第参頁 徳川家康(壮年期) with本多作左衛門&石川数正……直言居士と汚れ役

主君:徳川家康
氏名徳川家康(とくがわいえやす)
生没年天文一一(1543)年一二月二六日〜元和二(1616)年四月一七日
地位征夷大将軍、源氏長者、大納言、内大臣、太政大臣、他官職多数
通称次郎三郎。狸親父、大御所
略歴 超有名人物に就き、コイツも省略(笑)。



家臣:本多作左衛門&石川数正
氏名本多重次(ほんだしげつぐ)石川数正(いしかわかずまさ)
生没年享禄二(1529)年〜文禄五(1596)年七月一六日天文二(1533)年〜文禄二(1593)年
地位松平家重臣松平家重臣
通称作左衛門、鬼作左与七郎、出雲守
略歴 享禄二(1529)年、松平家累代の家臣・本多重正の子として誕生。
 元服する頃には主家・松平家は主君・広忠が殺され、その後継者である竹千代(家康)も今川家の人質として、墓参りの為の一時帰国さえ許されない程の凋落振りで、本多作左衛門重次も他の松平党共々辛酸を舐める青春を送った。

 やがて永禄三(1560)年の桶狭間の戦いを機に若殿・松平元康が三河に帰国すると、天野康景、高力清長と共に三河三奉行の一人として、行政面に力を発揮した。高力が「仏」、天野が「どちへんなし」と呼ばれたのに対し、作左衛門は「鬼」と呼ばれた。
 勿論、「鬼!悪魔!」的な意味で「鬼」と呼ばれた訳ではなく、非道な事を許さず、依怙贔屓もせず、「鬼」の如く厳格且つ公正だったことをそう呼ばれたのである。

 「鬼」と呼ばれた厳格さは三河領民に対してだけではなく、家康に対しても、女・老人に対しても同様で、見事なまでの直言居士分で諫言を繰り返し、家康の正室・築山殿が家康の子を身籠った侍女を殺そうとした際にはこれを庇って、匿い、秀康を産ませた。
 そんな直言居士振りに悲鳴を上げながらも家康は良く良く信頼したが、誰彼構わぬその姿勢は敵の天下人・豊臣秀吉に対しても変わらず、秀吉を立てる家康を「媚びるな!」と秀吉の前でも痛罵した。
 更には秀吉が妹を継室に、実母を人質に三河に送ってまで家康を上洛させた際には、家康の身に万が一のことがあった際には母と妹を焼き殺す姿勢まで見せたため、完全に秀吉の逆鱗に触れてしまった。

 小田原征伐後に秀吉の圧力を受け、家康は関東へ移封後に蟄居させるように作左衛門を下総相馬郡井野(現:茨城県取手市井野)に追いやらざるを得なかった。既に老齢で、長年の戦働きで眼を初め、体の各所を欠損していた作左衛門は文禄五(1596)年七月一六日に逝去した。本多作左衛門重次享年六八歳。
 天文二(1533)年の生まれで、父は河内源氏・八幡太郎義家の流れを汲む石川右馬允康正。主君となった徳川家康とは一〇歳違いで、家康が六歳の時に人質として今川家に赴いたときには数正も近侍として同行した。

 勿論人質時代の辛酸を共にした主君の覚えは目出度く、永禄三(1560)年に今川義元が桶狭間の戦いで戦死し、松平元康(家康)が独立した際、数正は今川氏真と交渉して、駿河内で人質とされていた家康の妻子を連れ戻すという大任を果たした。

 二年後の永禄五(1562)年には織田信長との清州同盟締結にも貢献し、翌永禄六(1563)年の三河一向一揆勃発時には父・康正が信仰から一揆側についても数正家康に尽くした。
 これには家康も感じ入ったらしく、石川家の家督自体は叔父の石川家成に委譲されたが、数正自身は戦後に家康から家老に任じられ、酒井忠次、石川家成らに次いで重用されるようになった。

 家康の嫡男・信康が元服するとその後見人となった。武将としても姉川の戦い三方ヶ原の戦い長篠の戦いといった主要な戦いに従軍して活躍した。
 それ等の武功・信頼もあって天正七(1579)年に岡崎城主にして家康嫡男である信康が切腹を命じられるという悲劇が起きると、岡崎城代となって信康が担った役目を代行した。

 天正一〇(1582)年に織田信長が本能寺の変で落命し、織田家が羽柴秀吉に乗っ取られると数正は対秀吉交渉を担当。天正一二(1584年の小牧・長久手の戦いにも参加した。
 だが、天正一三(1585)年一一月一三日、数正は突如として家康の下から出奔し、秀吉の下へ逃亡した。この出奔の理由は全くもって謎で、諸説囁かれているが、どれも決め手に欠けている。徳川家に好意的な作品では秀吉の懐に飛び込むための偽降とすらされている(事の真偽はともかく、そうとでもしないと話の整合性が付けられないぐらい意外だったのである)。

 いずれにせよ、徳川軍の機密を知りまくる数正出奔は徳川家の一大事で、徳川軍は軍制をかねてから恐れ、尊敬していた武田流にて再編成した。
 一方、秀吉家臣となった数正は初めに河内に八万石を与えられ、天下統一によって家康が関東に入ると信濃松本一〇万石に加増・移封された。そしてその三年後の文禄二(1593)年に逝去した。石川数正享年六一歳。



両腕たる活躍 松平元康が三河岡崎城主として返り咲いた永禄三(1560)年、元康が一八歳だったのに対し、本多重次は三二歳、石川数正は二八歳だった。
 世代交代が為されつつあった松平家中にあって、先代広忠以来の重臣は老齢で一線を退き、元康と今川人質時代を共にした諸将(鳥居元忠・大久保忠世等)が中核を為しつつあった中では作左衛門数正は中堅どころとして丁度いい年齢だった。

 三河に返り咲き、松平元康から徳川家康になった頃の家中を鑑みると、前述の世代交代、長年今川への平身低頭を強いられたことへの鬱憤、ようやく訪れた再起への期待もあって、徳川家中は良くも悪くも「若者揃い」だった。
 そんな中にあって作左衛門数正とて若くない訳ではなかったが、純粋なまでの愚直揃いの松平党にあって、謀略も辞さない駆け引きや、家中に救う醜い対立や血気に逸る動向を抑えられるのはこの両名しかいなかった。

 周知の通り、桶狭間の戦いにおける今川義元の戦死を受けて元康家康として今川と手を切り、織田信長とくっついて三河から遠江、駿河に領土を広げ、大大名への一歩を踏み出した訳だが、勿論それは順風満帆な日々ではなく、その苦難を乗り越え得たのには両名の存在が大きかった。
 取り分け、今川との手切れは当初相当な困難の中にあった。
 桶狭間の戦いに従軍したとき、駿府には元康の正室・築山殿と嫡男・竹千代(信康)、長女・亀姫が残されていた。名目は義元の身内として今川氏真と共に銃後の守りを固める立場に立たされていたが、勿論実質は裏切らない為の保険=人質であった。
 当然の様に氏真は元康に対し駿河への帰還を命じ、同時にそれは妻子が危険に曝されていることを意味した。
 結果を云えば、築山殿・竹千代・亀姫は人質交換の形で元康の元に返された。家康が捕らえた鵜殿長照の妻子との交換だった訳だが、鵜殿の妻子を捕らえた段階で明らかな今川家への反逆を行ったことになり、人質交換と云っても決して簡単な話ではなかった。
 この困難な交渉を成し遂げたのが数正だった。

 数正は、家康が三河に籠ったのを織田の追撃を防ぐ為とし、鵜殿を討ったのも誤解で攻められた故の正当防衛と主張し、一方で暗に鵜殿の妻子の命の危険を仄めかして粘り強く交渉した。
 その果てに妻子は家康の元に帰れたが、後にこれが人質奪還の為の方便だったことがばれ、築山殿の父・関口親永が切腹を命じられ、駿府に残されていた徳川の縁者が数多く磔にされた………。この事実を見ても数正が担った交渉が如何に困難なものだったかが窺い知れるというものだろう。

 そんなこんなでようやく三河領主としての新たなスタートを切った徳川家だったが、新たに織田と結んだとはいえまだまだ薄氷を踏む日々が続いた。
 同盟を結んだとはいえ、織田家は累代の仇敵で、徳川家中の父祖には織田との戦いで命を落とした者も多く、それは織田家にとっても同様だった。勿論、この時点で完全に今川を敵に回しており、その背後には同盟国である武田と北条がいた。
 追い打ちを掛ける様に三河一向一揆が勃発し、後の世こそ殆ど裏切り者を生まなかった徳川家中がこの時ばかりは半数近くが一揆勢に着いた(信仰上の問題で)。

 そんな中、家康は本拠を三河と遠江の双方の睨みの利かせられる曳馬野(後の浜松)に移した。だが勿論父祖伝来の地である岡崎を等閑には出来ず、そこには嫡男の信康を置き、それを良く支えたのが作左衛門だった。

 浜松に本拠を置いた家康に替わって岡崎を治めることは決して容易な話ではなかった。まだ若い信康は血気盛んでこれをしっかり押さえられる重臣が必要だった。また彼の母・築山殿は今川義元の姪ゆえに織田を怨み、信康の正室が信長の娘であることを苦々しく思い、明らかに日頃の言動にその意を露わにしていた。
 加えて、三河一向一揆の残党にも目を配らなければならなかった。そんな岡崎を治めるのに家康が起用したのが三河三奉行で、作左衛門はその筆頭だった。三河三奉行については作左衛門の「略歴」で紹介しているので繰り返さないが、全くカラーの異なる三人の奉行が内輪もめを起こすことなく、それぞれの個性を遺憾なく発揮出来たのには作左衛門の統率力によるところが大きかったのは想像に難くない。

 かくして作左衛門数正は様々な意味で「若い徳川家」を成長するのを支え、今川・織田・武田・北条の狭間で決起と困惑に戸惑う家中にあって家康の最も信頼がおける重臣として活躍したと云えよう。



両腕の意義 組織が小さい内は頭が極めて有能なら何とか事は足りる。だが肥大化したとなると如何に有能なワンマンリーダーが率いてもそれだけでは足りない面が出て来る。
 勿論組織が肥大化すればそれを構成する面々にも様々な個性の持ち主が出て来るので、率いるリーダーにも、中堅どころにも様々なカラーの持ち主がいた上で、彼等が一枚岩であることが望ましい。

 このことが口で云うほど簡単ではないことは余人の言を待たないだろう。戦国大名家に限らず、現代の企業にも云える問題であり、難題でもある。
 本多作左衛門と石川数正は見事にこれに成功した訳だが、もう一点見落としてはならないことがある。それは両者が自然の内に後継者を育て上げていたこと、他の家臣が苦手とした「汚れ役」が担えたことにある。

 本来、作左衛門数正家康の代理を務める「三河城代」と云える立場だった。具体的に云えば作左衛門は三河三奉行の筆頭を務め、数正は信康自害後の城代を務めた。勿論二人は三河にありつつも家康に信頼され、彼を支えていた訳だが、小田原征伐に前後して彼等は自分達の役目をほぼ終えた。

 その最後の仕事は、誤解を恐れずに云えば「徳川家の体面を保ちつつ、秀吉に膝を屈する」ことだった。
 豊臣秀吉が北条家を討伐せんとしたとき、家康小牧・長久手の戦いを経て秀吉と和睦し、関白として彼を立てる一方で、次女を北条氏直に娶せて同盟を結んでいた。
 徳川家中には小牧・長久手の戦いの戦いで戦術的勝利を得ながら関白の権威の下風にあることを面白くなく思う者も多く、これを機に北条に与して秀吉に対抗せんと考える者も多かった。
 そんな中にあって作左衛門家康に代わって秀吉への反骨を示し、数正は(徳川家中の不満と冷視線を受けながら)着々と豊臣政権下における徳川家の立場作りに努めた。

 その後、数正は謎の出奔を遂げ、作左衛門は秀吉を憚るように上総の片田舎に隠居し、ひっそりと天寿を全うした。そしてその時、家康の両腕は本多正信・大久保忠隣にシフトしていた。
 これは単純な世代交代ではない。忠隣は代々徳川家に仕えてきた大久保家の当主で、重臣となるのに問題は無かったが、大久保家の人間達は槍働きでの奉公が多く、忠隣が政治的にも優れていたのは異色だった。また正信(同じ本多家でも作左衛門・平八郎忠勝とは別系統。勿論先祖は共通するが)は三河一向一揆の際に徳川家を出奔しており、「出戻り」の立場で、おまけに戦場働きの少ない男だった。

 そんな正信が家康の懐刀足り得たのには、家康の依怙贔屓ともいえる信頼が必須だったが、そんな家康の決定に不承不承ながらも家臣団が従う土壌を作左衛門数正が作り上げていたからだった。
 それは初期の愚直ともいえる徳川軍団において作左衛門数正がブレーンとしての役割を一身に背負い、そんな人材の必要性を暗に家臣団に浸透させていたから、と薩摩守は見ている。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新