部詮房は「学者仲間」としてのカラーが強い。特に家宣白石は「師弟」であり、「主従」でもあった(過去作「師弟が通る日本史」参照)。
 三者の結び付きは家宣が甲府藩主(つまり当時は綱豊)で、次期将軍候補ではあっても決して有力とは云えなかった時からの絆だった。水戸光圀等は綱吉就任時から綱豊を六代将軍に推していたが、綱吉は自分の血筋にこだわり、最初は息子・徳松、徳松が夭折すると娘婿の紀伊綱教に継がせたがっていた。
 しかも綱吉の生母・桂昌院は家光側室として、同じく家光側室だった綱豊の祖母と犬猿の仲で、綱豊の将軍就任だけは絶対反対だった。綱吉は親孝行だったゆえに綱教が早世しても後継者を決めず、綱豊が将軍世子として江戸城西の丸に入ったのは桂昌院の逝去後だった。
 もし、徳松が無事成人するか、紀伊綱教が六代将軍に就任していれば綱豊家宣となることなく甲府藩主として生涯を終え、白石詮房も学友的側近としての主従関係の内に生涯を追えたと思われる。まして両名とも高名な割には政治的野心が大きかったとは思えず、家宣の将軍就任に関してはこれといった辣腕を振るった形跡は見られない(周囲の候補者が天寿に恵まれなかっただけ、とも云える)。

 そんな白石詮房だったゆえに二人は家宣の文治政治を純粋なる側近として助けた(ので家宣生前の両名は目立たなかった)。そして皮肉にも家宣の治世と余命が四年を経たずして終ったために、両名の活躍はその遺志と遺児(家継)を引き継ぐ形で世を治めることとなった。
 必然、世人達は家宣の若き未亡人・月光院(家継生母)と幼君を補佐する白石詮房を「上手く権力に取り入った成り上がり者」という色眼鏡で見た訳だが、二人は極めて家宣の遺志と職務に真面目で忠実だった。
 白石は学者としての自己にこだわり、西洋人との接触も辞さなかった。詮房は幼少の家継を補佐する為に「将軍でないのに大奥に入れる男」として月光院との仲を邪推されたが、彼自身は色香に全く迷わない極めて真面目な人間だった。

 逆を云えば、そんな職務一徹人間だった故に、両名は家継夭折後の徳川吉宗が統べる幕閣に居場所を得ることなく、失脚後は不遇の内に人生を終えた訳だが。



両腕の意義 徳川家宣と云う人物が学問好きで、その正道・正論に則った文治政治を行ったことから新井白石間部詮房の両名とも学者っぽく見えるが、詮房はれっきとした武士である(最初の身分は綱豊小姓)。
 家宣に取り立てられたことから高崎五万石の中大名となり、吉宗時代に冷遇されたとはいえ、子孫は幕末までれっきとした大名として存続した。

 出自で色分けされた白石詮房の、理と実の役割分担は概ね上手くいったと見られる。家宣・家継時代の治世にあって、白石は経済(貨幣の金銀含有問題)・外交(対蝦夷、対琉球、対朝鮮)・法制(武家諸法度の改定や、生類憐みの令の順次廃止)を、詮房は人事や政策立案を主に担当した。
 また、役割面だけではなく、人柄的な硬軟でもこの二人は上手く噛み合った。生真面目なのは白石にも詮房にも共通していたが、白石が頑固で融通の利かない性格だったのに対して、詮房はまだ柔軟性があった。
 殊に家宣没後、愛弟子に先立たれた意気消沈と、反甲府派の抵抗に嫌気が差した白石は度々自分の意が通らなければ辞職すると云い立てた。それを宥め、散々月光院との仲を囁かれ、「家継公の実父では?」という陰口すらもどこ吹く風で、家継夭折まで家宣流を淡々と進めた詮房の尽力は大きい。
 偏に白石の頑固さを、生真面目ながらも雪折れしない柳の如き柔軟な姿勢(というか、受け流しの術)を持っていた詮房が上手く補佐した両輪だったと云えよう。治世の短さゆえ、家宣正徳の治がどれほど優れていたかの判定は難しいが、家宣の御代が長ければ、白石詮房の両腕振りと、後世に対する影響がどこまで大きなものになっていたかは興味深いところである。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新