第拾漆頁 徳川斉昭with藤田東湖&戸田忠太夫……無念の震災死を遂げた「水戸の両田」

主君:徳川斉昭
氏名徳川斉昭(とくがわなりあき)
生没年寛政一二(1800)年三月一一日〜万延元(1860)年八月一五日
地位水戸藩主
通称景山
略歴 寛政一二(1800)年三月一一日、御三家の一つ、水戸藩第七代藩主・徳川治紀の三男として江戸小石川の水戸藩邸に生まれた。幼名は虎三郎敬三郎とも)。
 治紀が子供達の侍読を任せていた会沢正志斎に学び、聡明さを示した。

 元服時に父から「」の偏諱を受けて松平紀教(としのり)と名乗ったが、三男に生まれ、第八代藩主には長兄・斉脩が内定していたので、長く部屋住みの身だった。紀教が三十路まで部屋住みだったことには、「斉脩に万一が有ったときの控え(←実際にそうなった)」説、「治紀が譜代大名への養子入りを忌避した」説などが有る。

 文政一二年、斉脩が重病となり、水戸家は権力争いが起こりかけたが、学者や下級武士ほど紀教を推し、斉脩の死後遺書が見つかったことから紀教が家督を継ぎ、第九代水戸藩主となった。
 新藩主となった斉昭(←藩主就任に際し、一一代将軍徳川家斉の偏諱を受けて、徳川斉昭となった)は藩校・弘道館を設立。これには門閥派を押さえて、下士層から広く人材を登用する意図が有った。
 勿論これには斉昭擁立に尽力した者達を贔屓にしたもので(笑)、戸田忠太夫藤田東湖、安島帯刀、会沢正志斎、武田耕雲斎、青山拙斎等が軽輩の身から重く取り立てられ、藩政改革に励んだ。

 また斉昭は御三家の当主として幕政にも参与し、全領検地、藩士の土着、藩校奨励、江戸定府制の廃止等を提言した。
 また軍事面でも大いに発言し、大規模軍事訓練を実施し、農村救済に稗倉の設置し、国民皆兵路線を唱えて西洋近代兵器の国産化を推進し、蝦夷地開拓や大船建造の解禁なども幕府に提言した。
 一方で、水戸学に凝り過ぎ、尊王攘夷思想に走ったことで仏教を弾圧したことで敵も多かった。
 結局、弘化元(1844)年、幕命により家督を嫡男・徳川慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられた。

 支持者達の復権運動もあって、二年後の弘化三(1846)年に謹慎を解除され、更に三年後の嘉永二(1849)年に藩政関与も許された。
 そして嘉永六(1853)年六月、ペリーが浦賀に来航。元々海防・国防への意向が強かった斉昭は老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わったが、当然の様に攘夷論を強硬に主張した(当時に江戸防備のために大砲七四門を鋳造し、弾薬・更には洋式軍艦・旭日丸も共に幕府に献上した)

 安政二(1855)年、軍制改革参与に就任。しかし同年の安政の大地震藤田東湖戸田忠太夫が圧死し、両腕を?がれたに等しい状態に陥った。
 だが強硬論者・御意見番としての存在感は色褪せず、安政四(1857)年に阿部正弘が死去し、堀田正睦が老中首座になると、更に開国に猛反対し、開国を推進する井伊直弼と対立した。
 また幕府内では開国・攘夷問題と並行して第一三代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題でも南紀派(紀伊藩主・徳川慶福を擁立)と一橋派(一橋慶喜を擁立)が対立していた。周知の様に一橋慶喜は斉昭の七男で、斉昭がどちらを押したかは云うまでもない(笑)。一方で井伊直弼は南紀派だったので、両者の対立は更に激化した。

 最終的に政争は新大老・井伊直弼に軍配が上がり、安政五(1858)年日米修好通商条約が調印され、第一四代将軍には紀伊慶福が徳川家茂として就任した。
 この強引且つ独断専行的な直弼の強行に憤った斉昭は同年六月に越前藩主・松平慶永、尾張藩主・徳川慶恕、水戸藩主・徳川慶篤(嫡男)・一橋慶喜(七男)等と江戸城無断登城の上で直弼を詰問した。だが逆に直弼から七月に江戸水戸屋敷での謹慎を命じられ、幕府中枢から排除され、二人の息子も同様に処罰された。
 そして翌安政六(1859)年に、孝明天皇による戊午の密勅が水戸藩に下されたことが発覚し、水戸での永蟄居を命じられ、斉昭の政治生命は絶たれた。所謂安政の大獄である。失意の斉昭は万延元(1860)年八月一五日、蟄居処分が解けぬまま水戸で急逝した。徳川斉昭享年六一歳。
 死因は壮年の頃から持病化していた狭心症から来た心筋梗塞だったが、五ヶ月前の三月三日に水戸浪士が桜田門外の変で井伊直弼を暗殺していたことから彦根藩士による暗殺も囁やかれたが、さすがにこれは一笑に付されている。
家臣:藤田東湖&戸田忠太夫
氏名藤田彪(ふじたたけき) 戸田忠敞(とだただあきら)
生没年文化三(1806)年三月一六日〜安政二(1855)年一〇月二日文化元(1804)年〜安政二(1855)年一〇月二日
地位海防防禦御用掛水戸藩家老
通称東湖銀次郎、忠太夫、蓬軒
略歴 文化三(1806)年三月一六日、水戸城下にて藩士にして学者でもあった藤田幽谷の次男に生まれた(長兄が早世したため、実質長男)。

 文政一〇(1827)年(1827年)に家督を相続(進物番二〇〇石)。父同様学者として才を発揮し、彰考館編集や彰考館総裁代役などを歴任した。
 文政一二(1829)年、水戸藩主継嗣問題にあたっては斉昭派に属し、斉昭藩主就任後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進し、天保一一(1840)年には側用人に登り詰め、斉昭の絶大な信頼の下、藩政改革に尽力した。

 弘化元(1844)年五月、斉昭が隠居謹慎処分となると共に失脚。小石川水戸藩邸に幽閉された。その後、小梅藩邸、竹隈町の蟄居屋敷に移され、嘉永五(1852)年にようやく処分を解かれた。
 翌嘉永六(1853)年に黒船が浦賀に来航し、斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府の海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになった。

 だが活動再開の取り掛からんとした矢先の安政二(1855)年一〇月二日、安政の大地震を被災。一度は脱出したが、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、落下してきた梁から母親を守る為に肩で受け止め、何とか母親を脱出させたが、東湖本人は力尽きて圧死してしまった。藤田東湖享年五〇歳。
 文化元(1804)年に水戸藩士・戸田三衛門忠之の嫡男として生まれた。幼名は亀之介。長じて戸田忠敞と名乗った。

 文化一〇年に家督を継いで二〇〇石の小普請組となり、文政三(1820)年に大番組頭、文成一一(1828)年に目付、と昇進を重ねた。
 その後、水戸藩に後継者争いが起こると、前藩主・徳川治紀の三男、松平紀教を擁立。無事紀教が藩主に就任し、徳川斉昭となったことで麾下での更なる出世が約束された。

 以後、藤田東湖とともに斉昭を支え、世に「水戸の両田」と云われ、尊王の志と学識を備えた優れた指導者として知られるようになった(この二人に武田耕雲斎を合わせ、「水戸の三田」とも云う)。

 天保元(1830)年に藩内争議で一時失脚するも、斉昭の意向により同年三月に江戸通事として復帰。以後一〇年間で、格式旗奉行上座用人見習、格式用人列御側用人見習、御側用人、若年寄代、馬廻組頭上座、水戸藩若年寄、郷村懸鷹方馬方支配兼務、と昇進を重ねた。

 天保一一(1840)年より学校造営懸となって弘道館関係の職務に従事。大寄合上座用達、学校造営懸総司を歴任し、領内総検地、海防準備、学校創設、寺社改革において活躍した。
藤田東湖同様、出世も没落も斉昭と共にし、弘化元(1844)年に斉昭が幕府から隠居を命ぜられると忠太夫東湖も免職、蟄居謹慎を命ぜられた。
 同時に斉昭が藩政に復帰すると忠敞も弘化三(1846)年に蟄居から水戸表での遠慮(←軽い謹慎)に減じられた。
 弘化四(1847)年九月二一日、老中・阿部正弘が水戸藩付家老・中山信守を召し出し、水戸藩保守派頭目の結城寅寿の罪状を詰問すると同時に、忠敞東湖の放免を諭したが、この時はならず、嘉永五(1852)年に入ってようやく謹慎が解けた。
 翌嘉永六(1853)年、斉昭が幕府により海防参与を引き受けると、忠敞東湖両名も幕府海岸防禦御用掛、江戸詰となり執政に準ずる身分となった。海防掛として老中以下幕臣の岩瀬忠震等と異人来襲の危機につき協議に参画するなど活躍し、同年一一月に「忠太夫」の名を賜った。

 安政元(1854)年一月、大寄合頭上座用達となり、再び藩政改革を執政し、弘道館の造営や、領内検地、黒船来航などによる海防警備などに幅広く活躍した。しかし、安政二(1855)年、安政の大地震によって、倒壊した小石川水戸藩邸の下敷きとなって圧死した。戸田忠太夫忠敞享年五二歳。



両腕たる活躍 徳川斉昭と、彼の「両腕」としての藤田東湖戸田忠太夫を考察するのに当たっては、御三家における「水戸徳川家の在り様」を把握する必要がある。

 一概に「御三家」と云えば徳川家康の晩年に生まれた義直・頼宣・頼房を始祖とする尾張・紀伊・水戸の徳川家で、秀忠系である将軍本家の血統が途絶えた際の「保険」にして、三〇〇藩の筆頭親藩として将軍家を支える家系であるとされている。
 勿論その通りなのだが、一部には「御三家」を「将軍家・尾張家・紀伊家」とする向きもあり、いずれの説においても水戸家は別の立場が振られている。そしてこれには、始祖・徳川家康による血脈とは別の意味での「保険」としての狙いが水戸藩にはあったからと見られている。

 云うまでもなく幕府とは武家政権で、言葉は悪いが、天皇の家臣に過ぎない者が暴力を背景に実権を握ったものである。当然皇室や五摂家と云った上級貴族の中にはこの実態を快く思わない者も少なからず存在し、口や態度には出さずとも燻ぶった気持ちを隠し持ってた者も多くいたであろうことは想像に難くない。
 となると、後鳥羽上皇や後醍醐天皇の様に倒幕を目論む皇族や、朝廷を錦の御旗として推戴して幕府に刃向わんとする有力大名がいつ現れてもおかしくない。そんな折、御三家は幕府本家に最も近しい身内として幕府と共にこれに抵抗するべき存在となるのだが、本当にやばい時には水戸藩には朝廷側について、幕府が敗れても徳川家が朝臣として残れるようにしていたと云うのが、水戸藩に密かに命ぜられていた役割だというのである。

 勿論、直接的な証拠はない(有ったら、「密命」や「密かに」等とは記されない)。
 ただ、状況証拠にしかならないが、二代目水戸光圀は朝廷に対して深い尊崇の念を示し、彼以降水戸藩の一大事業となった『大日本史』は南朝を正統とし、楠木正成を大忠臣として讃えた。清和源氏→新田源氏の流れを汲むと自称する立場の者が編纂したにしては妙な話である。
 そして周知の様に、幕末の水戸藩は斉昭の攘夷論を初め、朝廷の意を重んじたかのような論を強く主張し、強引に通商条約締結を進めた井伊直弼を初めとする幕閣とは対立し、条約締結後、攘夷を唱える朝廷は水戸藩に戊午の密勅なる密命を下しすらした(←井伊直弼は執拗にこの勅書提出を命じていた)。
 これら一連の動きを見れば、水戸藩が本家・尾張家・紀伊家とは一歩距離を置いたところで朝廷と独自のパイプを保持していたとしても不思議ではない。

 そんな水戸藩では「水戸学」なる神道・朱子学・国史学を融合した独自の学問が発達し、光圀の時代から藩校・講道館が作られ、佐々宗淳・安積澹泊(有名な助さん・格さんのモデルとなった人物)を初め、多くの学者が養成・輩出された。

 長々と水戸藩の学問的背景を記したが、藤田東湖戸田忠太夫もかかる背景の下に徳川斉昭の「両腕」として、御用学者として世に出た。
 殊に時代は、外国への好悪がどうあれ、外交・国防を睨むことが必要とされていた。
 開国するならするで攘夷派を一掃するだけの強権発動力が必要だったし、鎖国を貫くなら貫くで時代の一歩も二歩も先を行く近代国家体制を整えた欧米に抗し得るだけの体制確立が急務だった。
 そして、古今東西国内が一つの意見で(表向きはともかくとして)統一されることは極めて稀有で、国政において持論を貫くには力(権力・財力・暴力など)なり、大義名分なり、世論の支持なりが必要だった。

 云うまでもなく、斉昭が立ったのは鎖国を貫くもので、その為にも国防強化を主張し、東湖忠太夫がその論を固めた。
 特に天才肌で、性格的にも純粋性の高かった東湖は水戸学の大家として斉昭の主張を強化しただけでなく、水戸藩士や全国の尊王攘夷派にも大きな影響を与えた。何せ、父親の幽谷からして文政七(1824)年に大津(現・茨城県北茨城市)沖に英国の捕鯨船が現れた際には東湖船員の暗殺を命じた程だから、藤田父子の外国人嫌いは筋金入りであった。
 一方で、忠太夫の方は実務家としての活躍の方が大きかった。というのも、先代から武士となった藤田家に対し、戸田家は代々の士分で、忠太夫の実弟・安島帯刀や嫡男の銀四郎は後に水戸藩家老になっている様に、学問を別にしても藩内において然るべき地位と人脈を持っていた。
 故に忠太夫は藩校・弘道館の造営、領内検地、黒船来航に端を発する海防警備など政務に広く携わった。

 かように「両田」は学問の奨励と先導を主軸に藩論・世論を盛り上げ、徳川斉昭の主張を支え、藤田東湖が様々な書を著し、戸田忠太夫がそれらを藩政に浸透させたと云えよう。
 攘夷派と開国派に対する是非は別にして、東湖忠太夫の勤皇振りは朝廷にとっては感涙もので、安政の大地震で両田が落命した際には孝明天皇は大いに嘆き、後に明治天皇は両田を初めとする水戸藩士遺族に恩賜を行った程だった。



両腕の意義 水戸藩には藤田東湖戸田忠太夫以外にも徳川斉昭を支える優れた家臣は数多くいた。だが安政の大地震で学識深く、朝廷や諸大名にも顔の利く両田を失ったことは藩内の強硬論を抑え難くなった。
 一方でも幕閣にあって開国派でありながら、冷静で人当りも良かった若き老中首座・阿部正弘が夭折し、強硬論者の井伊直弼が大老となったことで水戸藩の斜陽度は一気に高まってしまった。

 やがて安政の大獄を迎え、斉昭は永蟄居に処せられ、それが解けぬまま斉昭桜田門外の変の五ヶ月後にこの世を去った。以後、幕府並びに武家政権の命運は終息に向かった訳だが、些か過言を承知の上で論述すると、東湖忠太夫の横死こそが、水戸藩と幕閣の直接衝突を加速させ、両者共倒れの始まりとなったと云えなくもない。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新