第拾陸頁 徳川吉宗with加納久通&有馬氏倫……捨て子→藩主→将軍への道を共に

主君:徳川吉宗
氏名徳川吉宗(とくがわよしむね)
生没年貞享元(1684)年一〇月二一日〜寛延四(1751)年六月二〇日
地位第五代紀伊藩主、第八代征夷大将軍
通称通称:米将軍、火事将軍、鷹将軍、暴れん将軍(←フィクションの世界の話だって)
略歴 貞享元(1684)年一〇月二一日、徳川御三家の紀州藩二代藩主・徳川光貞の四男として生まれた。幼名は源六
 母・於由利の方は湯殿番で、入浴中の光貞の手がついて源六が出来たとされており、その経緯もあってか、源六は光貞の子として認知されず、家臣・加納政直の子として育ち、かなりの腕白坊主だった。

 やがて光貞に認知され、長じて松平主税頭頼方(まつだいらちからのかみよりかた)と名乗った(←徳川姓が許されるのは御三家当主とその世継ぎのみ)。
 元禄一〇(1697)年、江戸の紀州藩邸に御成した第五代将軍・徳川綱吉に初めて謁し、越前国丹生郡三万石を賜って葛野藩主となった(但し、実際に任地には行かず)。

 宝永二(1705)年、長兄で第三代藩主だった徳川綱教が嗣子なく死去。三兄・頼職が跡を継いだが、その年の内に父・光貞、四代藩主となった兄・頼職までが病死。図らずも二二歳で紀州徳川家を相続し、第五代藩主に就任した(就任直後、新藩主として綱吉に謁見した際に「」の偏諱を授かって徳川吉宗と改名した)。

 宝永七(1710)年四月、藩主となって初めて紀州入りし、藩政改革に着手。藩政機構の簡素化、質素倹約の徹底で逼迫していた紀州藩の財政を再建した。
 紀州藩主としての治世に当たること一〇年六ヶ月、この間に将軍は綱吉→家宣→家継と移ったが、享保元(1716)年に第七代将軍・徳川家継が八歳で早世し、徳川将軍家直系の血筋が絶えたことで征夷大将軍候補となった。
 家格的には尾張継友、家康との血の近さでは水戸綱条とも云われたが、大奥首座・天英院(家宣正室)の推挙を受け、吉宗が第八代将軍に就任した。

 新将軍となった吉宗は本来なら召し上げとなる紀州藩を「御三家は東照神君(家康)から拝領した聖地である。」として、従兄の徳川宗直に家督を譲ることで存続させ、紀州藩士から加納久通有馬氏倫等、高禄でない者を四〇名余り選び、側役として従えただけで江戸城に入城。側近政治に反感を抱いていた譜代大名や旗本から好感を持って迎えられた。
 が、これは表向きで、将軍に就任するや先々代徳川家宣の代からの側用人であった間部詮房や新井白石を罷免。累代の幕閣達も次第にその地位を追われた。
 ともあれ、吉宗は紀州藩主としての藩政の経験を活かし、水野忠之を老中に任命して財政再建に努めた。定免法上米令、新田開発、足高の制等を駆使して米価の安定と幕府収入の安定に努め、法律面では大岡忠相の登用、公事方御定書の制定、江戸町火消し・目安箱の設置等を行った。所謂享保の改革である。
 また大奥の整備(嫁の行き手が望める美女程追放された)、小石川養生所の設立、洋書輸入の一部解禁といった改革も行った。
 庶民にまで強いた、行き過ぎた倹約によってが頻発したり、経済や文化が停滞したりといったマイナス面もあるものの、数々の改革・政策や良くも悪くも行動的だったことから吉宗が「幕府中興の名君」とされる評価は今も変わらない。

 延享二(1745)年九月二五日、将軍職を長男・家重に譲って大御所となった。勿論政治の実権をどうしたかは云うまでもないのだが(笑)、そもそも隠居自体が言語不明瞭で政務に消極的で幕閣や大奥の評判芳しからぬ家重の自立を促したり、その立場を固めたりする意図があったからこれは妥当とも云える(実際、家重は言語不明瞭・政治に消極的とはいえ、馬鹿だった訳ではない)。
 家臣達から評判の高かった次男・宗武、三男・宗尹は部屋住みのような形で江戸城内に留めて別家に取り立て、田安家、一橋家を創設した(吉宗の死後に家重次男・重好の清水家が創設されて御三卿となった)。

 大御所となって六年後の寛延四(1751)年六月二〇日に薨去。徳川吉宗享年六八歳。
家臣:加納久通&有馬氏倫
氏名加納久通(かのうひさみち)有馬氏倫(ありまうじのり)
生没年延宝元年(1673)年〜寛延元(1748)年八月一七日寛文八(1668)年〜享保二〇(1736)年一二月一二日
地位若年寄、伊勢八田藩主御側御用取次、伊勢西条藩主
通称遠江守、角兵衛兵庫頭、四郎右衛門
略歴 延宝元(1673)年、紀州藩士加納政直の子として生まれた。親族である加納久政の養子となり、貞享五(1688)年に二〇〇石の知行を継承した。幼名は孫市(まごいち)。
 藩主・徳川光貞の四男・源六(後の徳川吉宗)が父に預けられたことから、源六にとって文字通り兄にも等しい存在となった。

 勿論源六が光貞に認知されるとその側近となり、相次ぐ父兄の死を受けた源六松平頼方、程なく徳川吉宗として紀伊藩主となると同じく側近の有馬氏倫とともに同藩の改革を支え、知行は一〇〇〇石に昇進した。

 やがて吉宗は江戸幕府八代将軍に就任。当初吉宗は、幕閣の気持ちを測って紀州藩士は四〇名だけを伴って江戸城入りしたが、久通もその一人だった。
 紀州時代から引き続き吉宗側近として氏倫等とともに江戸城に入った久通は御側御用取次となって将軍と老中の間を取り持ち、享保の改革を補佐した。
 勝気な氏倫に比して穏やかで慎み深い性格であり、久通は硬軟分担して幕閣と交わり、巧みに旧幕臣派と新紀州派の間を取り持った(知行も一〇〇〇石のままで、石高上は然程優遇されたようには見えなかった)。

 だがそれも最初だけで、程なく吉宗による厚遇・昇進が続いた。
 享保元(1716)年に伊勢国内に一〇〇〇石を与えられて給料倍増となったのを皮切りに、下総、上野にも石高を与えられ、享保一一(1726)年には一万石に達して大名に列した。
 延享二(1745)年、吉宗が嫡男家重に将軍職を譲って大御所となって江戸城西ノ丸に移ると、これに従って西ノ丸若年寄となって終生吉宗に仕え続けた。

 寛延元(1748)年八月一七日逝去。加納久通享年七六歳。
 寛文八(1668)年に紀州藩士・有馬義景の子として生まれた。
 徳川吉宗が紀州藩主となると側近として重用され、御用役兼番頭一三〇〇石に任じられた。

 享保元(1716)年、吉宗が江戸幕府第八代将軍に就任すると、紀州から幕臣入りした四〇名の一人となり、同じ紀州時代からの側近である加納久通とともに、御側御用取次(←イメージの悪い名を避けただけで、側用人と同義)に命ぜられ、将軍と老中合議の仲介を行い、享保の改革を支えた。

 同年七月二二日に従五位下兵庫頭に叙任され、翌享保二(1717)年一月一一日には下野芳賀郡内で一〇〇〇石が加増されたのを皮切りに、伊勢多気郡・河曲郡、三重郡内、下野河内郡内、上総市原郡内にと次々加増を受け、一万石を領する大名となった。
 享保一二(1727)年閏一月二八日に伊勢西条藩主(←元は吉宗の叔父・松平頼純の家計が藩主を務めていた、紀伊家にとっても所縁の地)となったが、自らは吉宗に近侍して領地に赴かず、藩政は代官に任せていた。
 享保一七(1732)年二月、歩行による供奉を免除される処遇を受けた。

 享保二〇(1735)年一二月一二日、逝去。有馬氏倫享年六八歳。



両腕たる活躍 徳川光貞の処しにして四男に生まれた徳川吉宗は本来なら征夷大将軍はおろか、紀伊藩主になることすら厳しい立場だったが、相次ぐ兄達の早世をきっかけに異例の立身出世を遂げた。
 そして当然の様に、そんな吉宗の立身出世は周囲の者達の身分も大きく影響した。その数は決して多くは無かったが、加納久通有馬氏倫も下級武士から将軍側近、果ては小大名に収まったのだから、歴史の教科書に載らずとも当時の人々が驚愕し、羨む大出世だった。

 だが、かかる大出世は羨望と同時に妬みも生む。同時に、地位や権利を奪われた者の怨みも生む。
 一時的な地位だけならまだしも、一番の痛手は石高を奪われることである。日本六十余州は何処もが大名の統べる地で、新たな大名・旗本が生まれるということは、土地が有限である故に既存である大名の誰かが改易か減封になることを意味する。
 その詳細は研究不足によりここでは語らないが、徳川吉宗以下、紀州から江戸にやって来た一党は常に妬みと敵意に囲まれることを覚悟せざるを得なかった。

 となると、新たに征夷大将軍となった吉宗には幕閣内の(本来の意味での)リストラが必要で、それを滞りなく進める為にも紀州組には確固たる結束が不可欠だった。その為にも吉宗は江戸城入りする際に連れた当初の四〇名は厳選に厳選を重ねたことだろう。
 更に、当時の幕府は(「当時も」というべきか…)財政大ピンチで、吉宗達は急造幕閣にしてこれに当たらねばならなかった。
 同時に、秀忠直系から紀州系に移行した体制を盤石させることも急務だった。吉宗治世下において、本来なら紀州家よりも将軍家に近かった尾張家を初め、紀州閥がコケる様なら「我こそは次の将軍に…」と考えた者も少なからず存在し、吉宗達の落ち度を虎視眈々と狙っていだであろうは想像に難くない。

 そんなストレスもプレッシャーも凄まじい中で、内に外に結果を出さなければならず、敵対する者は敵対するもので容赦なく叩かなくてはならなかった。勿論古今東西非の打ち所の無い政権が極めて稀有だった訳だから、吉宗政権にも裏目に出たり、結果的に失策なったりしたものも少なくなく、百姓一揆も吉宗在任中に三〇〇件を超えたと云う。

 そんな中、吉宗が生まれた時から兄貴分だった久通は陰に日向に吉宗を支え、吉宗の息子達(徳川家重、田安宗武、一橋宗尹)も久通は粗略に出来ず、時には諫言も辞さなかった。
 一方の氏倫吉宗代理として御三家を初めとする諸大名に相対し、信賞必罰に務めた。本家から紀州家への勢力過渡期にあって、旧幕閣勢力をリストラしたり、新たな紀州関係者を取り立てたり、吉宗への当てつけとも云える派手な経済政策に走った尾張宗春を断罪したのも氏倫の手腕によるところが大きかった。
 宗春が吉宗から隠居謹慎を命じられたのは氏倫が亡くなってから三年も後のことだったが、氏倫と宗春は吉宗将軍就任時にともに従五位下に叙された一五人の中にいた。
 当時の宗春(当時の名は松平通春)は先々々代綱誠の二〇男で、吉宗以上に藩主になるなど夢のまた夢の立場(当然部屋住み)だった。つまりは一五人の中で、氏倫と宗春だけが異例な立場にあり、両者は特別な関係にあったと見られており、「御三家当主の強制隠居」という前代未聞の強制措置への準備を整えるのに氏倫以上の適任者はいなかった。



両腕の意義 徳川吉宗の「両腕」たる加納久通有馬氏倫は硬軟両面を補完し合ったと云える。勿論久通が「難」で、氏倫が「硬」なのは云うまでもない(笑)。
 基本性格からして、久通が温厚で慎み深いのに対し、氏倫は切れ者で勝気だった。

 前述した様に、秀忠系の断絶により棚ぼた式に将軍家となった紀州閥は幕府の内外に挙げ足を取らんとする勢力を抱えていた。だが、だからといってそれ等の勢力をただ叩き潰せば良いという簡単な話ではない。そんなことをしては膨大な数の幕臣や諸大名及びその関係者を害さねばならず、極論すれば紀州縁者以外を全滅させなければならなくなる。
 詰まる所、敵対する者・味方に付く者を見極める必要があった。同時に敵対する者と見做した相手も只叩き潰せばいいという問題ではない。最後の手段として武力で叩き潰すという選択肢を持ちつつも、可能な限り戦は避けた上で屈服させることが肝要だった。
 その為には時には力の差で敵愾心を失せさせたり、謀略でもって抵抗不能に陥らせたり、人いった間接的な戦いが必要だった。謂わば硬軟両面で、その両面を担ったのが久通氏倫だった。

 となると、単純比較では氏倫が貧乏くじを引いたことになる。
 誰だって温厚に懐柔させようとする相手と、恫喝・難癖・謀略で降伏・服従を強いる相手では後者に嫌悪感を抱くことだろう。まして久通は将軍・吉宗が兄貴分ともしている相手である。吉宗を挟んだ比較としても久通よりも氏倫の方が格下に映る故に高圧的に出られたらより面白くない相手に映るだろう。

 だが、最高権力者に不平不満の目を向けさせない為にも、その盾となって時に嫌われ役を務める存在も組織に必要なことは多い。そして恐らくは吉宗にも氏倫に嫌な役を担わせている自覚と感謝の念はあった故に彼の出自からは異例ともいえる石高と特権を下賜したのだろう。世の組織に掛かる例は決して珍しくない。この駄文を読まれている方々の勤め先にも、周囲の嫌悪感に比例して好待遇を受けている上司は存在していないだろうか?


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新